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作品ごとに何かをしっかり後にしてゆく舞踊家・演出家、山下残。2007年は、『船乗りたち(陸地バージョン)』、『Cough』と過去の作品との取り組みが続いた。『Cough』の再演では、タイのダンサーに振り付け、バンコクのフェスティバルに参加するという新たな体験も。現在、言葉と体の突っ込み合いの原点とも言える『そこに書いてある』のリメイク、『It is written there』を準備中の山下氏に、お話をうかがった。


今回、なぜ『そこに書いてある』を再演することにしたのですか?

テクストを見直して変える部分も出てくるので、再演ではなくリメイクと言ったほうがいいかも知れません。
 昨年1月に『動物の演劇』を終えた時点では、新作をつくるつもりで具体的に構想もしていました。『そこに書いてある』にもう一度取り組もうと思ったのは、この1年間、特にタイや横浜で再演した『Cough』(初演時タイトルは『せきをしてもひとり』)を通して、いろいろ思うところがあったからです。過去につくった作品と向き合ってみたい、もう一度言葉としっかり取り組みたいという気持ちが強くなり、それで、言葉のテクストを用いた作品の『そこに書いてある』にしたんです。

『そこに書いてある』の言葉は、振付のテクストで、本としてお客さんにも配られますね。さらにそこから、アイホールの「テイク・ア・チャンス・プロジェクト」の3年間で、“翻訳”というコンセプトを展開されました。今回の言葉との取り組みも、その延長なのでしょうか。

確かに、これまで新作をつくる過程はすべて、”翻訳”でした。体から言葉へとか、言葉から体へとか、映像から体へとか。けれども今の関心は、振付テクストをつくる段階よりは、演出の過程で使う言葉にあります。それというのも、『Cough』でタイのダンサー、トンチャイ・ハナロンさんに振り付けたときに、自分の動きを言葉で伝えるといったことを、これまであまりやっていなかったなと気づいたからなんです。以前は、ダンサーの側からいかに引き出すかを考えていたので、演出の結果も、僕の身体から出てくるものからはあまり影響を受けていなかった。今は、自分の体でやっていることを、なんでこういう動きになるのかといったことも含めて、言葉で捉え直す作業が面白いんです。

稽古ではどんなことをされていますか?

まずは自分でアイホールでの初演のビデオを見直しました。本と一緒に、腰を落ち着けてみたのは5年ぶりです。出て来た文脈を忘れている言葉もありますし、同時に客観的になれて見えてきたこともあります。
 初演のことは意識せずに、テクストの言葉を今回の出演者に解釈してもらったり、それから僕がやってみせるのを受けて動いてもらったり、言葉そのものについてディスカッションしたり、いろんな方法で面白さを探っているところです。一方で自分の動きの場合は、その動き方を稽古場で伝えようと言葉にしていく中で、解明できてゆくことがあります。例えば、自分がふだん一人でやっているトレーニングを一緒にやりながら、どこを意識するかといったことを、恥ずかしいのを我慢してみんなの前で言葉にしていると、無意識の部分で何かがつながっていたのに気づいたり。だから最近は、自分が率先して動くことが多くなりました。ウォーミングアップなども、以前は恥ずかしさもあってそれぞれでやっていたけど、今回はリーダーシップをとっています。
 またそこに、今稽古している今貂子さん、森下真樹さん、福留麻里さんから突っ込みが入るので、非常に緊張感があります。3人ともしっかり自分の踊りを持っているダンサーで、特に今さんは、長く舞踏を踊り続けている人なので、体に関する指摘はかなり鋭い。例えば最近だと、「胃を黄金にする」という作品中にはない言葉を稽古のために使ってみた時に、まず僕がこう、動いてみせた(腕は開いているが、胃の辺り後ろに引ける)。その動きを受けてみんなにもやってもらう段で、今さんが「胃を意識するのになんでそうなるの?」と。さらに「胃は残さんにとって何なのか?」と問われて、「ストレスが溜まって痛くなる」といったイメージを返したら、今さんは胃に対してもっとポジティブなので、「私が胃を意識するとこうなります」って(腹をせり出してゆく)。そんな風に、自分と違う身体の感覚を持つダンサーと、言葉を介して作業する中で、面白い発見や、腑に落ちることがあります。そうやって、過去のテクストを、言葉と振付の両面について検証している感じです。

ダンスの魅力を「読めないテクスト」に喩えると、前はプロセスを複雑にして面白いテクストを編んでこられた。今は時間の隔たりもあって読めなくなったそのテクストを、言葉と体両方で読解しているんですね。再現したいと思われるのは、具体的にどんなところですか?

ほぼすべてです。省いたり補ったりしなければという部分を除いても、8割がたは再現したいと思えます。でもそれは難しい話ですよね。5年前の作品の中の自分を見ると、未完成で、頭の悪い人が本能むき出しでつくっている感じ。ビデオを見て最初に、手先も器用になり、頭も小賢くなった今の自分には、かなわないものがあると思いました。それは、演出から生まれる空気感などで、これをなんとか今の自分で再現することが、今回の挑戦だと言えます。今の自分に合わせて手際よくつくりかえることはできるでしょう。でもそうしても、あまり面白くなる自信がない。ビデオを見ながらミリ単位、秒単位でなぞることで、5年前の自分を細かく解読してゆけば、あのときの欲求や未完成な感じを再現できるのではと。すごく地道な作業ですよね。何かを掘り起こそうとする感じ。
 そう考えると、今回の作業は、やはり翻訳というより解読ですね。まず、5年前の『そこに書いてある』を見て、全然読めなかったんです。それが面白くて、なんとか読み解こうという部分で動いているとも言えるので。再現したい、お客さんにも体験して欲しいと思ったのは、この「読めない」感だったりもします。

以前は踊る自分への違和感があったとうかがいました。歴史を見ると、踊るという役割に対して見るという役割の占める度合いが高まって、振付家になってゆく舞踊家がたくさんいます。山下さんの歩みはその逆を行くように思えるのですが。今回、自分の動き方を伝えたいというのは、ダンサーを見て振り付けるというより、自分が体を動かして踊ることへと関心が移られたからなのでしょうか。

自分の中で役割的な度合いが変わったという感じではないですね。むしろ、演出とか振付の仕事を突き詰めてゆくと、演出家・振付家の身体性のようなものが、演じる人に乗り移るようなことが起こる。そういったことかと思うんです。
 これはいろんな演出家を見ていても思うことですが、例えば太田省吾さんや、松本雄吉さんや、岡田利規さんがつくる作品で動いている人は、彼ら自身なんですよね。太田さんの舞台に出演したときも、演出の言葉に対して「あなたのことじゃないですか」と思ったりしたし、松本さんもお話されるときによく動かれるのですが、それを見ていて「維新派の役者さんの動きって松本さんだったんだ」と思ったことがありました。それで、極めた演出家の舞台にはその人の体が現れるなと思ったんです。
 僕自身がそういったことに気づかされたのが、『動物の演劇』でした。あの時は、自分が持っているものを出し切ったという感触がありました。ダンサーとして出演はしていませんが、演出家として100%出し切ったときに、もともとはダンサーとして出発した僕にとっての、ある種の達成感があったんです。そのとき面白かったのが、あれだけ個性豊かな出演者が「みんな残さんのように見えた」という感想を何人かの人にもらったことです。そもそもダンサーが覚えた振付だって、振付アシスタントの大槻さんがつくったもの。僕は音楽家と格闘したりしながら、あれだけの作品をつくるコンテクストがあって、それに集中していた。全然意識していなかった結果として起こったことだったので、面白くて、次は意識してやりたいなと思っていました。
 さらに自分の身体を見直すきっかけとしては、タイに行ったことが大きかった。初めて外国らしいところで創作をして、なぜかよくわからないけれど、僕自身の体のあり方とかふだんの行動や雰囲気がウケたんですよ。「しゃべらないのにオーラを発する」とかって、僕と同じフェスティバルの参加アーティストらに、異様に興味を持たれましたね。挙動不審だったのかも(笑)。でも、今までは、作品のコンセプト面を言葉にするということを、わりにきちんとやってきたと思うんですね。タイに行けたのもその後の海外公演の依頼も、その部分が評価されたからだし、自分でもそういうことをする人間だと思っていた。ところがタイで指摘されたのは、その方向性の中では全く意識されなかった自分自身でした。その驚きが、自分の体を言葉で捉え直すことにつながっていると思います。


『Cough』を踊ったトンチャイさんも、古典からコンテンポラリーまで踊りこなす優れたダンサーなのに、山下さんの動き方に近づくのが難しいと言われたとか。そこで演出の言葉が大事になるわけですね。一方で、最近の作品で用いたテクストには、意味として理解できるとかできないとかいう、読む対象としての側面というよりは、ダンサーがそれを乗越えることによってフィジカルな開放感を生み出すための決められたもの、つまり自由に向かわせる制約といった側面がありました。この方法はもう過去のものですか?


確かに『動物の演劇』なんかの振付けは、びしびしの制約でした。自由を生み出すために、目の位置から何からこうというのがあって、ダンサーにはかなり厳しかった。それを一回やると、テクストのみの制約といった面はもう楽勝ですね。それに、今回の『そこに書いてある』のテクストも、当時はあっぷあっぷだったけど、今となっては軽く踏み越えられるような単純なものなんです。今読むと幼稚に思える部分もあるし、尾崎放哉の俳句を英語にしてタイ語にして…といった仕事の後では、今回の”そこに書いてある”言葉は、すごく恥ずかしい。自分の体を読むといった挑戦がなければ、つまり、単にレパートリーとして再演したり、本をリメイクしたりするなら、かなり変更するでしょうね。正直、テクストを変えようかなとも思いました。でも一方で、これだったら体のほうに集中できるなと。書かれてある言葉は恥ずかしいけれど、なんとかそこに踏みとどまって、それを読む体のほうで恥ずかしくないようにしようというのが、今回の取り組みで大事な部分です。

初演時と同じパフォーマーもおられますね。

この作品では頁をカウントして、それによってお客さんに頁をめくってもらうので、心配なのは、そこでお客さんに「なんで頁めくらなあかんねん?」と思われてしまうことなんですね。頁をカウントするタイミングというか、間も重要になってくるので、それができるのは荒木瑞穂さんしかないということで、またお願いしました。
 もう一人、『そこに書いてある』をつくったことと、その中の重要なシーンと切り離せないパフォーマーが、西嶋明子さんです。僕がダンスを始めた頃からの友人で、90年代を一緒に練習してきたし、彼女に影響されて初演テクストのもとになる創作ノートができた。その彼女がたまたま『そこに書いてある』創作期間の前後にニューヨークに住んでいて、911の事件が起きて、1シーンができた。このシーンは、本作を褒めてくれたベルギーのプロデューサーにも「異質な感じ」と言われたりして、今回はずすかどうか、実はすごく悩んだのですが、そんな風に僕の中ではつながっているので、はずせない。やるからには彼女しかない。そういった決断をしました。

最後に、『It is written there』のみどころを一言でお願いします。

ダンスや演劇だけでなく、本の好きな人には楽しんでもらえるんじゃないかと思います。素舞台に近くて舞台美術の延長に本がある。しかもその本を家に持って帰れる(笑)。読みながら他のことを考えたりするのが好きな人には、特に、楽しんでもらえると思いますよ。


『It is written there』京都・福岡公演関連情報
構成・振付・演出/山下残
出演/荒木瑞穂、今貂子、西嶋明子、福留麻里、森下真樹

■ 演劇計画2007 計画 I
[公演日時]
2008年2月28日(木)19:30 
2008年2月29日(金)19:30
※終演後、ポスト・パフォーマンス・トークを行います。
2008年3月1日(土)15:00/19:30
2008年3月2日(日)15:00
※終演後、シンポジウムを行います。
[会場]京都芸術センター講堂
詳細は京都芸術センターのウェブサイトをご覧ください。

■ 2007 福岡舞台芸術シリーズ 平成19年度文化庁 舞台芸術の魅力発見事業
[公演日時]
2008年3月15日(土)19:00
2008年3月16日(日)15:00 
※15日公演の終演後、ポスト・パフォーマンス・トークを開催予定。
[会場]ゆめアール大橋 大練習室
詳細は福岡市文化芸術振興財団のウェブサイトをご覧ください。

関連ワークショップ「言葉と身体」
[日時]2008年3月11日(火)・12日(水) 両日とも18:30〜21:30
[会場]ゆめアール大橋 中練習室
詳細は福岡市文化芸術振興財団のウェブサイトをご覧ください。