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リアルはどこに在る 栂井理依
 昨年新しく誕生した精華小劇場の「精華演劇祭」オープニング記念公演として、少年王者舘 KUDAN Projectの『真夜中の弥次さん喜多さん』を観た。しりあがり寿による原作の人気もさることながら、宮藤官九郎の初監督により映画化され、まもなく公開を控えている話題の作品だ。
 私は、この公演の初演を観たのは、今から3年前の2002年7月21日、天野天街の本拠地・名古屋の七ツ寺共同スタジオ。蒸し暑い夏の日、開演中の狭い劇場はむっとする熱気に包まれ、汗をだらだらかき、大げさではなく意識朦朧としながら観た記憶がある。そのときの感想は、当時、自分で書き残していた観劇記録から見ることができる。

                    ***


 本作品は、奇想の人・天野天街が、しりあがり寿の漫画『真夜中の弥次さん喜多さん』を舞台化した話題作である。ゲイ・カップルの弥次さん喜多さんが、喜多さんの薬物中毒を治すため伊勢参りの旅に出る、その悲喜こもごもの旅日記、というのが原作のストーリー。天野天街は、このストーリーから弥次さん喜多さん以外の登場人物をいっさい省き、生と死を見つめる二人の夢が混沌と交差する世界を創りあげた。
 漫画を下敷きにしているからだろうか、夢や死をモチーフにした抽象的ないつもの天野作品と少し違った印象を受けたのは、弥次さんと喜多さんという二人の中年男の濃密な恋愛、人間としての深い繋がりが描かれていたことだ。自由奔放のように見えながら、薄っぺらな江戸の街に幻滅し、リアルを求めて薬物漬けになる喜多さん。おふさという女房のある身でありながら、豪快かつ繊細な喜多さんの魅力のとりこになり、自分について考え始める素直で優しい弥次さん。「ウソかホントか、夢か現実か、わからない。自分もおめえもわからない」と喜多さんがつぶやけば、「喜多さんのことだけは全部わかっているつもりだよ」と弥次さんが精一杯、答える。ふらっとどこかへ行ってしまう喜多さんの不在に苦しみ、つい薬に手を出し、「寂しかったんだよ!」と弥次さんが叫べば、「おふさと切れるか、俺と死ぬか、だ!」と喜多さんは包丁を持ち出す。
 しかし、恋愛にかかわらず、人間関係が濃密であればあるほど、人は、どんなに深く繋がっても決して1つにはなれないことを、知るだけだ。道中、二人は豪雨に見まわれ、川の手前で足止めをくらう。宿の部屋で何日間も閉じ込められた二人の認識の世界は、互いにどろどろと溶け合っていく。
 どこぞやで手に入れた携帯電話を使って、喜多さんがうどんの出前を注文する。(『くだんの件』でも使われていた手段だが、ここでも本当にうどんを注文している)しばらくして、うどんが届くのだが、受け取りのために舞台から姿を消し、戻ってきた喜多さんは、手に何も持っていない。しかし、喜多さんは「うどんはうめぇなぁ」と言って食べ始め、弥次さんにもそれを勧めるのだ。弥次さんは黙って、言うとおりに食べるまねを始めるが、「やってらんねぇよ、うどんなんてどこにもねぇじゃねえか」。・・・と、ここまでならば、薬物中毒の喜多さんの幻覚なのだが、そこへ本当にうどんが届くのだ。再び、喜多さんはうどんを食べ始め、弥次さんへ勧める。弥次さんは黙って食べ始めるが、再び言うのだ、「うどんなんてどこにもねぇ」と。
 もうどっちが幻覚なんだか、解らなくなってしまう。天野天街はそのように観客を惑わせながら、わたしたちに「自分が見聞きし、認識している世界」を、どんなに愛し愛されている恋人であっても、他者と共有することはできないことを教えてくれる。感情も然りだ。人間の孤独とは計り知れない。どんなに迷い悩んでも、その孤独に終わりはないし、癒す解答があるわけでもなく、とどのつまりは、喜多さんが言うように、それを抱えて生きていくことは「あっちから来て、こっちへ行くだけ」という旅のようなものなのだろう。弥次さん喜多さんが薄っぺらな江戸の街では見つけられなかったリアル、それは旅の中にあったのかもしれない。言わずもがな、人間の孤独、それとどう向き合って生きていくかは、時代を超え、わたしたちが直面している問題でもあるのだ。

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 その後、『真夜中の弥次さん喜多さん』は、全国各地や海外での公演を経て、今回、大阪での初上演となった。初演を観てから三年の月日が流れており、私自身の人生や演劇に向ける視点が変わっただけでなく、七ツ寺共同スタジオと精華小劇場とでは、劇場の大きさや声や音楽の響き方など上演環境も違うこともあり、私は、今回の舞台を観て、前回とは違う印象を受けた。昨年秋、少年王者舘観劇後のステージサロンで、演劇ライターの吉永美和子さんから、言葉遊びやダンス、場面や台詞の繰り返しによるループ的手法、映像的手法など、天野天街独特の劇作法についての話を聞き、彼の劇世界についての理解が深まったこともあるだろう。
 前回、わたしに見えていた「リアルを求めて愛憎をぶつけあう悲しい二人の男」は、今回、「リアルをお互いの中に見いだそうと愛しあう幸せな二人の男」の物語となっているように思えた。
 リアル、それは身体がひりひりするような心の痛みや歓びだと言い換えることができるだろう。そして、その実感こそが薄っぺらな現実さえも受け止め、生きる鍵となるものである。二人は、それをお伊勢参りという目的地に求めた。
 しかし、旅をしながら、お互いの夢と現実、過去と未来、生と死を行き来する二人の中で、「リアル」を外に求めることの意味がどんどん薄れていく。最後、両手までが一本のウドンとなって繋がった二人の男の滑稽なタンゴを観ながら、私は思った。リアルは、ここにあるじゃないか、と。

 当日、手渡されたパンフレットに、ウニタモミイチ氏もこう書いている。「・・・夢と現実が融合し、弥次と喜多もウドンのように繋がり、漫画と演劇も、“既知”と“未知”も、人と牛も、次々に連結の回路が見いだされ、その道のうえを演者と観客が一体となって観念のタンゴを踊りながら突き進んでゆく・・・・・・。そんな想像力の源にあるものを、果たして人は『狂気』と呼ぶのだろうか、それとも『愛』と呼ぶのだろうか。はたまた『狂気の愛』とでも呼ぶべきなのか」—私はその狂気の愛こそが弥次さんと喜多さんのリアルであり、観客と劇世界を繋げるものであり、今の私たちに必要な想いなのだと、敢えて言いたい。

キーワード
■死 ■再演 ■リアリティ
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