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何をするかではなくどうやるかということが問題 松岡永子
 近代の、あまり上演されてこなかった戯曲を取りあげようというクラシックルネサンスも第六回。今年は参加三団体が同じ作品を必ず上演する。フィギュアスケートふうにいえば、今年はフリーの演技だけではなく規定演技もある。

 規定の作品『孤児(みなしご)の処置』
 わけのわからない脚本だ、という噂は聞いていた。なるほどわからない、と思った。終演後、ロビーに脚本が置いてあったので読んでみたがやっぱりわからなかった。
 ストーリー自体は単純。ある孤児院の院長は「完璧な肉体」を作り上げることを旨としている。十八歳になると孤児同士を無作為に結婚させ、完璧な一対の肉体を社会に送り出している。その方針に反対する院長の息子は、父親を除き、強い精神と肉体を兼ね備えた自分の軍隊を作ろうとするが、あっというまにすべてが瓦解する。
 シーンの繋がりが唐突で、断章に近い感じ。肉体と精神、とか、社会と個人、とか抽象的に考えている概念をそのまま書いてしまったような印象を受ける。
 演出とは作家の意図を汲み取ってそれに沿って舞台を作り上げるもの、という意見もあるだろうが、この作品ではそれはかなり難しい。当時の社会的事件や風俗を埋め込んでいく方法もあるが、これほど隙間が大きいと作家の意図に合ったものができあがるとは思えない。反対に言えば、どんなふうにでも自分の世界に引きずっていくことが可能だ。そんな不作法なまねをするつもりはなかったようだが。

 全体的には無国籍無時代な感じの空間だった。
 懐中電灯の明かりが効果的なくらいに暗めに抑えた照明。舞台と客席は床に貼られたビニルテープで区切られているだけで同一平面上で見る形式。もともとはバレエがイメージされているだろうダンスシーンは、きれいめのストリート。
 全体的にきれいめのビジュアルが、陰惨な社会状況を背景にしているのだろう物語とミスマッチで面白かった。特に集団のシーンがきれい。作家の考えている整えられた身体というのはこんなきれいなイメージではないだろうが、現代的に洗練されている。

 個人的な趣味でいえば、萩原恭次郎の詩が朗読されるシーンはもっと思い切ってガチャガチャやってしまってもよかったのではないかとも思う。詩のボクシングなどでは鳴り物は禁止されているが、ここではそんな規制もないのだから。

 わたしたちは恥を感じなくなったとひたすら明るい人々の輪の中で、ただ一人、違和を示すように踊る少女。ラストの、最も唐突なこのシーンで、人々の言葉のかわし方のぎこちなさに現代を感じたが、特にそれ以上、時代的なものを表現するつもりはないようだった。

『夢魔』
 こちらはオーソドックスで端整な舞台。やはりかなり抑えた照明。蚕室という設定だが、わたしは蚕室の実物を知らない。古い土蔵の中に入ったような印象だ。
 台詞には、四月になった、とあるが、BGMに蝉の声や風鈴の音を使っていた。物語としては確かに夏の凪の、幻を誘うような静寂はふさわしい。

 大きな屋敷の座敷牢(パンフレットでは地下牢)に籠められた男の世話をするために雇われた女。狂った男は穏やかな言葉で、微かに歪んではいるが優しい世界を語る。夫を亡くし、生活のため子どもを預けて働いている女は、せちがらい現世よりもその優しい世界に惹かれる。

 男と女、内と外の立ち位置が完全に入れ替わってしまうのは、この作品ではやりすぎだと思うが、美しいラストシーンだった。
 上半身裸の男の背に、格子を通した月影だという光が落ちる。赤を含んだ影もきれいだった。身体的なエロスは感じなかった。たぶん穏やかすぎて、上品だからだろう。それを欠点だとは思わない。

 ほぼ同時期(昭和元年と二年)に書かれた二つの作品の共通点を強いて探すとすれば、孤児院、狂気など一般的に暗いイメージでとらえられている閉じた世界の方が一つの秩序に貫かれた明るい世界であり、むしろこの世の方が暗い、という劇中人物の主張だろうか。

キーワード
■クラシック・ルネサンス
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