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コンタクト・インプロヴィゼーションなるものを、ご存知でしょうか。接触contactと、即興improvisationを結びつけた身体技法は、1960年代のダンスのフロンティア、アメリカで、ダンサーたちの実験によって生み出され、その後アート、セラピー、社交など、複数の領域にまたがるアクティヴィティとして世界中で展開されてきました。日本でこの技法に早くから取り組み、来る8月にコンタクト・インプロヴィゼーション・ミーティング・イン・ジャパン(CIMJ)という集まりを組織する舞踊家の、坂本公成さんと森裕子さんに、お話をうかがいました。
おふたりの活動は、“舞踊家”という肩書きから一般にイメージされる職業範囲よりも広がりをもっています。ともに、京都を拠点とするダンス・カンパニー[モノクローム・サーカスMonochrome Circus] の振付、演出を兼ねるダンサーとして、90年代後半より国内外で活躍。劇場公演活動の傍ら、路上でのダンス・パフォーマンスを96年より「収穫祭」というダンスの出前プロジェクトへと発展させ、国内、欧米、アジアでの交流を深めました。その日々の記録は、2002年から2003年にかけてのアジア・ツアーの際、NHKのウェブサイトでも期間限定で配信され、注目を集めました。一方で、今年で12年目を数えた京都の国際ダンス・ワークショップ・フェスティバル「京都の暑い夏」のプロデューサーや、ペアで務めるコンタクト・インプロヴィゼーションの教師として、若手舞踊家の育成、かつ舞踊家に限定しない一般の人々へのボディーワークの指導にあたっています。

Contact Improvisation Meeting Japan
日時:2007年8月8日(水)〜11日(土)
場所:滋賀会館
詳細:http://www.cimj.net


古後:おふたりにとって、コンタクト・インプロヴィゼーション(以下、コンタクト)とは?

坂本:たぶん僕らがダンスに関わる上で重要なメソッドは、ダンス作品をつくるための身体技法的なものも含めていくつかあると思うんだけど、コンタクトはその中でも特別な位置を占めていると思います。というのは、身体や身体の関係性に対する考察を導きだしてくれた…というか、作家やダンサーとしての発想の根源みたいなところに繋がる何かに出会わせてくれるんです。


森:それはもちろん、コンタクトと長く取り組んできたことにもよるし、特に教えるという関わり方をしていることが大きいと思います。

坂本:うん。教えてきた経験がモロに。そこから、日常だとかいろいろな意味での身体と関わるっていうことを介して、気づくことがいろいろあります。もちろん創作の現場や、収穫祭のような活動で得たものともパラレルなんだけど、僕の中で作品づくりのモチベーションを支えている部分はそういった“気づき”なんじゃないかな。

古後:おふたりにとっては創作のインスピレーションの源泉なんですね。踊る技法として捉えたとき、具体的にどんな特徴がありますか?

坂本:まず断っておくと、僕はコンタクトをダンスのメソッドだとはほとんど思っていないんです。もちろん、ダンサーの体づくりの手段といった側面も持つのだけど、むしろ身体技法という言う方が近いかなあと思っています。

古後:ダンスを越えて共同体の中でシェアされる広がりをもち、かつ行為の繰り返しの中で身につけてゆく身体の知恵ということでしょうか。

森:そのほうが近いですね。

坂本:その上でざっくばらんに言うと、いかにムーヴメントを2人の間でつくり出して行けるかっていう、そのまさにとっかかり。それが“触れる”っていうことなり、体重を預け合うっていうことなりであって、そこで即興的にムーヴメントが生まれていくことの楽しさもあります。


古後:舞踊史的に見ても画期的な手法でした。それまでの舞踊創作は、スタイルやメソッドの確立に方向付けられた個人の作業といった傾向を持っていた。それに対してコンタクトはそういった作業の限界を物理的にとっぱらいました。

坂本:1人の作業でない点が、ひいてはダンスを成立させるときに難しい部分にも繋がるのかもしれないけど、僕らにとっては、触れていくっていうリアルな行為があって、相手があるっていうことが一番楽しいことだよね。僕自身は最近、「コンタクトとは身体を通した対話である」と端的に言い切れるようになっていて、で、カンパニーの最近のテーマが「身体と身体の対話」なんです(笑)。

森:くだけた喩えにすると、相手が知らない人なら、「どんな人だろう?」と質問していく。お友だちや知っている人なら、「最近どうよ?」って話しかける。そういったやりとりが、すごく深いところに突っ込んでゆくこともあれば、挨拶のような状態でぽんぽんと軽く進んでゆくこともある。両方の楽しさがありますね。

坂本:深く突っ込んでゆけば、他者との間で、これは理解してもらったとか、なんかそういう了解がお互いの間で成立する瞬間にも似た、すーっと胸のつかえがおりるような瞬間があるんです。お互いに納得のいく瞬間。そういうのもコンタクトをやる上での快楽の一つかとは思います。

森:エネルギーが同調するんじゃないかなあと思うんだけど。例えば体重を預け合ったりするときも、2人のエネルギーが一緒になっていれば、下の人も重いと思わないし、上の人もなんか「あれ?」っていう瞬間が、よく起こります。



坂本:漫才で言ったらさ、ボケとツッコミっていうのが、「あんた何やんけー」「さよかー」「なんとかなんとかやろー」「ほんまかー」とかって、役割分担してやりとりしている間は……。

森:まだまだ。

坂本:そう、まだまだ。そんで最終的に2人揃って同時に「あんたアホかー!」とか……。

森:……とかね、すっごい面白いことを同時に言っちゃえるみたいな。

坂本:そういうのに通じる、役割分担の垣根が取っ払われてシンクロする感じはすごく面白い。

古後:“動かす/動かされる”の境目がなくなったときは、初心者でも楽しいと感じるみたいですね。では、コンタクトのそういったコミュニケーション全般に通じる楽しさに対して、コンタクトならではの面白さみたいなものは?

坂本:ダンス的には、ある程度の習熟も必要なのかもしれないけども、1人では可能にならない動きがたくさん成立していくので、その感覚を味わえるという醍醐味があります。それは、床だけでなく動く人間が支えになることもあるので、空間に対して360°自由にエネルギーが展開し得るとか、オフバランスの感覚っていうものをリアルに味わえるとか。
 で、その固有の感覚となると、なんていうかな、それ自体が言葉にならない言語の一種だから…。視覚とか聴覚とか味覚とか臭覚っていうのは、明確にあるものだと思われているものだけど、触覚といった、わりと不明確に分節されている感覚が、実は踊っていると、相手の身体の総体がどんな風に成り立っているかをリアルに浮かびあがらせるようになりますね。重心の在処とか、足下が今どこにあるかなんてのも含めて、相手の人の像を目をつぶっていてもホログラフィ並みに感じるようになってきます。触覚と呼ばれているものともちょっと違うのかも知れないけれど。

森:触覚、臭覚、視覚、聴覚……、全ての感覚を総動員しての対話というふうに思うといいんじゃない? 一般的な社会で行われているコミュニケーションにも通じるし。

坂本:でも僕がこだわっているのは、動きの中で導かれる特殊な感覚。例えば目をつぶってもコンタクトっていうのは可能なわけです。そういう意味では明らかに視覚・聴覚から切り離されたところで成立するものだと思う。それは触った時に、触ったところだけ感じるんじゃなくて、延長されるわけだよね。自分の身体が相手の身体の方に。で、相手も僕の身体の方に入ってくるし。お互いのセンサーが鋭敏だったら、単に触れるだけでそういう知覚が可能で、それを使って踊るっていうことでしょ。で、そこにあるものって何なんやろうって。運動感覚ともまたちょっと違うし。身体を像にする力みたいなもの…。言葉を捜さなければならないとは思うのだけど。

古後:そういう意味では、言葉の与えられていない領域を探ることでもありますね。

森:確かにコンタクトの先生は言葉が豊かですね。海外から呼んでくる先生たちの中には、言葉の使い方にこだわりがあって、「ちゃんと通訳してもらわないと困る!」という人もいたり、詩的な言葉やら理論やら、みんな工夫しています。

古後:おふたりが事務局を務めるワークショップ・フェスティバル「京都の暑い夏」では、その前身となる時代から、蒼々たるコンタクトの先生を呼ばれています。振り返ってみて、印象深いことはありますか。

坂本:印象深いのは、あの人だね。コンタクトのわりと最初期の…。

森:ダニエル・レプコフ。

坂本:そう。それこそ創始者のスティーブ・パクストンとかナンシー・スターク・スミスと同じ、60年代から活動しているコンタクトの第一世代と呼ばれる人がいて。第一世代というので真髄みたいなものを体験させてくれるのかなって、すごい期待していたんだけど。そしたら、ワークショップ初日に目覚まし時計をぽんと置いて、「今から30分後に時計が鳴ることにします」と。「皆さん、目をつぶって好きにしてください」。それだけ。

森:ふふふ。「この部屋を探求してください」っていう。いきなりな感じだったよね。

坂本:「好きにしてください」っていうだけでもなかったか。でもこう「観察してください」というような。

森:うん、「観察してください」。あんまり例も出さず。人に触れたらどうのこうのとかも、何にも言わなくて。

坂本:30分間それだけ。それでこうやって目をつぶって、(触れるものを手探りしながら)ペタペタペタって(笑)。「目をつぶって」、「好きにしてください」なり「探求してください」なりということになれば、何かしなければと思うからさ……。で、最初はあっちもこっちもぺたぺたぺたぺたしている音とかがたくさん聴こえてきて、次第に他の人とも触れる。他の人がぺたぺた触ってきたりとか、こちらが触れることになったりとか。そのうち「わー!」っと発声するヤツとかも出るんだけど、あんまり他の人は同調しなかったり…。

森:私はあんまり同調しなかった。

坂本:で、まぁ、他で何が起こっていたかっていうのもよく分からないし、全体で何かを生み出したっていうわけでもないんだけど、あれはけっこう衝撃だったよね。僕もだったけど、みんなもね。

森:うん。目をつぶっていることの面白さが哲学的だなあとかって思ったりもしたんだけど。わりとズバーッと感覚の本質に入っていくようなワークをしている感じでした。もう少しコンタクトの経験があったら違ったのかというと、たぶんそんなことはないと思いますね。私たちはコンタクトを教え始めるくらいにはなっていたし。
坂本:そう。もう教え始めてだいぶ経ってたし、そういう意味では、技法的に捉えるなら、さほど何がきても驚かない状態にはなっていたと思う。そこにあの衝撃。

古後:ワークショップという、受講者の積極的な参加に重きを置く教授形態にも、「教えてもらう」という受動的な構えはあると思うのですが、本当にすごい先生ってそれを取り除きますよね


坂本:とりますね。

森:とりますね。もうあの歳だから出来ることだなって思いましたね。すごいシンプルで、先生が特別なことをするでもなく、むしろ(エネルギー量的には)ラクしてるくらいなんだけど(笑)。そこを提示できる強さなり深さなり貫禄なりに接して、自分たちは……まだちょっとできないことだなあと思いました。

坂本:コンタクトにおいては他者の身体を相手にする。で、やっぱりいい先生っていうのは、不特定多数の他者の身体ものすごくたくさん体験していて、その中で得たもの——それは単に話法ではなくて、それ以前の話す態度みたいなもの——を教えていると思うんですね。だからそこで教えられるのは、哲学とか、もしくは、なんていうのかな……。

森:考え方とか思想、態度、うーん……。

坂本:自分なりのやり方で他者の身体に耳を澄ます態度とか、他者の身体へのリスペクトとか。それも思い込みのレベルじゃなくて、ほんとにway of lifeじゃないけどway of movingの中で、そういう態度を引き出していく。その方法を持っている。ある程度の教える経験を重ねた僕らが今や学ぶべきはそういうところだと思う。
 だから、僕はもう完全にコンタクトに対する関心のありようが変わっていて、単純に言うと、「なんや、せっかく呼んだのに、この教え方とかこのワークは知ってるわー」とか、そういう表層的なところでは考えていない。そりゃ身体を相手に対話していくのだから、教える内容にはもちろんある程度の普遍性みたいなものがある。国際的なレベルで言うと、コンタクトのフェスティバルさえあるくらいだから、いろんな先生間の交流とか流通とか、技法的な意味での交換っていうのはたくさん行われているわけで、それを僕らが、コンタクトに限らずとも毎年10人からのワークショップ講師を12年間も呼んでて知らないはずもない。今関心を持っているのはむしろ、素材としては僕らも知っているものがどんな風に扱われているか、ということです。個々のアーティストや振付家やワークショップ講師が、実際にいろんな人々が含まれるコミュニティの中で、自分なりの考えや思想を表現するために、どういうふうにその素材を組み立てていっているかっていう部分ですね。

古後:「京都の暑い夏」のビギナー・クラスも、2時間で素晴らしい体験コースができあがっているんですよね。教えるということに携わる人には、とても参考になりますね。

坂本:そりゃあ、1回のワークショップで自分の思想を伝えようというのだから。

古後:見る側からしてみれば、コンタクトを劇場作品に用いるのって困難だなと思うことが多々あります。おおざっぱなところでは、それは西洋でつくられたダンスのメソッドと認知されていて、今、国内外で、日本のコンテンポラリー・ダンスの意義は、西洋から移入した技術から解放されたというかたちで語られているでしょう。

坂本・森:うんうん。

古後:リスクだなって思ったりはしませんか。

森:ふふふ。

坂本:いや、まぁ、聞かれている意味はよく分かるけどもね。ただ僕らは西洋どうこうっていうより、身体に対しての科学的合理性みたいなものをどこかに培いながら創作をやっていきたいと思っているので、たまたまぶち当たったコンタクトが一番僕らにとっては入りやすかったっていう。ま、今だったらある種……。

森:今だったらちょっと東洋化の方向に…(笑)。

坂本:合気道とか、ある種の武道とか、そういったものにも通じるものがあるしね。逆に言えば、コンタクトも、合気道からものすごく影響を受けたのは周知の事実なわけだから、西洋ではある種、東洋的な技法と思われているかもしれない。っていうか、僕らはそれを単純に西洋の技法だというふうに捉えるわけでもなく、僕らの文化の中から発祥したものが西洋的に解釈されたりもして、またこちらに戻ってきたものっていう部分もあるし。


古後:おっしゃるとおりで、“西洋/東洋”っていう枠組みは、個々の創作について話を進める手がかりにはあまりならないんです。でも、観客にそう受けとめられるかも知れないとわかった上で、それでもやる意義があるわけですよね。例えば、コンタクトと関係のある作品づくりの端緒でもあるデュエット作品、『夏の庭』(1998年初演)は、フランス滞在中に、自分たちのコンタクトは違うと思われたことがきっかけだとか…。

坂本:たぶん実際は、僕らのコンタクトは違うっていう自信があったわけではないと思うんだけど。ずいぶん昔に教えてくれた先生で、励ましてくれた人がいてね。いずれ“京都スタイル”みたいなのが自然に出てきたらいいよね、って。というのは、コンタクトっていうのは、それを形成していくコミュニティによって性格が異なっていく。例えばアメリカの中でも東海岸と西海岸ではテクニックや傾向が違ったりします。そういう意味での違いというのは、小さなコミュニティやユニットでもあるわけで…。

森:もうデュエット単位でもね。

坂本:そう。実際、当時は練習する相手って、僕は森さんしかいないし、森さんは僕しかいないっていうのが実情だったわけです。だからオリジナリティやアイデンティティの主張というよりは、おのずから違うさぁー、くらいの感じですわ(笑)。

森:そりゃそうだよね。ダンスはみんなそうだよね。

坂本:そう。そういうレベルでの違いなら明らかにありますね。ある種語り伝えられているコンタクトの創始者たちの傾向だと、非常にアクロバティックで、バンバンぶつかったり、もっと荒削りのものだったでしょ。僕らは習った源泉も違うし、なんかこう、やっぱ『夏の庭』っていう構想自体がそうなんだけど、すごく“日本の夏”的な……。

森:そうやね、日本の夏的な感じよね。不定形な感じ。

坂本:燃え立つような、かげろうのような、ちょっと湿度のあるような、ゆらぐ蜃気楼のような感じの質感っていうのが……。

森:それをなんでパリでつくるねん、と(笑)。

古後:そうそうそう(笑)。

坂本:パリの乾いた空気、気持ちいい湿度のないさらさらした空気の中で、なおさらそれが異化出来たようなところがあると思うから。それって、こういう空気に対する感性、身体の質感がとにかく違うなっていう気づきだったんでしょうね。それが東洋とか西洋とかに帰せられるのかはさておき。 森:違ったね。皮膚感覚っていうか。それは西洋だとか東洋だとかじゃなくって、自分の身体でリアルに感じた新鮮さ。その新鮮さが、私はあの『夏の庭』で言えば大切だったと思うんだけど。

坂本:で、僕の理解では、その身体の質感っていうのは、『夏の庭』当時の大きな要素だったんだと思う。ひとつのこだわりとして。一方で、僕たちの作品づくりにおけるコンタクトの反映の仕方や方向性が変わってきている中で、『夏の庭』は、それがないと僕らのスタート地点はなかったと思える作業も含んでいますね。自分らなりに初めて体系化して学んだ手法と、それを創作の中に反映する回路を……。

森:自分たちの身体の中に落とす、自分たちの身体で納得するきっかけとなった作品。

坂本:で、その方向性っていうのは、当初はより自由になっていきたいっていう発想が強かったと思うのね。でもそれも、2001年の『SKIN/ephemera』では、制約の中からいかに大きな世界観を引き出せるかっていうものにもう変容しちゃってる。手のひらと手のひらを合わせるっていう、ただそれだけで20分間の作品にする試みなんですが。だから、人と人が触れ合うことは、自由なものとは捉えてないと思う。逆に不自由なものというか…。

森:制約、リミットをつくるもの。

坂本:さらに、実際にそういう制約の中でやってみると、身体そのものに対する発見があったり、あるいは逆に、ある種の社会だとか、あるビジョン、歴史なんかへつながっていく身体の風景(body scape)が見えてきたり。そういった側面を発見したのも、その2001年前後の作品。最近ではもう、目に見えてコンタクトをしていなくても別によくて(笑)、話そうとする身体さえあればいいと思ってるんで。

古後:通じ合っていなくても、ディスコミュニケーションもミスコミュニケーションも含めて?

坂本:もちろん、教える上では一応通じ合う領域っていうのを体験してほしいと思うので、それをまず感じてもらう。それを納得するために、お互いの身体をリスペクトしていくっていうことが、一番大切にしたいことになります。でも自分たちで表現していく上では、もちろん日常生活で通じ合わないっていうことの方がむしろ大きかったりする。だからといって、じゃあ、ディスコミュニケーションを見せたいという話ではない。もう少し誠実な問題として捉えるなら、人が真摯に何かをしようとして生きているとしたら、僕は表現者として舞台に立つっていうことは、少なくとも何かを伝えようとする身体としてそこにあるっていうことだろうと思う。そのとき演出家としてやりたいことの重点は……、単にここで対話をしているっていうことよりは、2人のパフォーマーがいるとして、対話をしようとしているっていうことの方にあるかなあという気が。

古後:それは演ずる内容の行為(アクション)としてではなく、演技の質として見えるものですか?

坂本:少なくとも演出しているレベルでは、それは感じられなきゃいけないと思っているし、パフォーマーもそういう意味では自覚的でないといけないと思うんだけど。そこで話そうとしていることが、全く方向性が違っていて、あ、ここはもう分かりようがない2人なんやっていうふうになってもいい、なっても別に構わないんやっていうのが、例えば『きざはし』という作品だったりするんで。そのとき、通じ合っているのは、たぶん何かを伝えようとしているっていう双方の姿勢くらいで……。

森:だから別に物理的に触れ合っているかどうかではなく、その前の段階の身体の在り方の話ですね。コンタクトを経験した身体で、コミュニケーションの可能性を放棄していない身体で、1人であろうが-通常のデュエットにおけるパートナリングに依存しないかたちで-いる。

坂本:かいつまむとね、『SKIN/ephemera』の頃と現在を比べて変わったなと思えて、かつ僕がコンタクトから学んでいるのは、たぶん態度の問題。括弧で“態度”とか、それこそ括弧で“在り方”の問題にすごく示唆されるようになってきているから。

古後:身体の構えみたいなものでしょうか。こうした既存の概念で分節しにくい現象って、経験的にあることは知っているんだけれど、言葉を選ぶのが難しいですよね。それだけに、どう分節していくかっていう作業をダンスの実践に即してやっていく価値があるとも思っているのですが。

古後:ダンス全般を見る観客としては、最近の作品には、様式史の延長や表象レベルで見ることの限界を感じさせられました。例えばダンサーの動ける範囲が限られていたり、音響がかたちづくる時間の流れが分断されたりといった、物理的な制約を作品の中に設けて、ダンサーがそれを乗り越えていくとか、乗り越えるか乗り越えないかで終ってしまうとか(笑)、そういう部分におふたりの関心が移行しているのかなと思うのですけれども、そのきっかけみたいなものはありますか?

坂本:それはたぶん……、教えていても、くどくどといろんな技法、技術を教えるよりは、かいつまむのが上手くなってきたりとか。

古後:言葉でじゃなく?

坂本:言葉でも。坂本公成標語録っていうのがあるんですけど(笑)。

森:ふふふ、標語がね(笑)。

坂本:いろいろ教えている上では。リフトについては、「重心は重心の上にある」とか、コンタクトにおいては、全身の感覚が総動員されます、という意味で「全身掌(てのひら)」とか、「世界最低のリフト」とか、いろいろ編み出されていっているわけですよ(笑)。



古後:それ面白いですね。他にもいろいろ?

森:それはね、レッスンの中で。

古後:秘伝ですものね。

森:というより、レッスンの中でこそ通じるからね。「全身掌」って言った時に、「あぁ〜」ってもうみんなが納得するようなシチュエーションが出来上がってるわけ(笑)。

坂本:やはり、さっき言ってたみたいに、現象としては多様なわけだから、いかに切り出すかっていうことがすごく大切なわけですよ。それはちょっと欲も出てきたのか、逆に開き直ったのか分からないけど、ま、やっぱりキャッチーでありたいな、ともちょっと思ったりもしていて。もちろん、単に分かりやすさを目指しているわけではないし、自分の中ですごく吟味した過程っていうのがあった上での自分なりの区切り方を、全く何も知らない人にも、「あっ、なるほど」とか思ってもらいたいってことはあって。だから教える上でもわりと噛み砕くっていうことに、かなり腐心するようになっているし、作品も分かりやすくないとなと思ったりもしていて。けっこう下心満々なのかもしれないけど。

古後:作品、分かりやすいですか!?

坂本:分かりやすくないかな。僕はここんとこ、ずーっとキャッチーであろうとしているんですけどね。その一連の掌編ダンス集とかいうやつ。

森:分かりやすくないって(笑)。

坂本:僕は分かりやすくしようとしているんだけどな、僕なりに。

古後:最近の作品からは、すごくストイックな印象を受けます。限定して、限定して、限定して、すでにあるものをなぞれない仕掛けを本番のためにつくり込んでいる。そういう環境にダンサーを置くことで、ダンサーはある質感を醸し出しやすくなるのだろうけれど、見る側には、形や意味とは違うもので見ていく可能性が無限大になるわけなので、簡単な理解では落ち着けない。

坂本:ストイック? いやストイック…かどうかは僕は知らないけど、キャッチーでありたい。

古後:キャッチーっていうのは、人の心をわっと掴む分かりやすさですか?

坂本:そういう感じ。こう、作家やダンサーが何をやっているのかを一応噛み砕けるっていう。例を出すと、『水の家』は、「90cm×90cmのテーブルの上で2人のダンサーがずっと踊るんですよ」って言い切れてしまう。実はそういう選択をしている背景には、いろんな要素とかいろんな思いとか哲学も含まれているんだけど。

古後:それはー、…キャッチーに噛み砕いたことになるんでしょうか。

森:分かりやすいですよ。

坂本:分かりやすいよ。掴みがこう、あると。

森:あ、この人たちずっと上にいるんだ、って。そうしたらそこで何をするんだろう、って(笑)。

古後:わかりました。観客にとっては入り口で掴めても中は迷路なんですよ。実際、あんまり動かないので、動きで見ても形の上での把握に行き着くわけではないし、構造も分断されてるので塊ごとに把握もしにくい。それでもアクティブな部分に引き込まれていくのですけれども。能を見ているのに近いようにも思えます。出会える時と出会えない時とがあったりして。

坂本:それは、ある種のダンスのボキャブラリーというものを完全に否定して…、否定というかこれは使えんなっていうものがたくさん出てくるので、そういったダンスのテクニック上のものを切り捨てるとそういうことにはなる。その辺がストイックと思われるのかもしれないけど、一応90cm四方だったら、2ステップも3ステップも踏むっていうこと自体が無理なので。
 そうやって既にあるものを避けていったとき、確かに僕の見方もマニアックになっているのかもしれへんけど、それによって学んだのは、空間の中で身体が、物理的に移動したことじゃなくて、見る人の中で移動したと知覚できることが重要なんじゃないかなあってこと。例えば大きなスタジオがあって、そこをバーッと走れば、それは明らかに移動したってことになるし、そこをすごいスピードで走れば、それは速いっていうことになるだろう。でもすごく限定された空間にいて、その振れ幅が少ない中で、指一本1cmくらい動かした時、それが見る人にとって移動したって思えれば、知覚されればいいわけ。それでいくと、2,3人のダンサーを使える場合、動きを交錯させるだけで、同じ速さでも1人が動くより知覚上絶対速く動ける。じゃあ、ずーっとクロスさせてたらいいんじゃないかっていうのでつくったのが『最後の微笑』だったりするんですけど。

森:相対的速さ。

坂本:相対的な速さでもあり、知覚の問題でもある。

古後:知覚については、坂本さんは、もともと美学を専攻している学生だった頃から関心を持っていらしたのですよね。今例に出たシーンは、『Refined Colors』の最終場面で、私も面白いなと思っていたら、『最後の微笑』で更に展開された、4人が秒刻みで入れ替わる場面ですね。そんな風に、作品づくりは知覚上の面白さのリサーチでもある、と。

坂本:そうです。加えて、今言っている、自分にとっての知覚の変化が起こりさえすればいいんだ、っていうのは、実践の中で僕や森が感じるさまざまな変化と並行しています。その変化っていうのは、『水の家』シリーズというか、掌編ダンス集というスタイルをとっていったこと。コンタクトの中でそれは対話であると言い切れるようになったこと。たぶん自分なりの創作していく上で、あんまり技法というか、既にあるテクニックを使う/使わないというのがどうでもよくなってきたことなどです。

古後:テクニック、あるいは既存のダンスをかたちづくってきたものに対する態度の変化みたいなものは、かなり自覚されていますね。今の方が、創作する姿勢や気持ちの上ではより自由に?

坂本:ある意味、より不自由に。

古後:パラドキシカルですね(笑)。

坂本:レッスンはより自由に、身体のキャパシティとか可動性とか強さとかを養うためっていうふうに、目的がはっきりしてきている気がします。例えばほんとに通りのいいとか、強いとか、構造がよく理解できているとか、そういった類いの身体をカンパニーのレッスンの中ではすごく割り切って目指していて、ワークでは、逆にものすごい身体に悪いことをいっぱいやる……(笑)。

森:ダンサー的に言うと、すごい不自由な身体の中で自由な意識を得ようとしている感じかな。

坂本:それが本当に身体の中で理解されるまでは、もうエネルギーが詰まって詰まって辛気くさくて仕方がないみたいなシチュエーションで動いてるっていうのを、いっぱいダンサーに経験してもらっているのも確かだし。

古後:すごく簡単に理解しようとしちゃうと、ダンサーにとっては、そういった状況に強いられる不自由を克服して自由になるといったことではない?

坂本:不自由っていうことの捉え方も最近またさらに抜けてきて(笑)、ちょっと複雑な言い方になるんだけど。まず、何がしかの制約をかければ、身体っていうものはその制約を自覚して、なんとかしようと振る舞うものだと思うんですけど、その制約にもいろいろある。物理的じゃなくても、言葉の上で設けることができる。それは意識上の制約でもいいし、身体と身体が出会う上でのルールというか、共有する文法上の制約でもいい。もちろん物理的な制約でもよくて、空間的な制約とか身体のあるパーツに対する特化した制約とか。そういった不自由にする方法っていうのはたくさんあって、それを僕は以前より自覚的にワークの中で使えるようになっているし、今、モノクローム・サーカスのダンサーは、そのことを完全に自覚して動きとつなげていく作業を(昔に比べて)遥かに出来るようになってきている。その上で、今関心があるのは、そういった制約と制約の、意識と意識の間を飛び越えていく装置みたいなものを、どうやってつくれるかっていうこと。単純に言うと動きが分節されるすごく小さい単位の中で、そういう制約がぽんぽんぽんぽんスイッチしていくような。

古後:そういう部分が見ていて面白いのだと思います。レッスンでは明快な身体づくりを目指す、と。作品づくりではそれを、ひっくり返すか何かは分からないけど、むちゃくちゃにすると。すると、ダンサーの身体は踊れるだとか、一つの方向に分節されたその目的地点を見せるんじゃないですよね。例えば一つの振りやテクニックというのは、踊りこなした時点できれいなスタイルやかたちで見えたりする。一方で、それを習得した瞬間の、身体秩序、体の構えが変わることそのもののを目撃する面白さが、たぶんあると思います。そういった、スタティックな形でなくダンサーの身体の変容を導く装置を作品に仕掛けるということでしょうか?

坂本:そうですね。そう、何か変わったっていう瞬間が見たいわけですよね。

古後:でも、本番にその瞬間を持ってくるっていうのは、奇跡的なことだと思えます。いつかは訪れるものでも、いつ訪れるかを演出家やダンサーは操作できないのでは、と。ダンサーを本番でそこに持ってゆくにはどのような工夫があるのでしょうか?

坂本:ある程度やっぱり自信が持てる手法を選び出して、プロセスも選び出して本番に乗っけてるとは思いますけどね(笑)。勝算なくしてやっていることは少ないと思うんだけど。特に演出家として見ている時は。

森:ただ、そのほんとに奇跡的な、その変わる瞬間っていうのを本番で起こせるかどうかっていうのは……。確実に言えるのは、本番とリハーサルは違うということで、本番では、幾重もの自分が立っていて、いくつものことをパラレルに考えている。身体がよくなじんだ、練習した動きをやっていることもあるけど、そこにどういうイメージを振り込むかとか、「あー、今日私緊張してるわー」とか「足の裏に汗かいてきたわー」とか(笑)、同時に考えていて。
 振付っていうものが何を制約し、またどれだけ自由であろうが、それ自体が制約っていうものであることには変わりない。現としてあるわけだから。でも、その中で、制約を守りつつ、どこまで意識が自由になれるかとか。

坂本:それは、なんとかユニバースみたいな話やね。ホーキンスが言っていた…。大げさか。
 でもさ、そこで自由になっていくっていうことは、振付に対するダンサーの構えと同時に、それを規定する振付というか、与えられる表現体系みたいなものにも関係してるんじゃないかな。
 これは、コンタクトを一からやるっていう人たちに教えていく中で分かって来たことなんだけど。例えば、コンタクトっていうのは、言語を習得する過程に似ているので、外国語の学習で考えてみると、そこでは一つの文法をまず理解するっていうことと、ボキャブラリーを増やしていくっていうことが求められるよね。で、これって不思議やなーと思ったんだけど、習熟や能力の上ではもちろん日本人であれば、母国語としての日本語のほうがボキャブラリー多いし、日本語の文法構造は生まれてから育つまでの間に無意識に形成されているものでもあるから、それを浮き彫りにして思考し直すプロセスもいらない。だけど英語を学んだら、日本語で思考していちいち英語に翻訳したりせず、英語で喋ったり直に思考していたりとかするでしょう。その時ってたぶん、自分の持っているボキャブラリーと英語の文法のフレームで思考しているわけで、それが貧困なのか豊富なのかは別として、英語で喋っている方が、普段意識化されていない自分の発想とか考えが出やすいということはあるでしょ。単純に話し方とか語調だけじゃなく表情とかでも、日本語で話している時はちょっと出さないニュアンスが出るとか。そこから、コミュニケーションがその背後にある体系に支えられているって考えると、そこで表現され得るものも、いかに体系化していくかで変わると思うんですよ。だから、表現されるものは、現象としてはあくまでいろんなものである可能性を持ってるんだけど、そこで意識化していけるものとかその射程っていうのは、表現が備える切り口に左右される。

古後:さきほどの“態度”や“存在のし方”のレベルでダンサーの変容を見たいというときに、ダンサーの意識とともに振付の背後にあるものにも関わることなんですね。

古後:教えるということの中で、ダンサーではないいろいろな人たちに接することが多いかと思うのですが、振付家として、いわゆる素人、ノン・ダンサーには、どういった表現の可能性を見ますか。

坂本:身体っていうのは、やっぱりその人なりに生きてきた歴史が全部詰まっているものだと思うので、まぁ、めくれないページもある一冊の本だと思うんです。この本には、その人の考えてきたことの歴史とか、習慣とか、今やっている仕事とか、興味あることとか、どこに楽しみを感じるか、とかが書かれてある。だから僕らもそれに触れると、端的にちょっと苦しい部分とか身体の凝りとかしこりとか、微妙な筋肉のゆるみ具合、しまり具合とか縮み具合とかで、何か感じるようにはなっているんですよね。まぁいろんな人がそうしているみたいにね。

森:それぞれの思考方法もある。

坂本:思考方法もちょっとある。他人の身体を見ていると、たぶんこうなんちゃうかなーって。なんか分かっちゃうみたいなのがあって。ま、どこまで人の身体がそんな風に読めるかっていうのも分かんないけど。でもワークしている中でもさらに分かってくるっていうのがあったりとかして。ただまたそれが分かるっていうのも…、なんていうのかなあ、言葉の上で分かるっていうことともまた違うかもしれない。なんか、その人なりのエネルギーの流れのタイプが分かったりとか、そういうことなんですけども。

古後:そういういろんな歴史を詰め込んだ個人の身体っていうのは、作品の素材になり得ると。

坂本:もちろんなり得ると思いますけど。それをね、ま、ほんとにそれが一つのlifeだとしたら、人生を凝縮した身体のありようっていうのを引き出せる素材がそこに転がっているっていうことだと思うんですよ。あとはそこから振付家とかパフォーマーとして1作品でもつくれるか——10分くらいの短編でもいいですけど——は、その開かないページをいかにお互いに開いていこうかというところで、対話する意識がちゃんとクリエイティブな方向で共有できるかだと思いますけどね。
 そういう意味では、ちゃんと見えていないページをめくっていくっていう部分があれば、ダンサーの経験とか能力っていうのが問題ではないかなと。もちろん僕は見せる上ではプロフェッショナルでありたいとはすごく思っているんだけど、そこの意味合いっていうのは、職業的にプロのダンサーを舞台にあげているかでなく、お互いに意識的にちゃんとめくっているか、ちゃんとめくったっていうふうに思えているかということ。もしくは、少なくとも演出家が「本番ではここでめくれるねん!」って、ちゃんと信じられているかとか、そのために周到な仕掛けをかけてあげているかとか。まぁ、次元はいろいろあると思う。

古後:ある意味19人とそれをやったのが『旅の道連れ』になるんでしょうか。

坂本:人によってはプロローグの段階くらいをめくってみせましたよーとか、エピローグに近いかもーとか、真ん中辺りだよーとかの違いはありますが。まぁ、1人が1時間使ってるわけでもないから、ちょっとしたエピソードなんだけれど。軽く触れて、パッと開いただけのページを読んでみましたっていう人もいると思うし。

古後:コンタクトということで、その際の他人の身体と自分の身体の間の境界の話もお伺いしたいです。先ほど、おそらく森さんとのワークの経験から出て来た身体の延長の話をみても、それがまず物理的な皮膚と皮膚の間ではなく、関係や状況によっていろいろ変化するものだと感じられるわけで、その中には、先の例とは逆に、深淵級のものもあるのでは、と。特に最近の作品では、そういった境界とか、境界に隔てられた身体の強度が扱われているのかなと思ったのですが。

坂本:身体の強度ですか?

古後:例えば『最後の微笑』の顔。めちゃくちゃ怖かったです。みんな見知ったダンサーなのに、すごくなじみがないというか不気味というか。ああいう表現を、よく知ったダンサーから引き出すのは、やっぱり他者体験の強烈なイメージなどがあるのかなと思ったりしました。



坂本:コンタクトを教えている中で、すごい他者に出会ったなと思うことって、そんなに僕はないというか(笑)。

森:他者と言えば他者だし、でも分かると言えば分かる。

坂本:もちろんシェアしていく部分に意識を置いているのであって、その違いを際立たせるためにそういうワークショップをやっているわけではないので。ただ逆にシェアするっていう感覚に対して開いていこうとするから、より何が閉じていて、何が開いているのかっていうことは、分かるようになってきたんだろうとは思う。それが操作できるようになったというのは変かもしれないけど。

古後:操作できるものですか。

坂本:うん。お互いがその絶対的な他者となり得るようなシチュエーションに持ち込みたいとしたらね。ファシリテーターとしてそういうことが出来るっていうことは、ある種状態を分かっていなきゃいけないわけでしょ。開いているとかシェア出来ているだろうってことを。ならば逆に閉じさせることも、たぶん簡単に出来ると思うんですよね。

古後:なるほど。では、お2人の間でも、教えるときは夫婦漫才をしつつも、あれほど不気味な質を引き出すことも振付として可能だということなんですね。

森:お互いの間でこう来たらこう来るっていうのは、教える段階ではやるけれど、クリエイションの段階では違うものを見たがるわけですね。で、彼は思考するんですね。何を見たいかっていうことを、思考してアイデアを出してくるわけで。するとダンサーたちは、そこに……。

坂本:ざぶーん。

森:そう、飛び込む。その思考に自分の身体を提供するというか、晒すというか、投げ出すというか。その覚悟をダンサーは持っているというだけじゃないの?でも見飽きる部分はあるよね。この長い関係の場合。

坂本:それは僕自身のものの見方が変わっていくように。

森:それもそうしてはるんやろうなと思う。

坂本:そっちの方が大きいかもしれない。この人の変わった面を見つけなきゃとか、そういうふうには思ってない。自分自身の切り口が変わらなければ不可能だよ。それが変わるために、その前の創作の経験とか、ワークショップでいろんな他の人と触れた経験とかを、また新たな言葉とか何かにして、どう切り出していくか。とか、端的に言えば、また違うシチュエーション、違うコンテクスト、それも踊りのコンテクスト自体を何か違うコンテクストと置き換えて、そこに身体を取り込ませてみるとか。ま、CIMJという企画を生み出したこと自体もそういうことだし。

古後:では最後に、CIMJの開催の意図を、主催者としてお願いします。

坂本:今回の企画は、ワークショップとダイアローグとショーイングから成っているんですが、それが互いに双方向の回路で組み立てられているのは、ひとつはコンタクトの性格によると思うんですよ。コンタクト自体が、単純に師範代みたいな達人がいて、ある種のスキルをずーっと習得していく過程があってその極意に至るものかっていうと、たぶんそうではないんです。コンタクトは技法でもあるだろうけど、way of livingだろうと。というのは、あくまで身体っていうのは、自分の身体とか、他者の身体と言ってもいいし、もうちょっと僕はくだけた言い方の方が好きですけど、家族の身体とか隣人の身体とか友人の身体っていうのがあってコミュニケーションしている。その中で触れるっていう行為自体は、ごくごく一般的な日常生活でもいろいろなやり方で行われていて、コンタクトって、そういう性格に基づくと思うんですね。だから逆に考えると、別に指圧でも合気道でも社交ダンスでも何であってもいいんだろうけど、そういう身体が触れるっていうところを切り口にコンタクト・インプロの射程を大きく捉え直すこともできると思う。さらに、セラピーとかアートとか社会療法とか、分化された領域をつなぐような総合性も、必然的に導き出されるんですよね。

古後:本日は、どうもありがとうございました。

(2007年6月7日京都)