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大規模な国際美術展がいたるところで開催されるようになった。日本でも去年、横浜トリエンナーレ(3年に一度開催される)がスタート。老舗ではヨーロッパのベネチア、カッセル(ドイツ)のドクメンタ、ベルリン、イスタンブール、アジアでも、釜山、台湾などと、弱小フリーランスのキュレーターである私にはとてもまわりきれない数だ。その中で今年6月から9月にかけて開催されたドクメンタ(5年に一度)はなんとか見ることが出来た。今回は二回目の訪問。(そういえば前回訪れた時、「次回のドクメンタは来れるのかなー?」ってぼんやり考えてた) 

初めて訪れた時は、展示会場がいくつもあることと作品数の多さに圧倒され、限られた日数、確か2泊3日の滞在だったが、「全部制覇しなければ」という強迫観念がつきまとい、一つ一つの作品をじっくり鑑賞する精神的余裕が持てなかった。また、商店街やビルボードなど街全体に作品が点在していたため、宝探しのように地図を睨みながら必死に歩き回った記憶がトラウマとして残っている。
しかし、今年は作品数が多いことや会場が数カ所に分かれていることも周知の上。余裕で乗込んでみたものの、120あまりの作品のうち3分の1ほどが映像作品で、そのうち半分ほどは30分以上のドキュメンタリー。長いものでは60分さらには全部合わせると6時間もかかるようなものもあり、とにかく時間がかかる。その上、政治色の強いドキュメンタリーなので“笑い”はほとんど無し。はりきって見始めたものの途中から頭が飽和状態に。パンク寸前。しょうがないので全部見るのは諦めて選んで見ることに。さすが50年以上続いているドクメンタだけあって、各作品の展示に関するクオリティーは高くそれぞれの作品に合わせて空間が施されていた。いろんなタイプの小さな映画館が並んでいたと言ったら分かりやすいだろうか。その丁寧なプレゼンテーションには拍手だが、でも「展覧会って?作品を見るっていったい何?」って言う疑問が沸々と湧いてくる。

鑑賞者のこと考えてます???
 
展覧会へ行くのと映画館へ行く時の心構えは違う。絵画や立体作品などと違ってはじまりと終わりがある映像作品は時間を拘束される。(映像作品でもそうではないタイプのインスタレーションもあるのだが)例えば、映画のように上映時間などがパンフレットに記載されていて、簡単な内容が説明してあれば、あらかじめ選んでその時間に足を運ぶことが出来る。しかしドクメンタの場合は他のタイプの作品と同じように“展示”されていた。入り口まで行ってはじめてその作品の長さや始る時間が分るという状態。「始るまであと20分あるから他の作品を鑑賞し、戻って来よう」というようなスケジュールを瞬間に組み立て、またもや会場マップを片手に時計を気にしながら早足で歩き回っていたのだった。確かに、大きな展覧会やフェスティバルをすると話題にもなるし、国内外からもどっと人が押し寄せる。質の高い作品をいっきに見れるという長所もあるのだが。(町起こしとして開催されているケースも多い。)でもそんなにいっきに見たところで、本当に鑑賞してることになるの?  

作品を見るということ

私にとって作品を見るということは、気に入った作品を前にして精神的なコミュニケーションが生まれ、様々なことが頭を駆け巡り(作品によって内容は変化する)、忘れていた感覚を思い出したり、新たなアイデアが思い浮かんだり、その行為を通して何かしらエネルギーが補給されるもしくは自発的に湧いてくる。漠然としていたものが明確になったり、頭から離れなかったどうでもいいことなんだと納得出来たり、はたまた、未知の世界へトリップすることも。その前で繰り広げられる時間は自分と向き合うことであると考えている。そして、このエネルギーは私の中の創造力を刺激する。
私にとって作品を見るというのはそういうことだ。そういう交信可能な作品が一つあれば充分であるのと同時に、この交信なくして芸術鑑賞は成立しない。感動できるかどうかがポイントだ。作家にとっても完成した作品をきちんと見てほしいのではないだろうか。そう考えると大量の作品をいっきに見ることにますます疑問が湧いてきてしまう。  

そして、展覧会を企画する立場のものとして、「小さくてもきちんと一人のアーティストと向き合って展覧会を創ってみたい」と考えるようになった。1ヶ月もしくは2ヶ月に一度のペースで一組のアーティストまたはプロジェクトをリレー式で行うという計画だ。「創造する・表現する・感動する」ということはどういうことなのか?という漠然としたしかし根本的な問題をもう一度考えるために。もともと芸術とは美術館にあるものではなかったという原点に戻り、展示にあまりこだわらず、個々の表現に合わせて、適切な場所や環境からアーティストと共に考え公開するための手段を考えてみようという主旨で。また美術史など知らなくても鑑賞可能なプリミティブな大袈裟にいうと心(魂)を揺さぶるようなもの。教養としてのまた権威としての芸術ではなく、「芸術と観客の生きた関係」を再考するためのプロジェクトをしてみようと考えている。

このプロジェクトに名前を付けなければと、ぱらぱらと辞書で引いてみると、
<Breaker> 破壊者や違反者などの意味と同時に(あるチャンネルを使って) 交信をしようとする人という意味があった。そして“交信”には“contact”(接触、触れ合い)などや“speak”(話す、物・事が意見、思想などを伝える)という意味があった。辞書ってすごい!タイトルを決めるのは苦手なので、このまま使えるかどうかは別にして、この企画の核になるようなキーを見つけてしまった。つづく

雨森信