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マリコの悪縁教室 松岡永子
 山口茜の小説を原作に、ごまのはえが戯曲を書き竹内佑が演出する。上演の前に3人によるリーディングがあり、竹内脚本によるラジオドラマも作られる(6月11日放送。未聴)という企画もの。ふだん作、演出を兼ねている劇作家を集めて一つの芝居を作るという企画はたまにあるが、できあがりを見るとなかなか難しいものだと思う。集める作家を選ぶには、扱うテーマや作風などの共通性を基にすることが多いようだが、この3人の作風は一見してそれほど似ているとは思えない。今回の共通項は生まれ年。作家3人が1977年生まれ。役者は、同じく77年生まれが5人と、オーディション組が6人(うち、1人は77年生まれ、他もほぼ同年代)という、狭い年齢層の者による芝居。
 少し企画が先行しすぎかと思っていたが、意外に面白かった。
 勝因は、同い年らしく互いに遠慮がないところか。
 分裂した人格を拾い集めて統合する話、といった解釈も可能な閉じた傾向の話に、それとは別の感覚、さらに政治社会ネタが散りばめられている。各人バラバラの方向性がうまく収まって広がりになっていた。

 出口のない生活と暴力の果て、夫を殺したか殺された「私」=マリコ。殺した者は鬼になる(舞台には男の鬼も女の鬼も登場する)。マリコは「鬼になった私」と一緒に、そこに書きこめば記憶を削除できるというお伊勢さんの嘆きの壁に向かう。

 しりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん』を受けてのイメージだろう。当然、物語真っ直ぐになど進まない。

 劇中、「デブ」という言葉が出てくる。「デブ」とは輪郭線が曖昧で、外部と内部の峻別ができていない状態、私という中身が外にはみ出しこぼれ落ちている状態をいうのだと説明される。

 些細な差異を持つ個別の記憶を除いたとき、私とは何だろう。細かい記憶を削除すれば私は世界の中の任意の誰かと変わらない。それは同時に私が世界だということだ。世界には私ひとりしかいないし、世界は私でいっぱいだ。バラバラになってどこまでか私なのかわからない。

 嘆きの壁への列にならぶための第2次試験で夫との殺し合いを再現し(殺す側、殺される側がはじめと逆転している)、思い出したくなかったことを思い出したマリコは壁に向かう。そこに現れる者(たぶん、こぼれ落ちている私)を次々に取り込みながら、マリコはどんどん「前向き」になっていく。「鬼になった私」は取り込まれることを拒むが、「嫌だ、と思っている私、も私」といった論理にとうとう取り込まれてしまう。すべては私になった。コンダクターに従って、私=私たちはみごとに踊る。みごとな調和。素晴らしい自己コントロールの完成。
 それはもちろんハッピーエンドではない。「デブ」という文字が映り、物語の冒頭、ひとりの女が世界の始まりを語ろうとするシーンに戻る。

 昔の「自分さがし」は拒絶の身振りであったように思う。「ホントの自分はこんなんじゃないんだ。ここではないどこかにきっといるんだ」といった風に。「私」が「世界」を拒絶するように「世界」も「私」を拒絶した。迫ってくるときには、必要な部分にはまるよう、皆と同じになれと強要する圧制者の形を取った。だからこそ拒絶もしやすかったのだろう。
 今は。「世界」は直接的に受け容れろとは言わない。彼らは「世界」に、受け容れられるように強制されているらしい。「世界」は、世界の中には君みたいな要素もあっていいと思うんだ、と柔らかく取り込み呑み込む。呑み込まれてしまえば個としての自分を保っていられないとわかっていても、絶対的に肯定してくる者にどう反抗すればいいのだろう。
 これは社会というより集合意識、母性的村集団に近いかもしれない。そんな自分を取りまく世界への感覚の共通性は、同年代ゆえだろうか。

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