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<花形能舞台>の人びと〜山本哲也
 私が、最初に彼の大鼓を聴いたのは、彼がまだ二十歳になるかならずの頃だったと思う。
 汗を飛ばしながら、スポーツみたいに大鼓を打っていた。
 実際に会った時の第一印象は、話好きで吉本ノリの、おもろい“にぃちゃん”だった。
 長いこと騙されてたよなあ。
 本当は、不器用なくらい生真面目な人だった。
 しかし、そして、だから、彼の大鼓は、少しずつ進化しつづけている。


大皮をやろうと思ったのはいつですか?

山本「大皮やるって口に出したのは、高校2年にあがる時」

お稽古はいつから?

山本「それから」

はえ!?小さい頃は何もしてなかったの?

山本「いや、ちっちゃい頃はしてたよ。してたって言うたって、大槻文蔵(おおつき・ぶんぞう/シテ方観世流)先生に、子方の稽古してもろうてて、当時、子方がいなかったから、10番やそこらは能に出さしてもうてるよ。でも、その時だけやし。そのあと言うたら、3年にいっぺんか、2年にいっぺんっていうペースで、父(=山本孝)が素人会をする時に、独鼓を何回かやっただけやから」

でも、舞台に出るんやったら、お稽古するでしょう?

山本「父が、謡を謡いながら、張り扇を打ったのをテープに録って、それ渡されて、‘覚えとけ’って」

え?それだけ?

山本「で、一番困ったんは、小学校の6年生ぐらいの時に初めて舞囃子を打たしてもうた時かな。たぶん『熊坂』やったと思うけど。舞囃子って、小鼓やら太鼓やら笛やら入ってくるやろ。んで、父が、‘今からやるで’って言うて、鍋かなんか‘カンカンカンカン♪’って鳴らして‘これ、太鼓’、‘ボンボンボンボン♪これ鼓’って言うてテープに入れてくれて、で、‘覚えとけ’」

へえ(笑)

山本「まる覚えやから。何をやってんのか全然わかってへん(笑)。初能(=初めて能一番を勤めること)まで、それでいったよ。ひと月くらい前にテープ渡されて、1週間にいっぺんぐらいかな、‘稽古するで’って言われて、‘覚えてへん’て言うて、また今度になって、っていう…。中学校入る頃なんか、会の際(きわ=直前)になったら泣くまで稽古やられたなぁ」

泣くまでねえ…

山本「そうやって、ちょこちょこ舞台で大皮打ったり子方したり、年にいっぺんとか2年にいっぺんさしてもうてたから、けっこう楽屋が遊び場になってた。そういう意味では、非常に入りやすかったけど。初めて舞囃子を打った時なんか、天才!って言われててんで(笑)」

ほう(笑)

山本「せやけど、父は何にも言わへんかったよ、‘やれ’とはひと言も。グレてちょっと横に行ってしもうてたけど(笑)。母親はしょっちゅう言うてたけど。せやから、中学校1年で初能やったあとは高校2年まで一切何もやってない。小さい頃の子方の稽古かて、大槻さん(=大槻能楽堂)に父の稽古場があって、父に会うのが楽しみで遊びに行ってるようなもんやから。稽古のあとは、中華料理屋に連れてってもうて、それが楽しみやってん。せやから、今時の子方みたいにしっかりしてへん(笑)」

その頃はそれで許されてたんやからねえ(笑)。

山本「16になってすぐくらいか…、それまではなんにもしてないし」
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