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山の声—ある登山者の追想 松岡永子
 登山家・加藤文太郎の最期の時間を、彼の手記を交えて語る。

 山を登るには一歩一歩を積み重ねるしかない。途中をはしょったり、誰かに肩代わりしてもらったりはできない。
 この芝居もそんなふうだ。役者の力強さで正攻法に見せる。横殴りに降りつづける雪はすさまじいがそれ以外の仕掛けはない。
 吹雪の尾根、わずかに体を隠すだけの雪洞。舞台は動かず、ただ静かな言葉だけが積もっていく。

 二人の役者が出てくるが、これはただじっと自分に向き合う一人の男の物語だ。あるいは山に魅せられたすべての人の物語かもしれない。

 単独行で名を馳せた文太郎だが、行方不明になったときには同攀者がいた。
 その年下の同行者・吉田と会話する。それは事実なのか、彼の心の中でのできごとなのか。会話は適度な距離を保った礼儀正しいもので、彼の慎み深い人柄がうかがえる。だが決してそらぞらしいものではなく、打ち解けた関西弁(彼は兵庫の人だ)で山で食べる甘納豆の美味さについて話す。妻のことを相好を崩してしゃべる。一人で山に登る人間には孤高のイメージが強いが、彼は他人を拒否してはいない。ただ山での満たされた孤独を愛している。
 少し古い、折り目正しい言葉で綴られた手記の文章が、淡々とした標準語で挿入される。バランスが上品だ。

 登山が金持ちの趣味だった大正時代。勤め人の文太郎は山歩きを始める。
 装備にしても案内人を雇うことにしてもずいぶんとお金がかかり、よほど余裕のある者にしか山登りはできなかった。庶民が気軽に始められる現在とはまったく違う。大学の登山部というのが登山家のエリートなのだろうが、当時は大学も一握りの人しか行けないところだった

 高価な装備も持たず、有給休暇を使って山に登るなどという者は少数派だ。
 だが彼は才能に恵まれていた。人並みはずれた脚力と体力で次々と単独行を成功させていく。そのことを讃えられると、自分はきちんとした登山の勉強をしていないし技術もないのに、ととまどいを見せる。それはたぶん卑下ではない。知識不足に引け目を感じているのも本当だと思う。
 その姿に、突飛な連想だが、認められた坂田三吉はこんなふうかもしれないと思う。
 道を志している者の多くと同じような勉強、訓練を経ておらず(それは生まれた家の資産などによるところが大きいのだが)、才能だけで思わず登りつめてしまった。その危うさも知っている。天才は才能などというものを過大評価しないのだろう。
 山男は謙虚なのだ。

 単独行の勇敢さを褒められると、謙虚な山男は単独行は臆病だからできるのだと笑う。
 慎重すぎるくらいの計画と、十分すぎるくらいの準備、潔く引く決断。ひとりで山へ入るからこそ、なおさらそうなるのだ。
 だから遭難の理由を問うときには、原因を自分の心に求めることになる。傲慢になっていたのではないか。一人であれば引いたであろう一瞬の決断、装備の確認、それらが仲間のいる安心感で弛んだのではないか。山はそんな人間の傲慢さを許さなかったのだ、と思う。

 吹雪のやんだの晴れ間に、その美しい風景に、自分を呼ぶ声を聞く。
 この晴れ間は一時的なもので、すぐまた吹雪になることも、行ってはいけないことも十分に知りながら、声を無視することができない。
 声を聞く者でなければ山に魅せられることもなかっただろう。人づきあいは苦手だが人間が嫌いなわけではない。愛する家族もいる。山にいる間はいつも町に帰ることを思うのに町にとどまれないのは、その声を聞いてしまうからなのだろう。

 吉田が倒れ一人になっても、文太郎は山へと向かっていく。力尽きるところまで一歩一歩進んでいくことしか彼にはできない。このシーンにだけ音楽(街の灯り)が流れる。彼一人を浮かび上がらせる照明とともに感動的だ。

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