ボストンのMITに滞在しながら現代美術シーンを紹介します。 |
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+ 池田孔介
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1980年生まれ、美術家。東京藝術大学大学院修了。現在、文化庁在外研修員としてボストンのMITに滞在中。 WEB SITE
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僕は日頃から美術作品の実制作をしている、というのはおこがましいが、少なくともそのことに最も多くの時間を割いているには違いない。生まれは福岡で、中学に上がる頃には京都に引っ越しして大学を卒業するまで暮らし、さらに大学院で関東に来たというわけで、東へ東へと移動しているといえるかもしれない。そして今年(2005年)9月からは一年間、アメリカはボストンのマサチューセッツ工科大学(MIT)で文化庁研修員としての留学生活を送ることになっているので、まだ東向きともいえる。
MITという大学は多くの方が耳にしたことがあるのではないだろうか。工科大学というだけあってテクノロジーの水準の高さで有名なのだが、美術の分野にも力を注いでいることはあまり知られていないだろう(MITのアート活動に関してはウェブサイト『 デイリーコメンタリー 』内の「MITから文化を発信する」という拙文で紹介しています)。
僕は最近とくに、いわゆる「現代美術」シーンに興味がない、これははっきりしている。このところ家にいて画集をひらくのはたいていマティス、クールベ、セザンヌ、マネ、日本の画家では前田青邨、下村観山、香月泰男と、どうもいまの若い人たちが関心を持ちそうな作家ではないのだ。けれども毎月いくつかの現代美術の雑誌(主にアメリカと日本)に目を通し、関東近辺で観ることができるその手の大きな企画にはだいたい顔をだしている。なぜなのか。
ひとつ言えるのはこういうことかもしれない、つまり興味があるということと認識するということとは違うってことだ。僕たちが何か対象のあり方を認識する際、その行為は興味という気持ちによって支えられていることが多いのだが、そうとばかりも限らない。興味がないことをも認識せざるを得ないということもある。あるのだが、これがなんとも気の重い作業だ。とにかく現代美術は面白くない。日本でもアメリカでも同じ。これが今の僕の結論だ。一年間のアメリカ生活の後にこのような心境が変化しているかどうかは、個人的な関心事でもある。
そのような僕がここで何を書き連ねていくことになるのだろうか。おそらくは展覧会レビューを中心とした構成になる予定だが、紹介だけでは満足できないようなすばらしい展覧会の場合にはぜひ見に来て頂くよう呼びかけることもあるかもしれない。たまには何かささやかなプレゼントを用意したり、マイナーなことでいえばアメリカの古本屋ではたまにものすごい掘り出し物が破格で買えたりするので、そういうサプライズも皆さんと共有できればとも思う。
こんなことを書くと、さもアメリカではすばらしい展覧会がたくさん企画され、さすがは現代美術の最先端だと思われるかもしれないが、率直に言って僕はそこまで多くをこの地に期待していない。最初に書いたように僕の本当の関心は近代絵画にあり「現代美術」にはないのであった。にもかかわらず未だに現代作家の可能性を信じ続けている。僕が僕自身に期待しているのと同じくらいに、どこかから特異的に面白いものが現れてくるんじゃないかという根拠のない確信があって、現代美術のゆくえを認識しようとする僕の意志をかろうじて支えているのだ。
未だ何の評価も得ていない、ともすれば忘れ去られてしまいかねない重要な作品たちの存在。これはいわば書物における誤植のようなものだ。すでに印刷されて取り消し不可能な点。それはひとたび発見されれば本の最初のページにその正誤表が差し挟まれ、言いようもない存在感を放つことになる。しかしだれにも気づかれないならば誤植はそれとしての存在意義を失ったままだ。どこかに、そして確かに存在しうる「起こるべきでなかった」あるいは「起こるはずがなかった」特異的な誤植としての作品の在り処に感覚を研ぎすますこと。これはどこに現れるか、あらかじめ計りうるものではない、その意味で、可能性は日本でもアメリカでもどこでも同じ。そう、重要なのはただひとつ、そこにある文化的誤植に目を凝らすことだけだ。
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