log osaka web magazine index
text
+ 小島剛(こじまたかし)

大阪在住の音楽家。主にmacintoshとプログラミングソフトmaxを使って即興音楽を中心に国内外で活動中。

+ 塙狼星(はなわろうせい)

1963年生まれ。人類学を専門とするアフリカニスト。中部アフリカの旧ザイール、コンゴ、カメルーンが主なフィールド。アフリカの踊りと音楽をこよなく愛する。

Feb 2004 5:24PM from Takashi Kojima Re:Re:音の恐怖とその記憶

塙さん。
小島です。
お忙しい中、時間を取らせて申し訳有りませんでした。 

 僕のいう恐怖としての音楽は正に、塙さん「禿げ山の一夜」で体験したその感覚のこととほぼ同じと考えても良いかと思います。
 今では「禿げ山の一夜」を聞いても、不安なリズムと情緒性においては何も驚くことはないでしょう。今聞いても、当時の音を聴いたときのとまどいを思い出すことはあっても、それ自身の音に対する驚きはもう無いと思います。結局そんな感じで、「恐怖」とは人の感情の中でも最も新鮮さを失いやすい感覚であるから、それを記録物として聴く行為、またはパフォーマンスとして体験できる音の中にそれを見いだすのは至難の業です。特にこれほど情報や文献、歴史などが様々な形で調べることができて、音を聴くこともできる社会ではそんな感覚を見いだす音に出会うのは本当に難しいと思います。レコード屋でCDを選ぶ際にスタッフのコメントを読んだ時点で分かったような気になってしまうのはやっぱりダメですね。何が起こるか分かってしまってからではやはり遅いのです。

 そんな観点から考えると、桂さんの話、「ええ話やなあ・・・」と思う反面、「今」読むと「ちょっと違うなあ・・・」と思うのが正直な所でしょう。アフリカ絵画の意匠にはたぶんもう驚くようなことはあまり無いと思います。そしてそれをスライドで見せても知識としてその情報を得るだけで決して感動という所には行かないでしょう。またアフリカの文化が都市社会の中で新しくもあり、野生でもある感覚も何となく理解出来ると思います。しかし、それらは僕にとっては、すべて本やテレビやCDや教科書やチラシなど様々な媒体の中で情報として得たモノです。
むしろそれを見つけるまでの長い道のり「やっとのことで、たどりついた」と言うセンテンスが絶対に重要なのでしょう。本人しか分かり得ない状況、環境。それこそがモノに感動するための必要条件であると思います。

 だから、「死者が住む森から現れる多彩な精霊を迎える場は、死者との対話の場ともなっているのではないでしょうか。」というのは正に、実際に中に入って研究されている塙さんだからこそ言える非常に興味深い見解だと思います。しかし、そうなんだと知っても結局は何も知らない。知識としての発見が有る反面、その感覚を実感するのはほど遠いわけです。そして僕が現地に行けば、少しはそのような感覚が分かるかも知れません。

 音も同じだと思うのです。CDなどの記録物を再生する事で音を聴いてもその魅力はやはり桂さんのスライドを見るような感覚でしょう。音は既に再生されるモノを「聴く」のではなく、環境をも含めた「体験」という行為がやはり重要な要素だと思うのです。そして、更にその環境を含めた「体験」をどこまで「記録」できるのか?またどうやって再生出来るのか?という堂々巡りの状態を極限まで技術の中で生み出していく事が人間の知恵なのでしょう。
 しかし最後にはこういうでしょうね。
「そこに行ってみないとやはり分からない。」

 前にも述べているように築港赤レンガ倉庫でディレクターを行っています。で、その立場としてはやはり赤レンガ倉庫が磁場の非常に強いところで有ることを、最近常々思っています。真冬は底冷え、夏は脱水症状を起こしかねない灼熱地獄、しかし見るモノに圧倒的な存在感を与える空間。そして、その中にいる行為そのものが単なる演奏の場としてあるだけでなく、「ピグミーの森」のようにある一つの体験となり得る場所でもあるんじゃないかとすら思えてきました。で、来年度はそんな音を体験できるような企画をよりコアに進めて行くことになります。またミュージシャンの立場として今年延期になったコンゴ行きも来年は実現することでしょう。

kojima

<< back
TOP > 大阪/コンゴ往復書簡
Copyright (c) log All Rights Reserved.