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きのめだち 松岡永子
 舞台が明るくなると、ふたりづつ組になった人たちが童唄を歌いながら手あそびをしている。
 保育所のおゆうぎの時間のような光景。

 舞台にいる役者たちは若い。でもフライヤーをみていて、今回は老いていく親の話らしかったので、これは老人ホームかリハビリ施設なのだろうと見当をつけた。
 有名なマンガ『田辺のつる』をはじめとして、表現されているのが他人の目で見た客観的な姿ではなく、主観的な想いの姿であることは多いからだ。ただし、誰が入居者の老人で誰が若い職員かは、話が進むまでわからない。

 一通り唄が終わると、もう一度やろうとする者ともう終わりにしようとする者が現れる。集団の中で意思の齟齬が出るのはどんな集団であっても変わらない。
「手先を使うのは脳の活性化になる。わたしは皆さんのために手あそびを勧めているのだ」と言いつのる女性は「それはひとのためじゃなくて、自己満足のためなんとちゃう?」とたしなめられる。

 総じて彼らは人間関係を円満におさめたがっている。誰かが感情的になったり落ち込んだりすると、皆でまあまあとなだめる。特定の異性の側にいたがる者たちに対しても、あからさまに拒んだり目立たせたりすることを避け、波風を立てないように気を遣う。いかにも日本的な集団だ。
 かれらの認知能力は衰えてはいない。
 もし問題があるとすれば、「見えない」のではなく「見ていない」のだ。
 ほとんどの者が、「わたしは自分ですすんでここに来たのだ」という。
 それは嘘、にちがいない。誰かに無理矢理入所させられたとは思わない。けれど、家族によって、というより家族の置かれた状況によって、ここに来ることが決まったはずだ。それは自発的にということとは違う、そう言ってしまうと嘘になる。

 たあいない会話の中で
「近くの森には一本の大きな木があって、ひとつだけ何でも願い事を叶えてくれるらしい」
という話が出る。
 みんなで散歩がてらその木を探しにいくことになる。
 リュックをかついで、坂を登り手をつないで木の根を踏み越えながら森の奥へと歩いていく。裏山にピクニックにいく子どものように、うきうきとはしゃいでいる。

 途中それぞれの家族の問題が一瞬づつ差し込まれる。

 さっき「それは自己満足のためなんちゃう?」とたしなめた女は、娘の進路や結婚に干渉しつづけて、娘にその言葉を投げつけられたのだとわかる。
 自分では家族のために企業戦士として働いていたつもりの男は、仕事のために家族をないがしろにしてきたとされ、家庭での居場所を失った。
 水商売をしていて男出入りも激しかった女は、何も親らしいことをしなかったとなじられ、アルコール依存症の男は疲れ果てた息子に絶縁を言い渡される。
 ひとつひとつは、どれもよくあるお話。

 子どもは、「親だって昔は子どもだったんだから、子どもの気持ちはわかるはず。なのになぜ」と親を責める。
 反対に子どもも年を取って親になれば親の気持ちがわかるようになる。では今、親である者の気持ちは? という問いに答えはない。
 作家はまだ親ではないのだろう、親の気持ちがわかるとは言わない。けれど年を取るにしたがって、親の気持ちをわかっていない、ということはわかってきたということのようだ。

 ずっと結婚せず母親とふたり暮らしを続けてきた女は、母親のために一緒にいたのだと言う。それは親には負担だったんじゃないの、親だって年を取るんだし、と他人は言う。他人の方がよく見えることもある。
 息子がアルコール依存症の父親に向かって「いっそ他人だったら割り切って優しくもできる。でも血がつながっているというだけでだめなんだ」と言うとおり、関係が近いほど人間関係の調整は難しい。狭い巣穴の中をぐるぐる回りするように、逃げ場がなく身動きが取れなくなる。

 森の奥で木を見つける。何かオーラを発していて、確かにこの木だと皆が納得する。それぞれ願い事を心に思いながら同時に木に触れる。
 と、若い職員ふたりと、あとひとりを残して全員が倒れてしまう。
 怖いから、と木に触れなかったそのひとりも最終的には手を触れないわけにはいかない。誰も年を取ることを拒むことはできないのだ。

「だから枇杷の木はだめだって言ったんだ」と職員は呟く。枇杷の木は精気を吸うから病気が重る、という話はわたしも聞いたことがある。弱ってる人間は精気を吸われてしまう、楠なみに大きくなる枇杷なんて、よっぽどたくさんの精気を吸ってきたんだろう、と言う。
 題名にもなっている「きのめだち」というのは春先の生気あふれる季節のこと。弱っているものはその生気の放縦に耐えられず死んでしまうこともあるのだ、と別の職員に教える。

 けれど倒れた人々は死んでしまったわけではない。
 揺り起こされて目覚めた人たちは、うたた寝からさめたようにさっぱりして気分も悪くないようすだ。
 寒くなるから帰りましょうとうながされ歩き出す人たちは、けれど来たときと違ってずいぶん老けこんでみえる。
 施設に戻った人たちは並んで腰掛け、大きな前掛け(散髪時に使うようなもの)をつけてもらい、ゆっくりと食事前の「いただきます」をする。みな背を丸め、一回り小さくなったように見える。

 わたしがショックを受けたのは、このシーンで男性はブルー、女性はピンクの前掛けをつけられるということだ。
 男の子は青、女の子は赤、というのは子どもの時から始まる。保育園では色違いの同じ形の服をみんなが着ている。
 人生の最初と最後に同じ姿になる。それは人生の循環としていわれる生物的、あるいは精神的なものではなくて社会との関係。施設で世話をされるものは「平等に」扱われ管理される。同じ形に色違いの服装。皆が同じように客体として分類されている風景。
 子どもはまず世話を受けるものとして管理され、生産力を社会に支払える大人であるあいだは主体であることができるが、年を取るとまた受動的に世話をされる者として扱われる。生産性が高いことが人間の価値とされる文明の中では、子どもも年寄りも受身の対象としてしかみられない。

 自分のことを自分で決められる、というのは主体的な存在であるという証だ。この施設に来ることを決めたのは自分だと(自分自身に対しても)言いきかせることは、主体的な存在としての誇りを守ろうとする行為だ。自分が主体ではなく受け身の立場に置かれているのだという事実を認めながら誇りを守るのは難しい。
 老いることに美しさをみる文化のない今の日本では、誇りを持って老いることは難しいだろう。一方的に与えられる存在とされればなおさらだ。世話を受ける者として皆が同じように扱われる。老人でなくても、ひとは一見すればそんなに違いはない。内側に閃く記憶、痛みも、語ってしまえばありきたりで陳腐だ。だが体験の特殊性ではなく、それが他の誰でもなく自分だけのものであるということに意味がある。
 何人かの人物を同じ重さで描くと物語が平板になりがちだ。だが登場人物の主体と客体のバランスが微妙なこの作品が指したのは、物語を描いてみせるというのは違う方向だった気がする。

 天井から長く垂らされた何本かの布といくつかの箱だけの舞台美術。抽象的な装置ですべての場所を表す。
 箱は次々動かされ、椅子になり岩になり木になる。特に父親の座っている椅子がいつの間にか家族の輪の外に出てしまうシーンでは、視覚的な表現で心理的な位置も表していて効果的だった。

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