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転生を信じ、歌い続ける 西尾雅
東京のみ、89〜04年にシアターコクーンで行われていた夜会が東京の会場を青山劇場に変更し、大阪はシアターBRAVA!に初上陸したのが06年。今回、VOL.15「〜夜物語〜元祖・今晩屋」は昨年末の東京ACTシアターを経て、大阪は同じBRAVA!に帰って来た。コンサートでも演劇でもない「言葉の実験劇場」(中島みゆき)は今回も圧倒的な迫力。全編生演奏される舞台(コーラス含む10人のミュージシャンは奈落で演奏し舞台上に姿を見せない)は、いわばコンサートと音楽劇のミックス。構成演出・脚本と作詞・作曲すべてをこなす中島は、クリエーターの才能だけではなく主役パフォーマーとしての存在感をも見せつける。

今作は、森鴎外「山椒大夫」をベースにした安寿と厨子王の「何十年も、何百年も経った、その後の物語」(中島自身によるパンフレットの前書)。開幕すると左右から崖に挟まれた谷間に六角堂が建つ。峨峨とした崖から落ちる幾筋もの滝(大量の本水を使う)は、ここが劇場であることを忘れさせるほど(美術:堀尾幸男)。1幕の間中、滝から水は落ち続け、普通の演劇なら台詞が聞こえないほどの水音を響かせ続ける。が、本作ではマイクが使用されるので、それも効果的な通奏低音だ。

風呂敷包を背負った暦売り(中島)が山寺に上がって来る。境内で暦や古道具を売り始めるが、おリンや掛け軸を堂内から勝手に持ち出しそれも並べる無法ぶり。見つけた庵主(香坂千晶)が寺物を取り戻し注意するが、怒ってはおらず、座布団やどてらを貸出し、茶でもてなす親切ぶり。堂下に住みついたホームレス(コビヤマ洋一)や、逃げこんで来た少女(土居美佐子)が姿を見せる。ここは訳ありの人が駆け込む縁切り寺の尼寺(庵主は有髪だが)なのだ。

庵主は少女を霊だという。駆け込み寺なので自分の意志で堂内に駆け込めば身の上が「ちゃら」になるのに、約束を信じる少女は、それを待ち続け迷っているのだと(この時歌われる「ちゃらちゃら」はカーテンコールにも使用される本作では数少ないポップな曲)。

ホームレスは旅立ちを庵主に促され、僧の身支度に着替える。それに動揺したのか、少女が松明で放火し、堂に火の手が上がる。僧の旅立つ先は寺の外ではなく、何と燃え盛る堂内。扉内へ入る僧を見送った後、少女と庵主はそれぞれ左右の滝に飛び込み自害。うろたえる暦売りは消火器を抱え、なすすべもない。野外劇のような屋台崩し、セリで奈落に沈む堂が圧巻だ。滝壺に残された彼女らの藁履(わらぐつ)を抱え、暦売りは立ち尽くす。

松明を手にする前、手毬で遊ぶ少女が愛らしい。「禿(かむろ)の髪した女童」と庵主が呼ぶことから、遊女となるべく育てられた郭から逃げて来たのだろうか。手毬と同じ紅白の紙風船が、お堂の廊下からこぼれ出し、階段を伝い客席に向かって落ちる(いわゆる八百屋の傾斜舞台になっている)。しだいにその数は増し、階段に溜まりあふれ出す。転がる幾つもの風船は、百八では尽きぬ悲しみの暗喩なのだろうか。暦売りの「百九番目の除夜の鐘」の歌がいつまでも谷にこだまする。

2幕が開くやいきなり水中のシーン。舞台いっぱい何百と泳ぐ魚は熱帯魚のようにカラフル、入水した海中は意外や楽園のよう(飛び込んだ川から流れ流れて海にたどり着いたのだろうか)。先ほど庵主役だった香坂がダイバー姿でエサを播く。ここは水族館、彼女は飼育係だが、舞台には水族館の付属施設が建つ。施設が地上にあるのか、あるいはかつて地上にあって水底に沈んだのか。抽象空間を用い解釈を観客にゆだねる自由さも、夜会がシアトリカルパフォーマンスと呼ばれる所以のひとつ。

ここでの中島は格安旅行のチラシ配りのバイト。1幕ラストの藁履を履いて登場する(藁履はすぐに脱ぐ)。読み捨て防止策としてチラシの裏面が暦になっているのがミソ。ところが、暦は日付も曜日もない白紙のまま、どうやらここの時間は私たちの世界とまったく異なっているらしい。

ウェデイング姿の花嫁(土居)が駆け込んで来る。「安らけき寿を捨て、あてもない愛に殉ず」と中島が歌う。この花嫁もまた、果たされることのない約束に殉じ、結婚式場から逃げだしたのだろうか。

消防ホースが収納されているはずの消火栓箱から、先ほどホームレス役だったコビヤマが左官姿で飛び出し、コテをふるう。元画家だったホームレスは筆で空中に絵を描き、衰えない表現欲にもだえていた。ここが水中なら左官の塗るセメントが乾くはずはない。けれど、彼は取りつかれたように作業に没頭する。その姿は、どの世界でも気が休まらず、けっして癒されることのない己が悲しみを振り払っているようだ。

2幕は場面転換が速い。いくつもの行灯が並ぶ部屋に、手拭で目を覆った中島が座る。赤々と照らされた部屋は、情念の炎で燃え上がっているよう。本作では全編通して水と火のぶつかり合いがテーマ(たとえば、水族館係員のダイバーが背負うのは、酸素ボンベではなく消火器だ)。中島は手にした葦(あし)を払いながら「安寿悲しや、ほうやれほ。厨子王悲しや、ほうやれほ」と慟哭する母親に姿を変える。ついに「山椒大夫」の世界が、その全貌を現わす。

思えば庵主も水族館係員も「竹」と名のる。それは、父が単身赴任中の幼い安寿と厨子王2人の姉弟を世話する女中「姥竹」(うばたけ)の転生した姿。「百九番目の除夜の鐘」で「垣衣(しのぶぐさ)から萱草(わすれぐさ) 裏切り前の1日へ 誓いを戻せ除夜の鐘」と歌われた垣衣とは安寿、萱草とは厨子王、共に山椒大夫に名づけられた仮の名に他ならない。

ここで「山椒大夫」を思い出してみよう。筑紫に左遷させられ十年以上音信不通になった父を訪ねる旅に出た一家4人(母と安寿、厨子王の姉弟に姥竹)は、途中越後で人買いに騙され、母と姥竹、姉弟の2組に裂かれて売られてしまう。姥竹は、引き離されるや船から海中に飛び込み、母だけが佐渡へ連行される。いっぽう姉弟は丹後の山椒大夫に買われ垣衣、萱草と名づけられ、それぞれ汐汲みと柴刈の労を強要される。

安寿は逃亡を決意、厨子王をまず逃がし、父や母との再会の上、自分を迎えに来るように説得する。打ち合わせの機会を作るため男の仕事である柴刈を買って出た安寿は、男同様の断髪を命じられ禿の頭となる。計画どおり隣村の寺に駆け込んだ厨子王はかくまわれ助かるが、沼岸に藁履が見つかり安寿は入水したとわかる。

寺での修行後、厨子王は都に上がり、そこで父の客死を知る。元服した厨子王は正道と名を改め、やがて丹後の国守に任じられ、人買い制度を廃止するなど善政を施す。正道は安寿が亡くなった沼の畔に尼寺を建立、訪れた佐渡で雀を追いやる盲目の老女と出会う。その歌で母子と知った2人は、ようやくの再会に涙の抱擁をかわす。

夜会はクライマックスを迎える。「十二天」の歌と共に劇場内が、何本もの放射される白い光に包まれる。光は宇宙の全方向を指し示すかのよう、劇場すべてが映画「ET」で巨大宇宙船が舞い降りる直前の至福に満たされたようだ。舞台には竜頭の帆かけ舟が浮かび、水中から這い出した白装束姿の4人が次々と乗り込む。死から再生の願いを込め新たな海原を渡る彼らの意志を示すかのような順風満帆。帆や船べりに所狭しと飾られているのは、あの手毬や紙風船と同じ紅白の提灯だ。

4人はパンフのキャスト表で垣衣3人と萱草とあるが、私には2組に引き離される前の姥竹を含む母子4人に思える。もし人買いに出会わねば、彼らが目指したであろう父親との再会の航海だと信じたい。手毬は地に落ちては、また上にはねる。ならば、水底に沈んだ霊も、いつかは天を目指して浮上するはず。時がめぐり、もし転生が叶うのならば。

エピローグの舞台はひとり座る中島。黒い半天姿の「今晩屋」が夜を商う。無用の暦を売っていた(1幕の暦売りが商っていたのも古道具なので、実用性は疑わしい)彼女が今売るのは「夜」。あの日あの時かなうことのなかったあのひと夜。取り返しのつかない決定的な分岐点となった運命の一晩。それは、旅先で泊まる場所のない安寿と厨子王一家に親切を装い声かけた人買い、その悪略におめおめ騙されたあの夜。「裏切り前の1日へ」戻ることは誰にも出来ない。川の流れと同じ、時間は止めることも戻ることもならないのだから。

舞台の床に水が流れ始める。やがて大河のように膨大な水量となって舞台奥から客席に向かいとうとうと落ちる(維新派「呼吸機械」で客席から舞台奥の琵琶湖に流れた水流と方向は真逆だが、時間の流れを意味するのは同じ)。2幕冒頭で流れていた両側の崖の滝もすぐ止まっていたが、ここに至ってまた轟々と落ちている。

嘘つくつもりではないその場の約束、結局果たされずに終わる口約束。責めるのは酷だが、約束に縛られ待ち続ける方の迷いは深い。売られた禿にしろ、恋人を待つ花嫁にしろ信じやすいのは女。裏切りは、原作では人買いの嘘だが、中島の解釈は広く男の不実を突いている。原作の厨子王は安寿を裏切ってはおらず、やがて迎えに来る心づもり。安寿の方が厨子王説得の方便で、自分の意志で残ったはず。が、中島は人買いの悪意のみならず、男のちょっとした逡巡をも断罪する。

そもそも恨みこそ中島が追い続けるテーマ。凡俗の作詞作曲家なら怨歌や人生の応援歌に陥るところだが、中島は男と女という性や現世や来生という時間を超えた問いを投げ続ける。本来人は孤独で不幸なるがゆえ出会いや自立そして幸せを願う。夜会こそ現代の夜伽。元に戻るは叶わねど転生し続ければ、いつか彼方に来生が待つ。中島こそが来生に懸けた夢を紡ぐ語り部、ひと夜限りの夢幻を観客に届ける依り代、琵琶法師の再来なのだ。

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