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7/1(火) 2:45AM from山下 こんにちわ。猫道を通って日記を届けにきました。 |
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細馬宏通さま。
山下里加です。
うっとおしい梅雨の季節ですが、いかがお過ごしですか?
先日、お知らせしたように私はぎっくり腰という年相応(しみじみ)な状況に陥ってしまい、最初の一通から遅れてしまいました。ごめんなさい。
さて、何のお話をしましょうか? って私が細馬さんをお誘いしたんですものね。そこからお話を始めます。
……という書いたままパタリと筆(キーボード?)が止まってしまいました。で、もう6月30日。梅雨から初夏へと季節まで移ってしまいました。なんだか思考の溝にはまってジタバタ、うーんううう。
こんな時は、素直に初心に戻りましょう。
今、私の中でぐるぐるうずまいているのは、「見る/見えないって何だ?」という子どものような疑問です。フィールドワークのメーリングリストでもお察しの通り、このテーマで学生達にお話したのですが、上手く整理がつかず、かえって彼らを混乱させてしまったかも……と反省することしきり、です。
細馬さんとお話したいと思ったのも、これが原因(理由?)です。私の勝手な推測ですが、細馬さんは“人が見ること”にとても関心のある人じゃないかな、と思っているのです。細馬さん自身が“見る”のではなく(もちろん、細馬さんの視点にも興味津々なのですが)、“人は何を見てきたのか”への関心。人間そのものへの関心を持っているんだろうなぁというカンが働いたからです。
当たっているのかしら?
そうそう。細馬さんが書かれた『浅草十二階 塔の眺めと<近代>のまなざし』(青土舎刊)を読みました。面白かった!
“塔の高みから下界を見る”は、掌に風景をのせたような所有感を持つ。一方、“パノラマという人工装置を見る”は、奥行きや臨場感を頭の中で創り出す快感をもたらす。という指摘は、目からウロコが落ちるようでした。私は、なんとなくその二つは同じ感覚で捉えていたので。
その“眺め”から出発して、田山花袋や石川啄木が文章の中で、どのように“まなざし”を描写しているかに言及したか、へ発展していく様は、すごく刺激的でした。私は、花袋のぐらぐらする見方がなんとも情けなく、そして親近感を覚えました。いやん、私みたいって。
私の「見る/見えない」の関心は、いろんな方向に飛び交って、混乱しています。
たとえば、文楽。細馬さんもご承知のように、操っている人間を堂々と見せながら「見えないお約束」なんて言い放つこと。人形、大夫、三味線の三業が、それぞれ姿を見せていて、お客の視線をキョロキョロ、うろうろとさせることを、「よし!」としていること。そして、妙に細長い舞台背景の装置…。文楽ってすごく変です。私が育ってきた環境の「見る」とは違う「見る」があるような気がするのです。
たとえば、アウトサイダー・アート(知的精神的障害者を含む正規の美術教育を受けていない人が創る作品)。その作品を通して、私は彼らの「見る」の端っこにとりつくことができる。と同時に、アウトサイダー・アートの作品と人を「見ないようにする」力にも、関心があるのです。その力を否定するのでなく、「なぜ見ないようにけんめいに努力するのだろう?」という素朴な関心、興味…というより好奇心で動いているようです。
うーん、私は花袋と同じく「信念」がないので、ホントにまあ、こんな疑問や関心や好奇でふらふらと、あちこちに手を出してどないすんねんって気もしますが。。。細馬さんは、石川啄木に思いがあるように読んだのですが、「見る/見えない」への関心はどんなものなのかしらん。
てなわけで、あいまいで、漠然としていて、ええ加減ですが、お返事がいただければ幸いです。
あ、日付も月も変わっている。ふー。
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