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日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


2008年12月号 横浜トリエンナーレ

横浜トリエンナーレ

                                                            Text: 樋口ヒロユキ


 
 
 
■パフォーマンスを中心にした企画

 私が横浜トリエンナーレに行ってきたのは、終了直前の金曜日の真っ昼間である。当然、人は少ない。なんでこういう日を選んだかというと、マシュー・バーニーの新作映像が展示されてて、それが長蛇の列になっているという噂を聞いたからである。横トリの人気作品の渋滞といえば、前回、高嶺格の作品の前に1時間待ちの行列ができたのが有名で、あれと同じ目に遭わされてはたまらんというので、人の少なそうな日を選んだのだ。
 会場に入っていきなり出くわすのが、ヘルマン・ニッチェ(ニッチ、ニッチュとも) の《オージー・ミステリー・シアター》である。ご存知の通り、ニッチェは犠牲獣を解体して、臓物やら血液やらをドバドバぶちまけ、全裸のパフォーマーとともに秘境的な儀式を展開するオーストリアのアーティスト。映像ではワッショイワッショイ、焼き肉でいうホルモンの部分を、絵の具とともにこねくり回してぶちまけている。この彼のパフォーマンスをまとめた映像作品と、「儀式」の時に使ったとおぼしい「聖具」の類い、そしてドローイングが展示されている。ブースの入り口には垂れ幕が下がっていて「お子様はご遠慮ください」的な注意書きがついているものの、基本的に出入り自由。まさに張り手のような展示である。
 なんでイキナリこういうものが出てくるかというと、この人はパフォーマンスをアートとしてやりだした最初期の人だからだ。そう、今回の横トリのテーマは、パフォーマンスの紹介に力点を置いたもの。通常のドローイングやインスタレーション展示も多数あるのだけれど、かなりの部分が映像作品だったのである。
 近年の大型の展覧会では、オープニングにパフォーマンスを上演することが、いわば定石のようになっているし、舞台芸術なのか美術なのか判然としない、ダムタイプのようなアーティストも増えてきた。2006年にはビデオ・アートの先駆者ビル・ヴィオラの大規模な回顧展が開かれたし、つい先だっても大阪の国立国際美術館で「液晶絵画」という企画展があったばかり。たいていの作家がキャリアのなかで、一つや二つは映像作品を作っている。もはやアートは静止した対象を見れば済むという時代ではなくなっている。
 今回の展示はそうしたアートの「パフォーマンス化」ともいうべき変貌にスポットを当てたもので、「タイム・クレヴァス」とタイトルが付されている。音源を作品の一部に組み入れた作品が数多く目を引いたほか、具体美術協会土方巽といったクラシックな作品から、チェルフィッチュのような注目の若手まで、幅広いセレクトも遺漏のないものだった。とはいえ、総論ばかり書いても面白くない。印象に残った作品をいくつか紹介してみよう。


■《ヴェールの守護者》マシュー・バーニー

 オペラハウスに廃車やら生きた牛やら、巨大なワックスの塊やらを登場させ、インスタレーション展示を舞台上に完成させるまでのパフォーマンス。フルオーケストラの演奏をバックに、生きた犬を頭の上に座らせたマシュー・バーニーが、全体の進行をコンダクトする。最後は舞台上にいた全裸の女性が、肛門からチョコレート色の塗料を排泄して終わり。正直、好き嫌いは分かれるだろうが、否応なく網膜に焼き付く作品である。


■《レトロスペクティブ・パブリック・エナミー》ティム・リー

 今回の出品作で多かったのが、音楽や音を作品のなかに組み込んだ作品で、これもそうした作品の一つ。韓国出身、カナダ在住の作家で、2台のテレビを使った作品。どちらのモニタにも作家本人がドラムを叩いている映像が映っているが、そのテンポがほんのコンマ数秒ズレたり戻ったりする。完全にテンポアウトすることはなく、まるでディレイがかかっているように聞こえるのがミソ。
 西洋のポップカルチャーをあえてアジア人である自分コピーする、その乖離ぶりを問題にして制作している作家だそうで、有名なラップ・グループ「パブリック・エナミー」をタイトルに冠したのも、そうした理由からなのだろう。ディレイのように聞こえるズレが、彼自身の抱える文化ギャップと対応している、のかもしれない。単純に面白いし、何より楽器が巧いので、聴いていて気持ちが良かった。音を使った作品のスマッシュヒットだろう。


■《レゾナンス》小杉武久

 これは面白かった! 四角い箱のなかにネオン管が仕込まれてチカチカ点滅していたり、透明なプラスティックのキャンヴァスに、発信素子のようなものが取り付けられたりして、そこからカエルの鳴き声のようなノイズ音がかすかに鳴ってるだけの、非常にミニマルな作品。なのだけれど、箱から無数のケーブルが伸びていて、部屋の隅のBOSSのエフェクターに接続してある。
 原理的にはFM放送の音にエフェクトをかけてノイズにしてしまい、それを光に変換しているのだ、とのこと。レベル・インジケーターと同じ仕組みで、いわばラジオが展示してあるのと変わらないのだが、それに丁寧にアナログ変換を掛けていくだけで、ここまで不思議なイメージが出てくるのか、という驚きがある。もとがFM放送だけに、光も色も常にアトランダムに変化し続けており、見ていて飽きない。さすが東京芸大楽理科出身、フルクサスメンバーの大ベテランである。


■《あ=ら=わ=れ》ケリス・ ウィン・エヴァンス & スロッビング・グリッスル

 天井からモビールのように釣り下がった円盤状の作品が振動して、微細なノイズを奏でている。ここまでなら小杉武久の《レゾナンス》と同じだが、円盤の向きがアトランダムに回転することで、音の飛ぶ方向がどんどん変わっていき、二度と同じ音像が現れることがない。いわば音のモビールである。音を担当したのは70年代末イギリスの伝説的ノイズバンド、スロッビング・グリッスル。2007年に再結成したので、そのときに作った音源なのかもしれない。
 ケリス・ ウィン・エヴァンスはキャリア的に面白い人で、もともとポップカルチャーの文脈にいて、そこから美術に移ってきた人だ。ウイリアム・バロウズやブライオン・ガイシンのようなビート系作家と交流があって、ガイシンの手になる瞑想装置「ドリームマシン」についての実験映像を、デレク・ジャーマンと一緒に作ったりもしている。つまりバロウズにおけるカットアップ、ガイシンにおけるドリームマシンのような、情報や知覚の組み替えから生まれるイメージに、ずっと興味を持ってきた人である。この作品も「音の位相の偶然による組み替え」という意味で、同じ文脈で捉えることができる。
 彼は90年代にYBA (Youg British Artists)、つまりデミアン・ハーストらと同じグループの一員として、美術界に入ってきた人だ。先頃、金沢21世紀美術館で展覧会があったロン・ミュエックも、もともとはセサミ・ストリートのマペット職人から美術界に転じたYBAの一人だった。こういう人を次々に引っ張ってきたYBAの仕掛人、チャールズ・サーチの眼力は本当にすごいし、それを買い支えたイギリス人の感性もすごいと思う。日本のアートシーンはまだまだ20年遅れだ。


 
  ケリス・ウィン・エヴァンス &スロッビング・グリッスル「A=P=P=A=R=I=T=I=O=N」2008年Installation view at Yokohama Triennale 2008Photo: Norihiro UenoCourtesy of the Artist and Jay Jopling / White Cube, London
 
■《17-1》ミケランジェロ・ピストレット

 部屋のぐるりに掛けられた鏡が17枚。どれも粉々に叩き割られ、床にガラスが散乱している。中心の1枚だけが無傷のまま残っているけど、その前にはハンマーが一つ。当然ながら割れたガラスの破片の飛び散り方は1枚ごとに違うわけで、その絶妙なハーモニーがとにかく美しい。さまざまに解釈できる作品である。
 「ガラス - 割る」という関係はステレオタイプではあるけれど、それだけに力強い緊張関係がある。鏡を会場に設置してから叩き割って制作した、1回こっきりの行為の痕跡という意味では「書」に近い。パフォーマンスというと、つい映像展示を考えがちだけれど、村上三郎の紙破りや、ヨーゼフ・ボイスの植樹のパフォーマンスのように、その「痕跡」を展示した美しい作品はいっぱいある。パフォーマンスの提示の仕方そのものを考えさせられた作品である。


 
  ミケランジェロ・ピストレット17マイナス12008年Photo: 上野 則宏Courtesy of Galleria Continua, San Gimignano / Beijing / Le Moulin
 
■《着陸と着水—Ⅶ YOKOHAMA 絵画列による》中西夏之

 これも「行為と痕跡」について考えさせる、きわめて優れた作品である。ただし中西夏之という人のキャリアについて多少の知識があった方が、その楽しみは倍加するだろう。
 中西はかつて「ハイレッドセンター」なる前衛グループを結成。山手線内で白塗りになってオブジェを舐めたり、都内の道路を雑巾掛けしたりと、抱腹絶倒のパフォーマンスを繰り広げた一人である。メンバーはほかに、いまでは作家として活動する赤瀬川原平や、国立国際美術館の柱に描かれた「影」シリーズで、関西の美術ファンにおなじみの高松次郎。ハイレッドセンターは「ハイ=高松、レッド=赤瀬川、センター=中西」のシャレである。
 また、中西は土方巽や初期の山海塾でも舞台美術を担当しているので、ダンスファンにはそちらの方で有名かもしれない。つまりはきわめて空間的であり、パフォーマティブな傾向の強かった作家である。
 こうした作品を手がける一方、70年代以降の中西は平面回帰を強め、白、紫、黄色からなる、最小限のブラシストロークで構成された油彩画が制作の中心となる。三連祭壇画のように展示されることの多いこのシリーズは、いわばごくふつうの抽象絵画でありながら、きわめて強い緊張感を持って描かれるため、奇跡的なほどに「行為の痕跡」としての強度を持った連作となっている。
 こうしていったんは平面のなかへ帰った中西だが、再び空間のなかへと踏み出すのが90年代以降だ。中西はこうした絵画作品を、壁に掛けるのでなくギャラリー内に屹立させるインスタレーション展示「着陸と着水」シリーズを開始。本展で展示された作品は、その7つめのバージョンということになる。
 今回の展示では17枚の絵画作品を、スペース内に直立させて配した上、薄いガーゼのような布を垂らすなどした。見る場所によってさまざまに表情を変える「これぞ空間展示!」という、お手本のような展示である。しかも背景の壁には1カ所スリットのような穴が空いていて、そこから横浜の市街地が見える。港町だけに、ほとんどすべてが水平 - 垂直の直線でできた景観と、17枚の絵画の醸し出す極上の緊張感は、パフォーマンスから出発した中西の絵画が、再び空間へ、行為へと帰っていくさまを凝固させたかのようだった。
 今回の横浜トリエンナーレでは、これだけ多彩な作品が展示されながら、サイトスペシフィックな作品は少なかった。70代を越えた作家から、これだけ緊張感溢れる表現を見せつけられると、若い世代よ、もっと奮起してくれ、と言いたくなる。絵画の可能性を極限まで追求した、ベテランの珠玉の作品である。


 
  中西 夏之着陸と着水ーX II YOKOHAMA 絵画列による2008年Photo: 坂田 峰夫Installation view at Yokohama Triennale 2008
 
■《カット・ピース》オノ・ヨーコ

 最後にやはり不朽の名作を紹介しておこう。オノ・ヨーコ、《カット・ピース》。舞台上に座るオノ・ヨーコの衣服を、観客がハサミで少しずつ切り取っていく、1965年初演の伝説的なパフォーマンスだ。
 今回の展覧会では、パフォーマンスそのものの映像よりも、その痕跡を活かした作品の方に、強い訴求力を持つものが多かった。だが、これは完全に別格。行為そのものに凄まじい強度がある。服にハサミが入るたび、動揺からか高揚感からか、オノの胸が波打つのがわかる。そして、なんといっても彼女の目がいい。これが媚態を感じさせたり演技性を感じさせたりしたら、単なるストリップになってしまう。だが、あくまでも彼女はオノ・ヨーコ自身としてそこにあって、観客の行為を鋭く見返している。いま別人がこれをやっても、さして意味は持たないだろう。
 1965年と言えば、公民権運動の高まりで、やっとこさ「公民権法」が定められた翌年である。そんな時代にアジア系の女性であるオノ・ヨーコが、この孤立無援のパフォーマンスをやってのける凄みが、この映像には端々にまで漲っている(ちなみに彼女がジョン・レノンと知り合うのは、この翌年のことになる)。こういう強い一回性を帯びた、緊張感のある行為こそ、本来はパフォーマンスと呼ばれるべきなのではないかと私は思う。


 
  オノ・ヨーコカット・ピース 1965年 (カーネギー・リサイタル・ホール,ニューヨーク)1965年Photo: 新妻 實Courtesy Lenono Photo Archive
 
■まとめ

 このほか、本展の会期中には、ほとんど日替わりのようにパフォーマンスやトークが上演されていたが、残念ながら私はまったくこれを見ていない。ビデオ展示された作品には灰野敬二のライブ映像もあったが、やはりこれは生で見なければ、あの恐ろしい緊迫感は伝わらない。企画の趣旨を考えれば、むしろ生のパフォーマンスこそ主役であって、美術展の方がフリンジイベントだった、とさえ言えるかもしれない。会期中には我らが関西が誇る「のびアニキ」も会場中を練り歩いていたらしいが、残念ながら遭遇する機会はなかった。全作品とは言わないので、一部だけでもDVD化されることを切に望む。
 こうしたパフォーミング・アーツの紹介としては、最近ではラフォーレミュージアム原宿によるイベント「HARAJUKU PERFORMANCE +(PLUS)」が、イキの良いセレクトを展開している。公的セクターによる継続的な蒐集、紹介が、これに連動するかたちになっていけば、日本におけるパフォーミング・アーツも、もっと実り豊かな展開を遂げていくに違いない。さまざまな意味で今後の展望を感じさせる、ユニークで豊かな展示だったと言えるだろう。


樋口ヒロユキ、美術評論家。著書に『死想の血統』(冬弓舎)。長編論考「呪術対美術」を『TH(トーキング・ヘッズ叢書)』にて連載中。

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