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タカラヅカを見直す 西尾雅
ガストン・ルルーの小説「オペラ座の怪人」のミュージカルは、日本で最も有名な劇団四季のロイド=ウェバー版(彼自身の手による映画も04年に公開)以外にも、来日カンパニーのツアーによるケン・ヒル版そして宝塚歌劇団でも上演された今回のコピット&イェストン版の計3作品が競う。

共通点は、支配人の交代により明らかになったオペラ座地下に住む怪人ファントムの正体をめぐるサスペンスだということ。コーラスのクリスティーン(四季と宝塚ではクリスティーヌ)の才能に気づいたファントムは秘密裏に個人レッスンをほどこし、彼女はプリマドンナのカルロッタを脅かすほど急激な成長を見せる。そのクリスティーンにひと目ぼれしたオペラ座のパトロン(ロイド=ウェバー版ではラウル子爵、コピット&イェストン版ではフィリップ伯爵。原作ではフィリップは兄で家督を継ぎ、オペラ座のパトロンで既婚者、独身で気楽な立場の弟ラウルがクリスティーンと恋に落ちる。いわば本作では兄弟2人が合体されている)とファントムが三角関係で争う。

コピット&イェストン版の2幕冒頭では、突然解任された前支配人キャリエール(伊藤ヨタロウ)の正体がファントム(大沢たかお)の実父だという原作にもない衝撃の事実が、父親本人の口から明かされる。ファントムが執着するクリスティーン(徳永えり)を案じるキャリエールが彼女に打ち明けるのだが、この時点でファントム自身には出生の秘密は知らされておらず(薄々気がついてはいた)、追いつめられて死ぬ間際にファントムはすべてをようやく知り、不遇な自分の一生に納得して最期を遂げる。

さらに大きな違いは、出生時から醜いファントム(ロイド=ウェバー版では名前すらなく、コピット&イェストン版では原作同様にエリックと呼ばれる)は、恋人の裏切りで精神に異常をきたした母親の目には美しく見え、母は彼を溺愛したと語られる点。母への思慕をクリスティーンに重ねたことがファントムの不幸だが、原作とロイド=ウェバー版では母親からもその醜さを疎んじられたことになっており、その違いは決定的。幼児期に母から愛されたか否か、性格形成に与える影響は絶対的な違いがある。失われた愛を取り戻す、それが本作独自のファントムの解釈だ。

映像出演の母ベラドーヴァ(姿月あさと)は醜いわが子ファントムをそれにもかかわらずいつくしみ、母親の包容力を共有すべく若いクリスティーンは果敢にファントムの素顔を見ようと試みる。クリスティーンのその勇気こそ愛に他ならないが、それはファントムへの恋愛感情ではない。劇中で彼女を恋するフィリップ伯爵(ルカス・ペルマン、パク・トンハのWキャスト)は、いみじくも「同情」と指摘するが、マザーテレサが実践した弱者へのあまねく平等の愛にそれは近い。

音楽の師であるファントムを終始「先生」と呼ぶことからも、クリスティーンの目線が恋人のそれではないことがわかる。むろん尊敬は惜しまず、音楽の交流から仮面の下のファントムの心情を理解してもいる。心根を知るのだから顔かたちにとらわれない。自分をそう信じていたが、現実に素顔を見るや信念はもろくも崩れ、彼女は逃げ出してしまう。

他人の前では絶対に仮面をはずさない。見た人間は殺すとまで思いつめていたファントムにとっても素顔をさらすのは賭け。すべてを賭けて敗れた彼は身体を丸め泣き伏す、まるで赤子のように。母を希求するファントム、慈母になろうとして果せなかったクリスティーン、不幸なズレがここに象徴される。

ロイド=ウェバー版では、逆にクリスティーンの父親コンプレックスが強調され、自分の死後身代わりに音楽の天使を遣わすと約束した父の遺言が、彼女がファントムを音楽の師と信じこんだ大きな理由(原作では父はバイオリン弾き、早くに妻を亡くした父と娘は村祭りで歌い稼ぐ仲の良さだが、やがて父も早世する)。

母を含め女性すべてから愛されなかったファントム。ゆえに彼が愛したのは機械仕掛けの人形の花嫁。ようやく見つけた理想の花嫁像をクリスティーンに求めたファントムと、ファントムに父親を映すクリスティーンの2つのコンプレックスの交差がハッピーエンドを招くわけはない。

ロイド=ウェバー版のファントムは、クリスティーンをめぐる三角関係の敗北を認め、自ら姿を消して余韻を残すが(映画版ではその後も生き延びていたことが明らかになる)、コピット&イェストン版では警官隊に追いつめられたファントムは、自分から父キャリエールの手にかかることを乞い、命尽きる。

死に際のファントムがクリスティーンのひざに抱かれる。彼に会いわびなくてはと思いつめたクリスティーンは危険を冒し、オペラ座の地下まで舞い戻ったのだ。彼女が仮面をハズすと、ファントムの素顔は母ベラドーヴァが見たであろう美しい顔。この地下で生まれ、一生をこのオペラ座で過ごした、いわば闇に生きたファントムがクリスティーンの「愛」を光に変え、母の元に旅立つ。

かつて宝塚宙組で「ファントム」が初演された時(04年)、主演・和央ようかは「史上最もハンサムな怪人」と評されたもの。が、さすがの宝塚でも仮面に工夫をこらせども、傷跡の特殊メイクを取り払うことまではせず。脱着可能な傷跡メイクをハズし、ラストで美形をさらす今回の演出に元モデルの大沢起用の意味がわかる。ここに至って、怪人は醜いどころかイケメンを極めてしまったのだ。

一石を投じた演出だが、2つのコピット&イェストン版を比べて私なら文句なく宝塚版(潤色・演出/中村一徳)に軍配をあげる。顔の醜いファントムなればこそ美を音楽に求め、天賦の音楽の才で観客を魅了するはず。現在大阪でロングラン中の四季版でファントムを演じる高井治、村俊英なども歌唱力は申し分ないが、体型はオヤジ。それが本来のファントム像だろう。

今回は演出家・鈴木勝秀(スズカツ)の資質もあり(元遊○機械/全自動シアターの高泉淳子著の「仕事録」に、早稲田演劇研究会で同期に入った30人の新人があまりの厳しさに皆辞め、残ったのは彼女とスズカツだけだったというエピソードが書かれている)、ミュージカルと謳うにはストレートプレーに傾いた演出だが、ミュージカルにおける歌の重要性をあらためて知る。

有体にいえば、大沢の身体を張った熱演(ロープに飛び移る宙吊りも!)は素晴らしいが、ミュージカル初挑戦の歌の弱さが惜しまれるのだ。たとえばファントムがクリスティーンに音楽を個人授業するシーンでは、大沢と徳永の歌唱力が逆転しており、どちらが先生か生徒か観客は混乱してしまう。

そう感じるのは、宝塚版で楽曲の良さを既に知っているからかもしれない。とりわけ花組で再演された際(06年)の主演・春野寿美礼は歌に定評があり、澄みわたった歌声はまさに天上の音楽そのもの。その歌の美しさがあってこそ顔の醜さとの対比が生きたのだ。心根のやさしさと殺人をもいとわぬ残酷さの二面性もそれでこそ鮮やかになる。

もうひとつは、父親キャリエールの背信を必要以上に感じさせる点。ベラドーヴァと恋に落ち妊娠させた彼は、実は既婚者ゆえ結果、恋人を裏切ることとなる。失恋の痛手で薬物中毒になった彼女が、やがて薬害症状のエリックを生むこととなる。ベラドーヴァ亡き後の育児責任は果したとはいえ、キャリエールの不倫がすべての不幸の元凶。事件の陰の真犯人といえるかもしれない。

スズカツ版では男優が演じることにより、どうしてもキャリエールに男のズルさや卑怯さが生臭く立ちのぼる。ところが、あら不思議女優が男性を演じる宝塚版では、息子を一途に思う父親に観客全員が毎回滂沱の涙を流さずにおれなかったのだ。

女優が男性(それも中年の失業した支配人だ)を演じるとは、いったん本来の性を消し、キャリエールという役に自分を染めること。現実のアクを濾し去る宝塚のフィルターが父性を強調し、わが子を思う純粋な感情を抽出する。宙組の樹里咲穂(当時は専科)、花組の彩吹真央の懺悔する父親には、威厳と崇高さすら漂っていたのだ。

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