チェルフィッチュの舞台は、現代の日常に迫っているけれども、日常をそのまま再現しているのではありませんね。このとき役者の身体は、彼らの日常から稽古を経て舞台へと、どのような変化を見せるのでしょう。
岡田:そもそも日常と同じことではあり得ないんですよ。結局、普段やっていることは無意識にやっているので、意識してやる舞台の上には上げられない。普段の生活で無意識にやっていることを全く同じように舞台の上でやれるのは、幼い子供か、動物か、でなければ狂人か、くらいですよね。日常と舞台上とには、無意識が生きていられる場所か否かという歴然とした違いがある。舞台の上は、無意識的に何かをやるってことに対して、かなり意識的に作業をしないと到達できない場所。だから、単純に「普段のままやりゃあいいんだよ」なんてディレクションは、全く意味をなさない場所だと僕は思ってます。そういうこと言いたくなる演出家の気持ちはすごくわかるんですけれどね。普段のほうがよっぽど面白いよなあ、みたいな役者に対してとかね(笑)。でもそれを舞台に上げたいんなら、そこにはやっぱり方法がないといけない。僕の方法はと言えば、簡単に言うならば、ふだん無意識にやっていることに意識の光を当て、無意識ならではのよさと思われるものを見つけて、それを殺すことなしに意識化するための方法、陸に引き上げれば死んでしまう水の中の魚を生け捕りにするような方法ということになります。
役者の身体が誰とコミュニケートしようとしているかを矢印に喩えると、一人の人物の語りの中でも、それが一本化されず四方八方に向かうのはなぜですか。
岡田:理由を一つにまとめることはできないのですが、矢印という言葉をそのまま使うなら、まず、それを一本にまとめるということは、ふだん私たちはしていないですよね。対して、演劇ではフィクションを立ち上げるときに、ついそれを一本化してしまいがちです。僕は、フィクションだからと一本化することより、されないままで過ごしているふだんの私たちの状態の方が、体のあり方として、存在の仕方として、より複雑で豊かで面白いと思ってます。それで面白いことをやろうとしているという、単純なことです。
加えて、その矢印の先の一つには観客がいるんですけれど、これが実は一番大きい矢印だったりします。僕は、観客に向かって話してしまってよいと思っていますが、それは単純に、観客をいないものとして扱う必要がどこにもないからです。観客を意識するからといってフィクションが立ち上がらなくなるとか、客がいるという前提が邪魔になるといったことは全くありません。ならば、しゃべりながら観客を見てしまおう、と。
まさに、矢印の中でも興味深かったのが、客席にいるこちらに向かってくるものでした。そのときの演技は、稽古場とお客さんのいる舞台とでは変わったりするのでしょうか?
岡田:変わってしまうんですね。だから、常にお客さんがいるということを前提に、そのことを意識して稽古はするようにしています。もちろん稽古場にはお客さんはいませんが、少なくとも僕はいるわけです。観客としての僕が。だから、僕をちゃんと見てしゃべるといった稽古はしています。逆に、客がいないのに、漠然とその辺りにいるものとして稽古をやっちゃうと、実際にいる段になっても見てないでやるということをしてしまう。見てしゃべっている風なんだけれど、実物の人間を見ていないことになっちゃう。そうならないようには気をつけています。
|