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うしろの正面だあれ 松岡永子
 感情移入して感動するのとは違うドライで知的な芝居。客席から笑いが起こるところまでこなしているのがすごい。これは戯曲を読んだだけではわかりにくい作品だ。舞台で立体化されて見えるようになる。もちろんそのためには演じる側が戯曲を理解していることが必要。

 冒頭、姉妹が一つのクッションをめぐって言い争う。
  「あなたがわたしのところから持っていったから返してもらったの」
  「その前にあなたがわたしのところから持っていったのよ」
  「その前にあなたが持っていったのでしょう」
  「その前ってどの前?」
 話はどんどん遡って、クッションを買った時の詳細になり、買うことになった経緯になり…。結果クッションは失われ、「誰がクッションの正当な持ち主か」という主張だけが残る。

 彼女たちが欲しいのはクッションではないのだ。クッションの持ち主であるという正当な権利が相手によって侵害されたと認めさせること。わたしの方がより不幸であり、その原因はあなただと認めさせること。だからわたしはより尊重されるべき存在だ、と確信させたいのだろう。他人にも自分にも。
 そんな意図は会話の表面には出てこない。話せばわかる、という楽天的な思考を無効にするような会話。言葉の意味に気を取られているとかえって意図を失う。表面的な言葉のコミュニケーションと平行して水面下でコミュニケーションが進行する。こういう時には「何を言うか」よりも「どんな風に言うか」がとても重要なのだ。演じるにはその意図が汲み取れていなければならない。そんな、年をくっていても難しい読み込みがよくできていると思う。

 姉妹は一人の男をお茶に招待する。いつの間にか男が姉妹にプロポーズしたことになっていて、彼女たちはそれぞれ自分ではなくもう一人と結婚するように主張する。すったもんだの挙げ句、男がはっきりと結婚の意思のないことを告げた時。男は排除される。姉妹の関係の争いの中でクッションが失われたように、男の存在は失われる。

 これは本来若い女の子がやるための芝居ではない。結婚、というものが最後のチャンスを示すような「老嬢」の話として書かれているのだろう。彼女たちくらい若くて可愛ければいくらでもチャンスはあるだろうから、「この結婚」への切実さは伝わりにくい。若ければ、この歪んで閉じた世界から抜け出す可能性もあるだろうという気がする。その辺は差し引いて見ると、言葉遣いは厳密に論理的でありながら奇妙に非論理的な姉妹のシュールさはよくできている。
 年嵩の女(母親?)も屈んで歩く動きが独特で、老人のような、人間以外の何かのような存在感があって、つい目で追ってしまう。女達の奇妙な論理に押し流され翻弄される男の優柔不断さもいい。
 高校生に不条理劇ができるのだろうか、という不安を吹き飛ばすような、緻密に構成された世界があった。

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