今回、なぜ『そこに書いてある』を再演することにしたのですか?
テクストを見直して変える部分も出てくるので、再演ではなくリメイクと言ったほうがいいかも知れません。
昨年1月に『動物の演劇』を終えた時点では、新作をつくるつもりで具体的に構想もしていました。『そこに書いてある』にもう一度取り組もうと思ったのは、この1年間、特にタイや横浜で再演した『Cough』(初演時タイトルは『せきをしてもひとり』)を通して、いろいろ思うところがあったからです。過去につくった作品と向き合ってみたい、もう一度言葉としっかり取り組みたいという気持ちが強くなり、それで、言葉のテクストを用いた作品の『そこに書いてある』にしたんです。
『そこに書いてある』の言葉は、振付のテクストで、本としてお客さんにも配られますね。さらにそこから、アイホールの「テイク・ア・チャンス・プロジェクト」の3年間で、“翻訳”というコンセプトを展開されました。今回の言葉との取り組みも、その延長なのでしょうか。
確かに、これまで新作をつくる過程はすべて、”翻訳”でした。体から言葉へとか、言葉から体へとか、映像から体へとか。けれども今の関心は、振付テクストをつくる段階よりは、演出の過程で使う言葉にあります。それというのも、『Cough』でタイのダンサー、トンチャイ・ハナロンさんに振り付けたときに、自分の動きを言葉で伝えるといったことを、これまであまりやっていなかったなと気づいたからなんです。以前は、ダンサーの側からいかに引き出すかを考えていたので、演出の結果も、僕の身体から出てくるものからはあまり影響を受けていなかった。今は、自分の体でやっていることを、なんでこういう動きになるのかといったことも含めて、言葉で捉え直す作業が面白いんです。
稽古ではどんなことをされていますか?
まずは自分でアイホールでの初演のビデオを見直しました。本と一緒に、腰を落ち着けてみたのは5年ぶりです。出て来た文脈を忘れている言葉もありますし、同時に客観的になれて見えてきたこともあります。
初演のことは意識せずに、テクストの言葉を今回の出演者に解釈してもらったり、それから僕がやってみせるのを受けて動いてもらったり、言葉そのものについてディスカッションしたり、いろんな方法で面白さを探っているところです。一方で自分の動きの場合は、その動き方を稽古場で伝えようと言葉にしていく中で、解明できてゆくことがあります。例えば、自分がふだん一人でやっているトレーニングを一緒にやりながら、どこを意識するかといったことを、恥ずかしいのを我慢してみんなの前で言葉にしていると、無意識の部分で何かがつながっていたのに気づいたり。だから最近は、自分が率先して動くことが多くなりました。ウォーミングアップなども、以前は恥ずかしさもあってそれぞれでやっていたけど、今回はリーダーシップをとっています。
またそこに、今稽古している今貂子さん、森下真樹さん、福留麻里さんから突っ込みが入るので、非常に緊張感があります。3人ともしっかり自分の踊りを持っているダンサーで、特に今さんは、長く舞踏を踊り続けている人なので、体に関する指摘はかなり鋭い。例えば最近だと、「胃を黄金にする」という作品中にはない言葉を稽古のために使ってみた時に、まず僕がこう、動いてみせた(腕は開いているが、胃の辺り後ろに引ける)。その動きを受けてみんなにもやってもらう段で、今さんが「胃を意識するのになんでそうなるの?」と。さらに「胃は残さんにとって何なのか?」と問われて、「ストレスが溜まって痛くなる」といったイメージを返したら、今さんは胃に対してもっとポジティブなので、「私が胃を意識するとこうなります」って(腹をせり出してゆく)。そんな風に、自分と違う身体の感覚を持つダンサーと、言葉を介して作業する中で、面白い発見や、腑に落ちることがあります。そうやって、過去のテクストを、言葉と振付の両面について検証している感じです。
ダンスの魅力を「読めないテクスト」に喩えると、前はプロセスを複雑にして面白いテクストを編んでこられた。今は時間の隔たりもあって読めなくなったそのテクストを、言葉と体両方で読解しているんですね。再現したいと思われるのは、具体的にどんなところですか?
ほぼすべてです。省いたり補ったりしなければという部分を除いても、8割がたは再現したいと思えます。でもそれは難しい話ですよね。5年前の作品の中の自分を見ると、未完成で、頭の悪い人が本能むき出しでつくっている感じ。ビデオを見て最初に、手先も器用になり、頭も小賢くなった今の自分には、かなわないものがあると思いました。それは、演出から生まれる空気感などで、これをなんとか今の自分で再現することが、今回の挑戦だと言えます。今の自分に合わせて手際よくつくりかえることはできるでしょう。でもそうしても、あまり面白くなる自信がない。ビデオを見ながらミリ単位、秒単位でなぞることで、5年前の自分を細かく解読してゆけば、あのときの欲求や未完成な感じを再現できるのではと。すごく地道な作業ですよね。何かを掘り起こそうとする感じ。
そう考えると、今回の作業は、やはり翻訳というより解読ですね。まず、5年前の『そこに書いてある』を見て、全然読めなかったんです。それが面白くて、なんとか読み解こうという部分で動いているとも言えるので。再現したい、お客さんにも体験して欲しいと思ったのは、この「読めない」感だったりもします。
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