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【伊藤千枝(振付家、ダンサー)インタビュー】
珍しいキノコ舞踊団ホームページ http://www.strangekinoko.com/

福永信 撮影

—ダンスって、演劇よりもさらにライブであることが求められるジャンルであるように思います。芝居だったら、戯曲というかたちで残るわけですね。別のだれかがそれを片手に別の時間と場所で上演することもできる。ある種の再現性がありますよね。ダンスの場合は、残りませんね。そうすると、すべての作品に接した人ってすごく限られることになります。どうやっても、どういう角度からも全作品をカバーできない、というダンスの特性みたいなことを、伊藤さんはどう思われていますか。
伊藤;私も残っていくものにあこがれたりしますが、こういう特性があるからこそ舞台をやっているというのはすごくあると思います。一応、ダンスの振付を記号で記す方法もこの世には存在しています。観客の方は、ひとつひとつの作品で、そのとき観て、何かしら感じていただければそれでいいと思います。観る人はある意味でとても無責任でいいと思うし、観えてくるものはそのときの体調によっても全然ちがうじゃないですか。だから、こうであってほしい、みたいなそういうのはなくて、ただ何か感じていただけたら、そして何かを持って帰っていただけたらそれだけで最高です。
—きょうは、せっかくはなしができるのなら、珍しいキノコ舞踊団の初期作品の解説していただけたらって思ってるんですが。
伊藤;エーッ(笑)。
—リストを作ってきたので、以下、リストを見ながら、解説をお願いします。記憶を頼りにでいいですので。
伊藤;はい。

事前にどういうことをインタビューするかは伊藤さんに伝えていない。全作解説を予定していたが、予想どおりというか、当日僕はかなり緊張しており、数点の作品については聞き損ねている。遅刻こそしなかったものの、場所も迷った。前回記したように、丁寧なFAXをいただいていたのだが……。待ち合わせ先は東京は品川駅のアフタヌーンティーである。場所を重視してだろう、伊藤さんは紅茶を注文された。僕はゼリーの入ったなんたらというものを注文してしまった。すると、ウエイトレスさんはしばらくして戻って来て、申し訳ない、まだゼリーが固まっていないと告げた。代わりのものでいいか、と言う。僕はいい、と言った。それで、代わりのものを注文した。だが何を代わりに注文したのか、今となってはまるで覚えていない。それほど緊張していたのである。カセットがうまく録音されているかが気になってもいた。テレコを貸してくれたのは編集者の波多野文平氏である。僕はこのテレコに見覚えがあった。ちょうど1年前、僕は波多野氏によってインタビューを受けたのである。何ということであろうか。そのときもこの機械が前にあった。代わりの飲み物にほとんど口をつけぬうちに、またウエイトレスさんが戻って来た。ゼリーが固まったという。それをお持ちしましょうというのだ。結果、3つの飲み物が2人用のテーブルに置かれることになった。
 ちなみに、品川駅は私が現在連載している長編小説『地球最後の人間』の重要な舞台である。また、カセットテープもまた無視出来ぬアイテムとして登場している。果たしてこれは偶然なのだろうか。(なお、聞き損ねた作品にはをつけています)

1『散歩するみたいに。』(1991年)

伊藤;初めて3人で振付をした作品です。1本の作品っていうよりは、お客さんが散歩するときみたいに、いろんなものが目に入るような感じでいいんじゃないかって話し合いました。ひとつにまとめるっていうより、3人がやりたいことをやりましょうって感じでした。タイトルは私です。
 話し合いのいちばん始めは、「何やりたい?」ってとこからで、「私、この曲でこんなダンス作りたい」「あ、そう、わかったわ」っていうふうに、やりたいことを、それぞれ並べてみて、それから、「んー、足りないねえ」とか「これとこれどうくっつける?」とか話し合いながら接着剤になるものを足していったとか、そういうやりかたをしていたんです。
—当時はどういった場所でやられてたんですか。
伊藤;(大学が)演劇学科だったんで、友達が団体つくってよく芝居の公演をしていたんですよ。最初はどこの場所でやったらいいのかもよくわからなかったので、いろんな人に「どっか場所ない?」ってリサーチしてるときに、「高田馬場にアートボックスっていうところがあるよ」って友達に言われたんです。このときからもう制作の大桶(真)も一緒にやってました。
 アートボックスって、友達が借りたことがあるというだけで、全然知らなくて。「ぴあ」見たら、ホントにあるし、値段聞いたらそんなに高くないってことだったんで、じゃあここにしようかということになった。
 でも、そこ、ダンスじゃなくて芝居をするところなんです。ほんとに狭くてね。外に下駄箱があって、靴脱いで入って、5、60人くらいっていう。で、「今日は50人だ」、「60人だ」、「なんだか80人も入ったよ」って、そんなぐらいのことから始まったんです。
 本番はみんな超興奮してて(笑)、山下三味子って声大きいんですけど、なんだかわからないんだけど、興奮して大騒ぎしてて、ダンスの靴までなくしちゃって(笑)。楽屋と客席が黒いカーテン1枚なんですよ、カーテン1枚だから、本番前で大あわてで探しているから座っているお客さんにぶつかってたりして「ごめんなさい、ごめんなさい」って。またそのお客さんってのが私の知り合いで、「靴、探してたでしょ」って、全部まる聞こえでした。このときは綿ジャージー時代かもしれない。綿ジャージーが好きな時代っていうのがあったんです。いちおう、ワンピースで、意味なく衣装替えをしたりしてましたね(笑)。時間は60分くらいだったかな。
—これはもういちど、ぜひ、見たいですね。
伊藤;いや、いいです(笑)。

2『will be,will be』(1992年)

伊藤;ガーディアンガーデンの演劇フェスティバルの出品作です。こういうのあるよって大桶がもってきたんです。これに受かると場所が提供されるんですね。そしたら次点で受かって、ふつうに受かったら大きいお金とかもらえるんだけど、そこまではいかなくて、結局、1組分を折半して、1週間やれるところを、3日ずつとか全部半分半分でやったんです。
 今、もうなくなっちゃいましたけど、渋谷にそのガーディアンガーデンていうカフェがあって、そこでやってたんですよ。今のパルコのパート1とパート3の前に映画館があるけど、そのとなりのゲームセンターになっているところ。今は有楽町のほうにありますね。その渋谷のは、スペイン坂を上がったところだから、めちゃくちゃ環境もよくて、喫茶店なんで、ガラス張りで、通行の人たちも見れたり、「何やってんの」ってけっこういろんな人たちが覗いて行ってくれました。この作品で、その後いろいろお世話になる人たちと出会っているんですよね。みんな観に来てくれていたんです。渋谷だったんで、嗅ぎつけて。
—じゃあ、もう公演がしやすい環境にすぐなったんですか。
伊藤;いや、全然(笑)。全然なんですけど、でもいろんな人が観に来てくれたおかげで、自分たちで企画書を書いて、会場を借りてっていうのが、なかった。「こういうのあるけどやりませんか」って、依頼とまでは言わないけど、誘いをいただいてたんです。来るもの拒まずだったんで、やってたんです。『にょろ』(『〜の価値もない。』〔1995年〕)はイーストギャラリーだったんで、自分たちで、貸してくださいって久しぶりに言いに行きました。
 振付のほうは、昔すぎて、よくおぼえているというわけじゃないけど、ちょっともめてましたね。「前回のようなこのやりかたじゃあ、あんまりうまくないな」って話になって、まとめようとして、ちょっと大変なことになった。3人の脳みそを1個にしようとしちゃったんですね。それで、ぶつかっちゃって、いちおう、つくったんだけど、よくないストレスがすごい残っちゃって。やりたい病が炸裂したんじゃないですか。私が、私が、私が、みたいな。興奮して(笑)。渋谷だったし(笑)。

3『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』(1992年)

伊藤;これは大変でした。単独公演だったわけじゃなくて、1日に何組かずつ発表するっていうのがあって、3、4組くらいのひとつで、再演のとき(1996年、1997年)とちがって30分くらいの作品だったと思います。
 天井に発泡スチロールの限りなく雲に近い造形物を吊りたくて、東急ハンズで買ったやつを私の家に持って帰って、みんなで、作ったんですけど、頭悪くてカッターとかノコギリでやっちゃったんですよ。で、もう体じゅう真っ白で、ひどい目に合いながらそれ持って会場に入りました。
 私たちはまだ学生だったし、会場側のスタッフにしてみれば小娘じゃないですか、もうやられましたよ、いろいろ。いまだに根にもっている(笑)。けっこう、そういう目にはずっとあってるんですけどね。上に発泡スチロール吊って、真下に落としてほしいって言ったんです。「一番早く入ってくれないとそんなシカケできない」みたいに言われて、入ったはいいけど、ぜんぜん相手にしてもらえなくて、ほっぽりっぱなし。それで、「たぶんこれでできるよ」とか「紐切れば真下に落ちるから」とかすごい適当にやられて、私たちが「でもこれ、重しとか入れてないんで、紐つけといたほうがいいと思う」って言ってんのに、「大丈夫だから」って。で、落ちるところにいたらあたるとヤバイから、床にしるしつけるじゃないですか、ここに行っちゃいけないっていう、で、本番で切ったら、当たり前なんですけど、落ちて、ものすごい跳んで、ポーンポーンゴロゴロ、キャーッてなって。「死ぬよー」ってなって(笑)。
 あと、別の場所ですけど、「これ、どっから出れば」「エッ出れない?」っていうのがあった(笑)。「前の方で踊ってくれ」って言われたんだけど、ものすごいいろんなものがあって、そこに出れないんですよ。みんな笑って、「どうすんだこれ」って。控えてるところから舞台に出れないんです。「いいんだ、やんなくって」(笑)。けっきょく、舞台の前から上がったのかな。それから、「舞台の前面から奥に1メーターの幅で踊ってください」ってリクエストもあった。舞台と客席との段差はけっこうあって、そうすると、手も広げてまわせないし、ダンスじゃないよね、歩くだけだわ(笑)。それで踊ると、落ちて、死んじゃう(笑)。
 ダンスの関係者から見ると、「キノコってダンスの場所以外によく出て行くから、いいね」ってうらやましがられるけど、ものを伝えるのが大変ですね。当時は、だから、もっと広く、もっと広くって言ってたけど、今は逆で、1メーターなら、1メーターで何やるかなって。自分に相手側を合わせさせるんじゃなくて、自分で入って行く。それもすごくおもしろいんですよね。自分たちでやるときには思いつかないことだから。
 だから、最近は「いいっすよいいっすよ」って言ってます。「じゃあ壁画ダンスどうする」って、楽しみながら考える(笑)。「落ちたら落ちたじゃない」って。
 振付の仕方は前回の『will be,will be』のときとはちがって、「これは1シーンを3人でつくってみようか」とか、共同作業って感じにしてみた。脳みそ1個にするんじゃなくてね。でも、共同作業したけど、「脈絡なく、変な具合にばらばらになるなあって、うーん、どうしようか」って悩みましたね。

4『これを頼りにしないでください。』(1993年)

伊藤;共同作業は、この『これを頼りにしないでください。』で、もういちど、やってみました。『散歩するみたいに。』みたいなのとがまじっているという印象です。私がつくった振りを、「小山(洋子)にあげるから、料理してよ」とか、人にもらった振りを私が構成したり分解したりして。これは『Three pieces of orange.』も同じやり方です。でもあいかわらず、この曲でこういうのやりたいっていうのはつねにあって、そういうのを3人が持ち寄って、つくって、「これが前で、こっちがあとね」という作業もやりながら、こういうことをしてました。
 実は、これ、すんごい長いタイトルなんですよ。本当はチラシの裏にダーッとたてに並んでるんですけど。
—おぼえられないくらい?
伊藤;うん。すこしだけ、おぼえてる。またねまたねまたね、とか、中国の百科事典、とか。
 3人でタイトルを持ち寄るんですよ。で、そのときに何個か候補を出してきて、それを当時私たちのなかで、小山さんだけワープロを持っていて、文字面チェックしなくちゃいけないから、彼女が「じゃあ打ってくるわ」って、作ってきて、そのまたね、っていうのも、ひらがなとか、「またね。」とか、いろんなことしてて、とにかくダーッて並んでて、その打ってきてもらったのを見たときに、すごくおもしろかったんです。で、「これ、全部いいんじゃない」って言って。けっきょく3人の作品への思いが言葉で出てきちゃっているから、それを1個にするのもったいないから、全部やろう、でもそんなの「ぴあ」に載らないじゃないですか(笑)。だからどれか1個選べっていうことになって、真ん中くらいの場所にあった『これを頼りにしないでください。』になった。
—タイトル同様、作品自体も3人の持ち寄った振りとか、構想とかが使われていく感じだったんですか。
伊藤;もう、3人演出家と振付家がいるわけだから毎回そうでしたね。『散歩するみたいに。』から同じです。
『これを頼りにしないでください。』が大学を出て最初の作品で、シードホールで上演したものですね。第1回(『散歩するみたいに。』)をやったとき、次が続くなんて、ほんと思ってなかったし、ガーディアンガーデンだって、受かるとも思わなかったっていうとあれだけど、どうなるかもわかんなくて、「やってみようか」って言って、出してみたらひっかかったっていう、そんな感じだったんですが、大学出て、何の迷いもなく、続いていますね。就職活動だれもしませんでした。ちょっと前まで、キノコの人みんな言ってましたよ。「こんなに続くなんて」って。
 そうそう、これは書いておいてほしいんだけど、公演の記録ビデオを今見ても「これ速まわしかよ」って思うくらい速く踊っているところがある(笑)。私がつくったシーンだったんだけど、笑っちゃいました。とにかく速い。しかも表情がない(笑)。すごい練習したんです。音に間に合ってないとか言って。無理だもん、あの振りじゃ間に合わない、今見ると。でもみんなすごいやってるからビックリしちゃった(笑)。私は好きな作品ですね(笑)。

5『Three pieces of orange.』(1994年)

伊藤;これはパッチワークが世間的にすごい流行っている時期だったんです。最近またきてましたけど、パッチワークが流行ってて、それ、着たーい感じになって。今の衣装さんとは、じつは『will be,will be』のときに出会っていたんですよ。チーフは別にいたんですけど、縫う人として手伝ってくれたのが、今ずっと、デザインして衣装作ってくれている人なんです。その子がパッチワークの衣装を作ってくれたんですよ。でも、みんななんか貧乏なときのシンデレラみたいになっちゃって(笑)。小山のおばあちゃんが当時、観に来てくれて、あまりに貧乏そうで泣いた(笑)。「そんなにお金ないのかい」って(笑)。これは考えなきゃならないってなって、そのあと会議になった思い出がある(笑)。こちらが求めているのと、受け取られ方がちがうらしいって(笑)。

6『〜の価値もない。』(1995年)

伊藤;で、この公演のときに、ベルベット使ったんです(笑)。高い生地使ってみようじゃないかって。このときは貴族っぽくしたかったんですよね。スーツっぽい格好をしてね、そしたら、おばあちゃんが「よかった」って言ってくれた(笑)。
 でも、衣装はいいけど、舞台をどういうふうにしていったらいいのかっていうのが、どうしても、つかめなくて、わからなくて、ほんとにいろんなやりかたをしてました。最終的に、共同作業というのは3人いるんだからあたりまえで、せっかく思いがいっしょな3人なんだから、3つのたがいに一部分だけ重なったわっかがあって、重なっているところを大事にして、あとのはみでている部分ていうのは、それも個性なんだから捨てないで、ここの真ん中で、引っ張って行こうって、また動き始めた。
 その後、山下さんが、振付をつくるのにあんまり興味がないって途中でなって、ダンサー専門になって……、あれ、三味子いつから抜けたんだろう……おぼえてない(笑)。『電話』(『電話をかけた。あと、転んだ。』〔1996年〕)のときはもう2人でつくってた、かな……。7(『彼女はあまりに疲れていたのでその喫茶店でビートをとることはできなかった。』〔1995年〕)は確実に彼女(山下さん)、つくってたのはおぼえてる。このときね、三味子は出なかったんです。振付だけしたの。で、8(『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』再演〔1996年〕)でもうつくってないかも。それで、ダンサーだけになったのかな。ちょっとあいまいだけど……。でも9(『電話をかけた。あと、転んだ。』)のときは、確実に私と小山でつくった気がするな。あー、おぼえてないー(笑)。このあたりは、もうすごい大変で、たのしかったけど、ほんとに大変でしたね。時間もものすごいかかって、毎回、本番前になると、3人で、「命けずってやっている気がする」って、青ーくなって(笑)。でも王子様の肖像画も飾ったりしてこれも好きな作品です。

7『彼女はあまりに疲れていたのでその喫茶店でビートをとることはできなかった。』(1995年)

—タイトルがいろいろ考えさせられますね。
伊藤;はい(笑)。大学生のときに英語の授業があって、友達がこの文章訳しなさいって言われたんですよ。で、ほんとの意味はちょっと忘れちゃったんですけど、このビートっていうのが本当はちがう意味なんです、でもその子がこの文章を訳で言ったんですよ(笑)。あまりにもおかしくて、これは、いつか必ずタイトルで使おうと思って、ずっとおぼえていたんです。卒業してずいぶん経ってたんですけど、毎回公演をするときには、ストックしているタイトルがわりにあって、タイトルどうしようかって話をしてて、で、そのなかに、これもあって、いよいよ使うか、本人もおぼえてないだろうし(笑)、それで、使ったんです。
—タイトルが先に決まったんですか。
伊藤;あのね、このころって、わりと頭で、文字で考えていた時期だったんですよ。ベラベラしゃべるみたいな。だからしゃべることはしてましたけど、こういう構成の作品とかなんとかというところまではいかない。『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』はプレスリーの歌のタイトルで、あと漫画のタイトルで、そこから引っ張って来たんですけど、あまり作品の内容とタイトルとをひっつけようということはなかったですね。逆に、なるべく内容とタイトルが関係ないものにしようとしてた気がします。
—それにしても、このタイトルは……。
伊藤;すごいですよね、この訳(笑)。

8『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』再演(1996年)

伊藤;この作品はテアトルフォンテでやったんですが、このときの衣装はピアノカバーみたいだって言われた(笑)。着てる自分たちもそう思ってて(笑)、「これは……」って。ちゃんといろいろ考えて、デザインとかも頭悩ませてやっているんですけどね。さっきも言った、今も衣装をやってくれている人はもともと普通の洋服を作る人だったんです。だからこうやると舞台ででどう見えるとか、まだこのころは知らないから、すごく重たく見えたりとか、ダンスだと、足あげるし、すごい動くじゃない、それにあった衣装を作るのにちょっと時間かかりました。
—こういった作業って役割分担がはっきりしていたんですか。
伊藤;彼女が1人でやっているというより、私たちも一緒になって、キレ買いに行ったりとか全部一緒になってやっていました。チラシのデザインから、何から全部でした。
—それは今もですか。
伊藤;そうですね。今だったら生意気だとか、よく知っている人たちだからある程度まかせられますけど、このころって、おたがいにどうしたらいいかわからないから、衣装とかもそうだし、私たちもどうすればよくなるのかわからないから、一所懸命いっしょになってやって、ひとつのものをつくろうとしていたんですね。
 だけど、今ちょっと、考え方が変わってて、自分の脳みそにはもう限界があるって感じがすごくしているから、せっかく別のセクションの人がいるんだから、その人の脳みそを借りて、ヒントっていうか、必要な情報は全部あげるけど、そっちの脳みそで1回考えて出してくださいって。
—脳みそをひとつにするってやりかたから、脳みそをたくさんにするやりかたに変わったわけですね。
伊藤;そうそう。だから、今度の新作(『NEW ALBUMS』)もダンサーの脳みそも全部使う。今まではダンサーの脳みそを使うって感じじゃなかったんですよ。だけど今はものすごい。こないだの原美術館のとき(『フリル(ミニ)wild』)もダンサーみんな悩んでましたけど、それを上回る悩みをみんな抱えていて、すごく大変になってきているけど、でも、ダンサーの分の脳みそもあるわって。

9『電話をかけた。あと、転んだ。』(1996年)

—タイトル、だんだん短くなっていってますね。
伊藤;うん、これは私がつけ始めたから(笑)。私が出したのが採用されたんですね。私が出すタイトルのときはわりとこういう作品にしたいっていう思いがあってつけてる感じです。このとき、「ものすごい大きい電話出したい」って言っていたんだけど、予算なくてだめだった(笑)。
—そのせいか、タイトルと内容は、直接、関係はなかったように思いました。おしゃべりするわけではないですし。
伊藤;本当に大きい電話が出したくて、このタイトルをつけたわけじゃないんですけど。あんまりこういうことは言いたくないんですけど、『電話をかけた。あと、転んだ。』の、あと、ってアフターじゃなくて、アンドなんですよ。電話をかけるって、コミュニケーションで、私が今、人とコミュニケーションとるってなんだろうって思って、いちばんは会話ですね。だけど、なんかね、やたら電話かけている時期だったんですよ(笑)。で、電話かなって。コミュニケーションのことを考えたときに、ダンスが私にとって会話だろうと、このときには思ってたんで、それで電話をかけるというのを思った。転ぶっていうのは、動詞で、転ぶって、勝手に自分で転ぶでしょ、ひとりで(笑)。電話は相手とすること、でも転ぶことはたぶんひとりですること、なんとなく、そんな思いがあって、それを2つ、並べたいなって、思ったんです。そういう動作を表す言葉と、ダンスが結び付くだろうしって。
—そういえば、「、」とか「。」って、それじたいでは何ら発音できないけど、あるリズムを作るし、ある動きをもたらすしるし、ですね。
伊藤;うん。最初からたくさんの人に観てもらいたかったんですよ。ダンスを知らない人たちにもすごく観てほしかった。それで、いちばん最初に載れるのって「ぴあ」じゃないですか、で、「ぴあ」の紙面に載ったときに、いかに目立つかというのをまず考えました。チラシにしても、どういう字体なのか、とか。私たちのタイトルって、口でいうより、目から入るものだから、とくに私たち日本語にこだわっていたので、日本語をどう使うか考えたときに、目から受ける印象のほうが大事だと思っていましたね。自分の書き文字じゃなくて、最初のころはワープロで、今はコンピュータとかで、文字面すごい見て決めてた。いまだにタイトル決めるときにやります。
—コピーでもないし、普通の文でもないし、普通のタイトルでもないし、なんかいい長さですよね。
伊藤;フフフ。
—その前のが、あまりにも長かった(笑)。
伊藤;長すぎた(笑)。

10『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。〜ジュリロミREMIX』(1997年)

伊藤;こないだたまたま見たんですけど、ダンサーは表情をださない、どんなにおかしいことが起こっていても、いっしょに笑っちゃだめ、がまんしなくちゃならない、気持ち悪いですよ。うわぁ、気持ち悪いッって思った(笑)。すごい不自然でした。ダンサーの存在の仕方がだめでした。でも、それは演出の私たちが要求したものなので、ダンサーに責任はないけど。

11『私たちの家』(1998年)

伊藤;舞台と日常生活の空間のあいだを行ったり来たりしながら、どういうふうにダンスがたちあがるのか。それはダンスとは何だろうということになるんですが、私たちが踊るっていったいどういうことで、踊るときに私たちはどういうふうに感じるのか、踊ることで起きてくる感情だとか、まわりの空気が変わってくるということはどういうものなんだろうという考察は、『私たちの家』から始めてきたことです。
 私が小さいときにいた、ダンスの世界っていうのは、モダンダンスだったんで、悲しいとかうれしいとか、過剰な表現をする。それを演じなきゃいけなくて、ダンスでストーリーを語ったり、愛とは何、死とは何、とかちっともふだん身近じゃないようなすごい壮大なテーマをかかげてやってても、わからないじゃないですか。自分がそのやっているもの自体をわからない。高校生くらいでやっているので、すごい不自然なんですよ。それでちょっと違和感をおぼえたんですが、最初はそれをいったん否定しちゃったんですね。だから無表情で、感情を外へ出すなって言ってたわけです。
 バランシンっていうバレエの振付家がいて、彼が「バレエは動き自体でこんなにすばらしくきれいじゃないか、このバレエで他のストーリーを語る必要はない、バレエそのものでいいじゃないか」って言ってて、ものすごく感動したんです。私もそう思うって。で、無表情にして、ダンスはダンスだけ。ストーリーじゃなくて、それでやろう。だから振付とかどういうふうに動くかとか、構成の仕方はどうしたら、とか、キノコが始まってからずっと考えてきた。そうやって、やり続けて行くうちに、今考えると、大事なものを置いてきちゃった感じがして。それで、見なおしたときに思ったのは、踊るってこと、どういったときに踊りたくなるのかってことです。
 お酒飲んで踊ってるとほんと楽しいでしょう? その気持ちはどこへいっちゃったんだろう。自分でそれを置いてきちゃったんじゃないか。それで振りをつくっていくことに苦しくなってしまった。ダンスと戦い始めちゃった感じになったんですね。右手あげたら、左足どうしようとか、普通に歩けない感じにまでなってしまって、これ、まずいなって思ってた時期でもあったんです。「お酒飲んで踊っているとたのしいのに、どうしてあのたのしい感じがないんだろう、私のダンスには」って、「なんで踊ると私、苦しいんだろう」ってすごい思って……。一周まわってもどってきたというか、けど、一周まわってその場にもどってきたわけじゃなくて、10(『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。〜ジュリロミREMIX』)までも必要なことではあるんです。ここを通ってきたから今もあるんだって思います。

12『私たちの家typeA;in a museum』(1998年)

伊藤;劇場全体の空気ってすごいあるんですよ。初日の緊張感って、踊っている側からすると、出て行くと、空間がまっさらなんですよ。最近はそんなにないけど、何にも埋まってない感じがして、スカスカなんです。でも、おんなじ公演を何回も繰り返していくと、不思議なんですけど空間が埋まっていく。その感覚って不思議で、えもいわれぬものがある。稽古場ではなく、ステージにあげて、観客の方がいて、その前で踊って、そのときにいったい何が起こるかというのは、いくら稽古をしてもぜんぜん読めないしわからない。ステージにあげることでつかめるってことがあるんですよね。
—それはこないだ〈現象〉って言われてたこと(連載第1回参照)と、つながりますか。
伊藤;〈現象〉っていうのはこの場合はちょっとちがいますね。あれは振り、動きのことがメインだから。動きだけじゃなくて、もっと天気がいいとか雨降っているとか、お客さんの反応とか、環境全部を含めたことです。

13『私たちの家typeB;monotone』(1998年)


14『牛乳が、飲みたい。』(1999年)

伊藤;これはキノコの本公演で、私がはじめて1人で振付した作品です。すごかったです。最後、倒れちゃって、私。ほんとにダンサーのみんなには悪いことしたって思っているんですけど、最後の最後で大カゼひいちゃって、小屋入りするときには体力とか精神面でも全然だめになってたんで、病院に行って、点滴うってもらって、それで小屋入りしたりとか。まわりのダンサーも、私が1人でやっているっていうので、応援してくれたんですよ。新しく入って来る人が2人いたりとか、ちょっと大変な時期でもあったんです。1人でやるのってほんとうに大変なんだなあって思ったりして。
—1人で振付をするっていうのは、『私たちの家』をやった結果ですか。
伊藤;いや、単純に、小山さんが諸事情で、ちょっと出来ないってなって、「じゃあ、私が1人でやるわ」っていう感じでした。その1人でつくる作業は、私にしてみたらすごい経験だったんです。

15『あなたが「バレる」と言ったから』(1999年)

   〔『素敵について』(伊藤千枝 振付作品)『holiday bus pass by』(小山洋子 振付作品)の2本立て〕

—このタイトルもまたいろいろ想像させられますね。小山さんと作品を分けていたので、僕は、このタイトルを見たとき、合作という形式を続けることの限界を示しているのかな、と推察したのですが……。
伊藤;ははぁ。ちがいますね(笑)。いや、でもこのタイトルはみんなすごいいろいろ考えてくださったみたいです。ひどいのでは、「伊藤さん不倫してんの」とか言われたりした(笑)。してないのに。これは『フリル(ミニ)』と同じなんです。これも私がつけたタイトルなんですが、『私たちの家』から始まったこと、例えば何かウソついて舞台にいるってことが、「バレる」ということ。
『私たちの家』から、『フリル(ミニ)』で考えたことは、そこで演じるっていうか、フリルって装飾ってことですが、自分をきれいに見せるためにいっぱいこうやってつけているものって、一見きれいかも知れないけれど、すぐバレちゃう。踊っているあなたは誰ですか、とか。そういう思いが強くあったので、こんな強い言葉になったんだと思うんです。
 これは『私たちの家』のあとに強く思ったことで、ついている「装飾」を、『フリル(ミニ)』と同じで、とろうよって、全部とる必要もないけどさ(笑)っていうことなんです。いっかんして私が思っているのは、ダンスってなんだろうということで、そのとらえかたがすこしずつ変わってきているのかもしれない。
—どういうふうにステージにいるかっていう問いがあってその答えが作品ということですか。
伊藤;答えっていうか、この方法でやったらどういうものが生まれてくるのかなっていう感じです。ステージに1回もあがったことのない私の友人たちをあげて、スポットライトあてて、こういうことをするとどうなるんだろう、とか。そういう感覚がでてきたのは、やっぱり『私たちの家』からなんです。
 それで『牛乳が、飲みたい。』の次にこのアートスフィアでの話があって、またもとのように共作にもどすかって話をしているときに、「1人でやってやり残したことが自分にあるので、それを残したままだとたぶん共作はうまくいかないと思うから、2本立てでやらしてくれ」って言ったんです。けど、3人でつくってたときからそういう話はしていたんですよ。3本立てでやってみようか、とか。じゃあ、それを実際にやってみようって感じではあったんです。

16『ウィズユー0.1』(2000年)

伊藤;このときは、ホールのひとたちに協力してもらって、新作つくっちゃった感じだったんですよね、そこで。これはかなりいい作品で(笑)。舞台美術とかもすごいおもしろかったし、福岡に会場見に行って、あーだこーだやって、そのうえで、向こうのスタッフの方にすごい協力してもらって、この場所でしかやれないことっていうのが、やれたと思ったんですよ。すごい好きな舞台です。
 内容は初めて福岡の方たちにキノコを紹介するっていう意味合いが強かったんで、前の作品のシーンの抜粋と、次の『フリル』に向けてのことを両方やったんですけど、実際は、ほんとに両者のあいだにある作品になったんです。やってることは『バレる』のシーンと『フリル』のシーンがミックスしているんだけど、ほんとに、ここから、『フリル』に行く〈あいだ〉の作品で、それがすごくおもしろかった。それに気づいたのは『フリル』が終わってからでしたけど。
 やっているときに思ってたのは、美術ということだけじゃなくて、空間の、空気っていうか、そういうものが不思議な立ち上がり方をした。それでおやって思ったんですけどね。終わってから、観客の方々と一緒に踊ったりとか。そのころから始まったのかな、みんなで踊るってのは。

17『フリル(ミニ)』(2000年)

伊藤;『私たちの家』から、再演っておもしろいなって思いはじめて、『フリル(ミニ)』に出会ってから、この作品にずっと付き合っていきたいなって気持ちにすごいなったっていう感じですね。たまたま『フリル』って、アビニョンに行けたりとか、私たちが自分からいわないでも、再演っていう機会をもらったんで、再演してみると、また全然ちがうものになっていって、これは『フリル』がたぶんちょっと特別なんだろうなって思うんですけど、飽きるっていうことがなくて、成長して行くというか、停滞せずに進んでいく作品なんですよね。やるたんびに、私たちもひとつ別な経験ができる。だからもうこれで今、ほんとの意味で、まだまだ長く付き合う作品だろうなって思う。あと先10年くらいはやってんじゃないって、そんな気はしますね。時間は、一番最初、デラックスでやったときは70分だったんですが、原美術館で60分にしました。寒いから(笑)。

18『ウィズユー1』(2001年)


19『ウィズユー2』(2001年)

—ツアーでまわったんですよね。
伊藤;そうですね。再演をそのままのかたちでやらなければならないばあいもあって、ツアーだとパッケージにしてかなくちゃならない。例えば、10メーターかけ8メーターで、作品をつくっておいて、ツアー先の会場がどんなに広い空間でも10メーターかけ8メーターで、切るんですよ。そうやっていかないとツアーでまわすのは大変なんだってのはすごくよくわかるんです。行ってやる仕込みとかも全部決まってて、おんなじことをくりかえす。それもひとつあると思うんですけど、そのことに関してはいまだに魅力を感じない。その場所場所のいいところがあるじゃないですか、その場所とやっぱりつきあって、作品が変化していくのは当然だと思うし、そういう場の力、空気を捨てちゃう、というか、切ってしまう、私たちの方から制限してしまうのはもったいないと思う。
 この『ウィズユー2』のソロツアーのときもそれを感じて、3つの空間(東京、京都、福岡)は全部ぜんぜんちがう種類のもので、京都なんかほんとすごくいい空間だったじゃないですか、そこにリノ(リウム)ひいて、ああいうかたちで舞台をつくらなきゃならなかったっていうのは、ものすごく残念だった。もっとすごくいい使い方、できたはずなのに。でも、やっぱ、ツアーってああいうものだし……。
—「客席」と「舞台」ってちゃんと分けてましたものね。
伊藤;ねえ……。東京でやったベースのハコを持ってこうとしちゃうから、ああいうふうになっちゃうんだと思いますね。
 これはさっき言った福岡の『ウィズユー0.1』と同じ場所でもやったんですよ。だから、ツアーでいったときは、「あれ、ここ、おんなじ場所?」っていう(笑)。だからもったいないなーって思う。

20『ウィズユー3』(2002年)


21『フリル(ミニ)wild』(2002年)


22『ウィズユー1.1』(2002年)
伊藤;18の再演でした。ほんのちょっとだけちがいます。でもまあほぼいっしょですね。そんなに変えませんでした。

伊藤;22作品よりもっとありますけどね、ほんとうは……(笑)。書いてないだけで、けっこうちっちゃいこともやっているんで、ただタイトルとか別につけてないから。初期のときからそうですし、トンチキハウス(小沢剛の横浜トリエンナーレの出品作)のときとか、ヒカシューのライブで前でて踊ったりとか、ラフォーレでのイベントでとか、ちょこちょこやっていました。
 ラフォーレのときは20周年記念でカプセル展というのがあって、キノコも出品しましたし、ちょうど『私たちの家』をやったあとだったんで、そのオープニングで、じゃああれをすこしやりますかといった感じで。
—それは絵で言ったらスケッチとか素描みたいな感じですか。
伊藤;スケッチってほどでもなくて、あるやつを、限られた空間で、そこでできることを前の作品からピックアップしてアレンジしてやる感じです。イベントっぽい感じですね。最近だとバッファロー・ドーターのライブにちょこっと出たりとかしました。こういうのはふつうの公演とはまったくちがいますね。
 このラインナップはだからキノコの本公演というか、作品をつくってますという感じで、トンチキもわりと作品をつくった観はあったんですけどね。それがそのまま『フリル(ミニ)』に続いています。
 いつだかちょっと忘れちゃったんですけど、『電話をかけた。あと、転んだ。』のちょっとあとに、別のイベントがあって、外国から、名前忘れちゃったけど、ダンサーが来たんですよ、ひとり。で、その人の公演のあとに、イベントがあって、それで、盆ダンス、盆踊りみたいなことを、ヨーロッパで当時、流行だったみたいで、何人かの振付家がけっこう向こうでやってたらしいんです。で、その人たちを呼ぼうとしたけど来れないからって言って、知っている人たちだったから、キノコだったらいいよって、キノコが彼らのそれを紹介することになった。そしてそのあと、キノコのダンスをみんなに教えて観客といっしょに踊るというのもやったんです。で、その盆ダンスみたいなのは、4組やって、そのうちの2つを、向こうの人たちの分とキノコの分と、やらしてもらって、リハーサルとかちゃんとやってね。こういう名付けようのない公演ていうのはけっこうありますね。話をいただいて、いろんなところでやっています。
 学生のころは、学校のなかでの発表であったり、外では、演劇の人たちのイベントに呼ばれることも多くて、そこで発表するのと。学校で発表する作品と、キノコの本公演と、もうぐちゃぐちゃでした。ずーっとつくっている感じで。だから自分のなかで、ほんとに『フリル(ミニ)』という作品にくるまで、えんえんとつくり続けてきたっていう感じがあったんですよね。そういう時期だなって自分でも思ってたんで、なんか、やり捨てじゃないけど、どんどんもう出して出して出して、再演っていうよりかは、新しいのをどんどん出していくっていう作業をするべきだなっていうのもあったから、どんどんつくってましたね。
 学生時代からたちあげちゃったんで、アルバイトとダンスとで、もう日々追われちゃって、なんにも、遊びがないんです。ふつう、大学のころって、海外旅行に行ったり、スキー行った何したって、あるじゃないですか。それが何にもしないで、えんえんダンスつくってた。だからほんと、この人たちかわいそうな娘たちなんですって、言われてました(笑)。だから『フリル』で海外公演できるってなって、私、それが初めての海外旅行でした。
—仕事じゃないですか(笑)。でもなんだかキノコの印象って、もっとゆったりとしているっていうのがあったから、矢継ぎ早にっていうのは意外ですね。
伊藤;たちあげのときから、身の丈で、っていうのがモットーだったから、身の程を知れ、っていうか(笑)、無理しないで、やってましたけどね。私がやり始めたころって、ダムタイプとか、野田(秀樹)さんとかもやってましたけど、けっこう、お金かけて、ある種、ストイックというか、かっこいい空間をつくるのが、もうすでに世の中に出ていた。山海塾とかも、この言葉があっているかわからないですけど、ファッショナブルで、きれいだったでしょう。そういうのがほしくなったりするんですけど、お金ないし、そういうことする技術も知らないし、なんにも知らなかったんです。でも、なんにも知らないのに無理して、借金してっていうんじゃなくて、自分たちのできる範囲でやるっていうのが、いいんじゃないって思っていましたね。絶対赤字は出すのやめようねとか。だから、最初、衣装とかもどうしてそんな貧乏っぽいの着てるのって言われたんですけど(笑)。
 けっきょくのところ、1から22まで、思っていることって同じなんで、ある意味で、全部再演っていうか、あるひとつのものをいろんな角度から見てやっているという感じがすごくあります。

伊藤千枝 撮影

 

 
2002年7月7日(日)16時から19時
インタビュー、テープ起こし、構成、福永信

福永信
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