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60年代から大島渚、篠田正浩とともに「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」のひとりとして活躍し、それぞれの時代の歴史性をあざやかに露出させる数々の実験的な問題作をはなってきた映画監督・吉田喜重。88年公開の『嵐が丘』以来、14年ぶりの「ヒ・ロ・シ・マ」をテーマにした最新作『鏡の女たち』が昨年封切られ、朝日ベストテン映画祭第1位を受賞、そしてフランスでの公開上映を機に、フランス政府から芸術文芸勲章・オフィシエ賞が贈られた。
昨年9月、東京で3週間にわたって開催された『吉田喜重−変貌の倫理』と題した大々的な回顧上映にひきつづき、大阪でも今年12月4日から2週間、十三・第七藝術劇場で劇映画の全作品、19本が公開される。と同時に、この真に前衛的な映像作家の論考『吉田喜重の全体像』も刊行された。
 そうした再評価の動きが活発化するなかで、その吉田監督自身がご夫人で女優の岡田茉莉子さんとともに、最新作の上映キャンペーンのために、来阪。自分の足で、各地域で孤軍奮闘している独立館を巡って、良い映画を愛する人びとと交流しながら、巨大資本によるシネマコンプレックスとはちがった上映方式を模索、実現しようとしておられる。
そんな監督に、映画コーディネーターの景山理氏がインタビュアーとして、55年の松竹大船撮影所入社から、独立プロ「現代映画社」の設立、ATGとの合作、監督デビューから最新作までの43年間にわたって常に先鋭的な映画作家でありつづける歩みや、現在、全国各地で盛りあがりをみせている新しい自主的な上映活動「コミュニティシネマ」についての感想やご意見をうかがった。

(text/photo/ 中川三郎)


最新作の『鏡の女たち』は、昨年大変な評価をうけましたが、監督ご自身この作品の上映のために、全国各地をまわられておられます。その理由について、お聞かせください。

この作品は、私の劇映画として19本目ですが、今回のように、自分の足で関西を上映キャンペーンのために行動したのは初めてです。その理由は、『鏡の女たち』のテーマが、広島に投下された原爆だったからです。映画というのは本来、商業ベースのものである、大半の観客はそう考えているはずですから、やはり原爆がテーマというだけで、背を向けられがちです。それでも、ぜひ見ていただきたいという、想いがありました。この作品の企画の段階から、私と岡田(茉莉子)は、こうしたキャンペーンを考えていたのです。
また、いわゆるシネコンで上映される映画が拡大し、特定作品だけが一極集中的に公開される。それに観客が慣れてしまって、自分の眼で映画を選択して見るということが習慣としてなくなってきているように思えるのです。もちろん原爆がテーマということもありましたが、東京でもこの映画は東京都写真美術館という、普通の劇場ではないところで、上映されました。

やはり映画は「作る」ということと、「見せる」ということが大事なことだと思うんです。映画は観せて初めて成立するわけですね。監督はその「作る」と「見せる」ということに関して、今回の『鏡の女たち』でそうした完結する形では、最後まで責任をもってかかわろうとされたと、理解してよろしいでしょうか?

私も初期のころは、松竹というメジャーの会社におり、ただ映画を製作するという立場の人間でした。そして映画を見せるのは、松竹のなかの興行というセクションの仕事でしたから、あまり関係がなかった。毎週2本立て興行という、大量生産の時代でしたから、作ってしまえば、後はまた次の製作に追われてしまう。むしろ興行する側に対して、その宣伝の仕方は古風すぎるとか、批判する立場でしかなかったのです。
もっともコマーシャル・ベースのなかで、企画を提出し、脚本を書き、会社が同意を得て製作にかかるまでは、大変な労働でした。書いた脚本に、会社がノーといったときには、3週間後には新しいシナリオを書き上げ、これでどうですか、と提案する。1本の映画を実現するためには、2,3本のシナリオを用意しなければならなかった。映画を作ることにエネルギーを費やし、出来上がった映画を見せることとは、無縁でしたね。

吉田監督が60年ごろに、映画というのは、商品=商業主義のなかで作られていて、作る側と見る側が安易な妥協をしている。そういう関係に対する憤りとして、大変過激な文章を書かれていたと思うんですが、それは逆に松竹という企業内において、監督の撮りたい映画を作ろうということは、大変困難な作業だったということなのでしょうか。

松竹時代には、ほとんどの作品が流れ作業的に作られ、その多くは歌謡曲映画やメロドラマでしたが、観客はそれを松竹調の映画として、なんの抵抗もなく見ていたのだと思いますね。松竹作品のなかで、観客がどれだけ意識をもって見ていたのか、せいぜい小津さんのファンというかたちで見ている、あるいは木下さんのものを選んで見ている程度で、ほとんどの映画が、それを作った監督の名前も覚えることができない、どれも良く似た映画だったのです。
そういう意味では、松竹から独立することによって、その「作ること」と「見せること」が逆転しました。「作ること」は自分で決心すればできてしまう。お金を集める作業も、当時は安い制作費でしたから、ある程度カバーできた。しかし、「見せる」ほうは、メジャーの映画会社が興行を独占している状況でしたから、「作ること」以上にエネルギーを消耗しましたね。


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