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モダンなクラシック 松岡永子
 プロレタリア演劇、というとプロパガンダを大声で叫ぶものしかないのかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。なんだかとても現代的。どこまでが多様に読みとれる脚本のためなのか、どこからが演出の力なのか、わたしには判断がつかないが。

 村で一軒の床屋。東京に出て代議士参事官に出世した岡田の帰郷が話題になっている。彼に対する人々の賛辞を聞きながら、床屋の親父は「小学校の成績は俺が一番、あいつが二番だったんだ」と言う。床屋は家庭に経済的余裕がなく、進学できなかったのだ。不本意なまま家業を継いだ床屋は、本当の自分はこんなではないという思いを捨てきれず、日々の仕事に倦んでいる。剃刀で客の髭を剃っていると、このまま喉笛に突き立てたら、と思う、皆どうして無防備に髭を剃らせるのかねえ、などと言い、女房や客を困惑させる。

疲れているのだ。よくあることだ。皆、口には出さなくてもいろいろな空想をしながら日々をやり過ごしていく。このまま、いつも通りなら、床屋も何事もなく日常をやり過ごしただろう。

 帰郷した岡田が訪ねてくる。昔の知り合いの家を挨拶回りしているらしい。庶民派である。「庶民派代議士」のさりげなく優越を見せつける態度。彼は偉く、俺は偉くない。違いは何か。金のあるなしか。では、金が偉いのか。午後の歓迎会出席のために髭を剃られる彼と、彼のために髭を剃る自分。床屋は空想を実現してしまう。

 人間が道具(ここでは剃刀)を使っているのではなく、道具に人間が使われているのだ、という疎外の感覚。現代ではあまりにもお馴染みで、改めて口にすることもない。だが、これだけは自分の意志だ、という剃刀による殺人の瞬間も、実は剃刀に操られているだけだ、とも見える。そのへんを強調すればモダンホラーに作ることもできるだろう、と思う。
 殺人の後、鏡の中にさまざまな人物が現れるのは、ちょっとやりすぎ、と思ったが。

 殺される岡田の側からいえば。髭を剃られている間のうたたねに王宮に招かれる夢を見るのは、まさに邯鄲・一炊の夢。その直後に殺される。栄達は夢にすぎない、などと悟れない人間に訪れる残酷な結末。
 切り捨てて無かったことにしている過去の自分、貧しく社会的身分のない自分、そんな「自分の影」に殺される、という解釈も可能か。アンデルセンの「影法師」など連想してしまった。

 元娼婦である女房の浮気に気をもむ、という趣向は、あけっぴろげにあらゆる男に媚を振りまいてみせることでむしろコミカル。
亭主の前でこれだけおおっぴらにやれるなら、かえって心配する必要はないだろう。最終的なところ、決定的なところでは、男などに頼る必要のない強い女に見える。アッシー君やミツグ君を複数キープしておき、それを決して恋人に昇格させたりしない女。当時そんな女がいたかどうかは知らない。たぶんいなかっただろう。女は自立できる経済力を持てず、娼婦か女房しかやれなかったのだから。時代をふまえてリアルにやったら陰湿で楽しめない。この現代的な人物造形は演出によるものだと思う。

 時代考証を無視しているわけではない。けれど古びた感じを与えない作り方。現代人がストレートにわかって楽しめる。

キーワード
■クラシック・ルネサンス
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