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皆が知っていた大阪の芝居

私の同世代、関西で子供時代をすごした者が持つ共通の想い出の中に、土曜日の午後、松竹新喜劇のテレビを見ながらお昼ご飯を食べた、という記憶を持つ人は多い。
私は、痛烈で解りやすいギャグ、明るい画面でテンポの良い吉本新喜劇と比べると、何となくぼんやりと暗い画面が多く、下座音楽を用いた松竹新喜劇はどうも辛気臭くて、子供心に性にあわないと思っていました。ですが、いつもいつの間にか最後まで見入ってしまっていた・・・物語に引き込まれていました。うちの大人達は皆、松竹新喜劇派で、「ドタバタで笑わせているだけの芝居は好かん。寛美の芝居は泣かせて笑わせる」・・・よくそう言っていた気がします。藤山寛美さんの全盛期でした。

土曜日のお昼ご飯の想い出である松竹新喜劇に、私が持つイメージというのは、何故か初秋の夕暮れでした。
日が暮れるのが早くなり、頬にあたる風も少し冷たく、遊びを早く切り上げる物足りなさとは違う物悲しさを感じながらも、だからこそより一層に、家々から煙がたち、焼魚やらカレーやらお味噌汁やら、各家からの美味しそうな匂いが急に敏感に感じられ、温かく癒された気持ちになる・・・そんな寂しさと温かさの妙が、生きることの悲しさと面白さを表したかのように感じていたのかもしれません。そうした何ともいえない味わいを子供の頃から松竹新喜劇に感じていた気がします。


松竹新喜劇のルーツ・曾我廼家喜劇発祥100年

歌舞伎は、その祖を出雲阿国として話が伝わっています。

では、松竹新喜劇のルーツはどこにあったのか?昨年の曾我廼家喜劇「山椒の会」第一回公演のプログラムに、松竹演劇部の水口一夫先生がお書きになったものをもとに、少しお話をさせて頂きたいと思います。

ご存知の方も多いかと思いますが、鶴家団十郎の俄(にわか)芝居に影響を受け、「笑う芝居」を志し、伊丹の桜井座で日本最初の喜劇という名前「新喜劇」の看板を掲げた二人、曾我廼家十郎と曾我廼家五郎は、もとは歌舞伎の大部屋役者でした。その旗揚げが明治36年(1903)、今年は曾我廼家喜劇が生まれて100年になります。
翌年の浪花座公演では、日露開戦をヒントに十郎と五郎が書いた「無筆の号外」が大当たりし、曾我廼家喜劇を一躍有名にしました。ですが、時とともに、二人の個性が意見の対立に変わり、結成12年で、五郎と十郎は袂を分かつこととなったそうです。

曾我廼家五郎劇の五郎はアクの強いこってりとした芸風、一方、曾我廼家十郎劇の十郎は飄々とした洒脱な味わいという芸風だったらしいのですが、その二人に共通していたことは、芝居は脚本が第一という理念でした。それまでは、俳優の仕勝手や都合で脚本が変更されることが常であった日本の商業演劇界において、喜劇役者が先駆者となって、戯曲第一の近代演劇の考えを進めたのです。また、その中にも二人の個性があったそうで、細部まできっちりと筋立てる五郎と、口立てやその日のお客さんの雰囲気で手をかえる十郎では、上演時間が同じであっても原稿用紙には大きな枚数の違いが生まれました。

十郎が亡くなった後は、十郎の意志を継ぎ、五郎一座に引き取られた役者もいて、その中、十吾は二人の師の名前からの命名です。この十吾も優れた創作力を持ち、十吾の作品に五郎が脚色して出されたものは、五郎のペンネーム一堺漁人(いっかいぎょじん)として発表されました。

昭和3年(1928)、その十吾が座長となり松竹家庭劇が誕生し、曾我廼家五郎劇団と競合します。
昭和22年(1948)、喜劇王・五郎の死の翌月、五郎劇、家庭劇のメンバーらによって松竹新喜劇が誕生し、曾我廼家と名のつく喜劇はなくなりました。
曾我廼家喜劇の祖、五郎と十郎の墓は大阪市天王寺区城南町の天龍院にあります。


曾我廼家喜劇「山椒の会」演出家に尋ねる


この8月9日、10日とその曾我廼家喜劇の復活を目指した「山椒の会」の第二回目の公演がワッハホールで開催されます。(http://www.gesuart.com/sansyounokai/index.html
その主宰者で演出家、松竹の米田亘さんと、今回もう一方の作品で初演出を手がけることとなる木下三郎さんにお話を伺いました。

—曾我廼家喜劇について簡単にお教え下さい。
米田「上方喜劇のドラマツルギ(教義)の根本をなしているのが上方喜劇です。」

—曾我廼家喜劇を復活されたいと思われたのは何故ですか?
米田「復活というか、もう一度足元を見つめ直すという気持ちですね。曾我廼家の芝居のあり方というか・・・。そしてそれを提案して、もう一度、曾我廼家喜劇という物を皆さんに知って頂きたいと思いました」

—米田さんは始めから喜劇の演出家志望だったのですか?
米田「もともとは芝居がそう好きって訳でもなかったんですよ(笑)。まず、卒論で新喜劇について書いたんですね。それは、やっぱり大学当時でも、大阪の人間として身近にあった芝居だったですからね」

—早稲田の文学部演劇科ご出身でした?
米田「そう。フランスのモリエールとか有るけど、親しみのある芝居やったから・・・。まあ、本音を言えば優秀な子が、そんな卒論を書けばええなと(笑)。そのあとの就職の時も、普通の会社に勤めてサラリーマンになるというのは乗り気になられへんかったし(笑)・・・。役者になろうとも思わなかったんですけどね。あがり症やし、台詞なんか言われへんやろうし、けど、せっかく演劇科を出てんし、これで就職したいなと思って本を書こうと思ったんです」

—それで松竹さんへすんなり入れました?
米田「たまたま文芸部に一人欠員がおってね(笑)。はじめは、前の天外先生に'働きたいです'言うて手紙書いたんですよ。熱血青年的な文書で・・・。その手紙を平戸さんという上司、藤山さんとずっと組んで仕事してはった文芸部長に天外さんがまわしてくれたんですよ」

—そのころ藤山寛美さんは全盛期?
米田「そう全盛期も全盛期。リクエスト芝居とかね。その時は前売りを買うお客さんが新橋演舞場のまわりを十重二十重(とえはたえ)・・・ちょっとオーバーやけどね」

—東京ででもですか?
米田「東京は年1回しか来ないから、尚更お客さんが楽しみに待ってはった。僕が大学時代、新橋演舞場で観た時なんか、お客さんが一杯で、3階の通路に新聞紙ひいて座ったからね。そんで、その前売りの時に藤山さんが劇団員を後ろに連れて、紋付袴とか劇団のユニホーム着て'ありがとうございました'言うて、手拭いや扇子を配ったりしながら回るんですよ。サービス精神旺盛な人やったし、役者として最高に油の乗ってたとき、寛美さんが44歳くらいでした・・・」

—木下さんは何故、松竹新喜劇に?
木下「僕が入ったのは新生松竹新喜劇です。だから、藤山寛美さんは知らないんですよ」

—何年生まれの何年入社ですか?
木下「昭和38年生まれの、平成5年入社です。まだ10年ですわ」

—どうして入られたのですか?
木下「求人広告、ビーイングで(笑)。美術の前田剛さんは同期です」

—それまでは何してはったんですか?
木下「大学時代に、同志社の第三劇場、マキノノゾミさんの・・・その小劇場やってて。それで大学中退して東京に行って、緑魔子さん石橋蓮司さんのところでアングラやってて、4年に1回の公演だったので、ずっーとバイトと稽古場で・・・、まあ、なかなか大変なので大阪へ帰ってきて(笑)、ちょうどバブルの終わり頃だったので何とか就職も出来たんですが、行く会社行く会社潰れて(笑)・・・、2年に3つ位行きました(笑)」

—(笑)その会社では、何してはったんですか?
木下「グラフイック、チラシのデザインです。大学は文学部でした」
米田「ずっと役者やったんやね」

—そういう感じですよね。お顔小さいし、背も高し、アングラちっくだし(笑)、いけてる気がしますけど・・・松竹さんの面接は凄い競争率じゃなかったですか?芸能関係で仕事をしたい人って多いですよ。
米田「人数が多くても、ええ人って少ないんですわ。役者の募集でもね、ほんまに熱意があるとか理想に燃えてというのはね。ただ、四季とか有名な劇団は、劇団のしていることがよく知られていますから、それをしたいっていう人は増えますけどね。松竹新喜劇は、今は、やってる回数も少ないから、若い子で新喜劇をしたいと思う子も増やせてないですし、山椒の会とか何かをやって、新喜劇をしたいと思って参加してくれるような若い人が探せたらいいなあ〜とか、役者もスタッフも、新喜劇の人に、一回でも活躍の場を増やしたいと言うのも、立ち上げをした時の理想の一部でもあるんです。何か活力になることをしたいという・・・。藤山寛美さんが活躍してはった頃は、新喜劇に入りたいと思う若い人も多かったですからね」

—松竹新喜劇の女優さんって、綺麗な方、多いですよね
米田「女優になると、見られて化粧の仕方を覚えていくから綺麗になっていくんよ(笑)喜劇してると、個性が体にしみついて、それが魅力になるんですわ」

—今度、木下さんはその'山椒の会'で初演出なんですよね?
木下「はい」

—いかがですか?
木下「いやあ、ちょっとビビってます(笑)」

—木下さんが演出される"水"というのは、どんなお話なんですか?
木下「大洪水の中、蔵、密室に10人が閉じ込められるんですけれど、死が身近になっている人間がどう動いていくのか、追いこまれたら何していくのかという・・・」
米田「追い込まれた中に、ポロッとでる可笑しさやね」

—これは潤色されるんですか?
木下「いや、そのままのつもりですけど・・・。基本は出来るだけ、いじらんようにしたいんですけど・・・ただ、五郎さん独特のその時代の言い回しがあるので、その辺は整理したいと思います。テーマがボケないように・・・」

—アングラ芝居と松竹新喜劇って対極な気がするんですけど(笑)?
木下「あのね、僕もそう思っていたんですけど、唐十郎さんの芝居でも最後、浄化されるじゃないですか?最後はカタルシス」

—ええ、ええ。芝居はカタルシスですわ。 五郎さん十郎さんは歌舞伎の役者さんだったんですよね。
米田「そうです。五郎さんの自叙伝には、始めは役者がいなくて近所の芝居好きの道楽者を集めてしたと言ってましたね」

—米田さん演出のお芝居では、坂東竹雪さんが大きなお役ですね。
米田「そうです。若い方にこうした機会を持ってもらいたいというのは、山椒の会の旗揚げの理想の一つでしたから嬉しいです。容姿には恵まれないけれど心根の優しい子を女方で演じて頂きます。また、五郎、十郎はもともと歌舞伎役者で、曾我廼家喜劇は歌舞伎を習ったことも沢山ありますので、今回、坂東竹三郎さんに特別出演頂くのは本当に光栄ですね」

源甲斐智栄子

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