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ボストンのMITに滞在しながら現代美術シーンを紹介します。
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+ 池田孔介
1980年生まれ、美術家。東京藝術大学大学院修了。現在、文化庁在外研修員としてボストンのMITに滞在中。 WEB SITE


注視とは

そもそも私たちがあまり経験したことのない出来事を記述するのは難しい。その経験の特異性ゆえに他者に状況の説明をするのが困難だからであり、したがって、それらの経験はしばしば語られる事なく消えてゆくことになります。例えばその経験が「笑える」とか「悲しい」、あるいは「困った」とか、そのような形容詞の中に落とし込める類いのものであれば、私たちは何とかそれを「お話」として構成し直し、聴く者が一定のリアクションをしやすい形へと仕立てることが出来るでしょう。しかしそれが実に「何とも言えない」ような経験だったとしたら?そのような経験は「何とも言えない」がゆえに何とも言われない、つまり語られないことがしばしばであり、そうやってこの世界には「笑える」、「悲しい」、「困った」というようなお話ばかりが溢れてゆくのです。

しかし特に芸術を観るにあたっては、そのような単純な形容詞に還元しえない経験を、にもかかわらず記述するのが鑑賞者の使命なのではないかと私は考えます。状況の特異さ故に伝わりづらいであろう出来事を、失敗を恐れる事なく伝えようと努力すること、「何とも言えない」ことを「何とか言える」ものにすること、その状況の複雑さを損なう事なく、決して単純な意味付けに回収することなく。そのことが記述する側にとってのみ困難なのではなく、読む側にも多くの負担を与えることになるのは重々承知、しかしながら、それを読者がそれを怠るとすれば「何とか言える」ものとなった「何とも言えない」ことは、再び「何とも言えなかった」ことへと舞い戻るでしょう。

そのような、よほど言い訳がましい前書きと共に記されるべきはグッゲンハイム美術館にて行われたマリーナ・アブラモビッチによる七夜連続のパフォーマンス”Seven Easy Pieces”、ずいぶんとイージーなタイトルが付されているのですがその中身はと言えば、七日間、17時から24時まで七時間連続で、様々なアーティストによって過去に上演された歴史的パフォーマンスをアブラモビッチが再演、そのうち最後の二日間は彼女自身の作品を演じるという無謀極まりない企画なのです。私はこれらのうちの三日間、ヴァリー・エクスポート、ジーナ・ペイン 、ヨゼフ・ボイスそれぞれの作品の再演に約二時間ずつ立ち会う事ができました。グッゲンハイムの一階の中央部におおよそ直径5m、高さ1.5mほどの円筒形の舞台がつくられ、観客はそれを取囲むように散らばり、二・三階から見下ろす者も多い。誤解を恐れずにいえば、これらのパフォーマンス自体が、観客がすべてをみることを必要とするような類いのものではない、それが反復的持続によって成り立っていることは明白で、一部分を観た者はおおむね全体を想像する事が出来るというようなものです。そもそも再演とは言っても元のパフォーマンスが10分、30分程度だったりするものを7時間にまで引き延ばしていることからも分かるように、それぞれの作品にかなり独自の色を施しています。ここでは5日目に行われたヨゼフ・ボイス作品の上演について考えてみたいと思います。


 


 
  左:ボイスに扮するアブラモビッチ右:筆者が記したスケッチ
 
舞台上には複数の黒板が立てられ、中央の椅子にはアブラモビッチが鎮座する。顔は金箔で覆われ、左腕には死んだウサギが抱えられています。右腕は頭のあたりに掲げられ、人差し指を上に延ばした姿はイコン(聖画)のようにも見え、時に、椅子をおり手元のウサギにささやきかけながら舞台上を歩き回り、その際、靴底につけられた大きな金属片が硬い音を響かせます。“How to Explain Pictures to a Dead Hare(死んだウサギに絵を説明する方法)”というタイトルの通り、それはウサギに、しかも死んだウサギに何かを伝えようとする、半ば絶望的な試みの繰り返しです。私は円形の舞台から1、2mほど離れたあたり、中央に腰掛ける彼女のちょうど正面の位置に座り、やや見上げるようにそれを見ていました。この日配布されたリーフレットの片隅に私が記したスケッチがあります。これを見て分かって頂けるように、観者は舞台の背後に見える螺旋系のスロープから多くの人が中央を見つめている光景を視野に入れずにはいられません。そして、そのような状況は何も私が観ていた位置に限られるものではなく上階から見下ろす者もまた、中央を見つめる私たちをその視野の中に入れざるを得ないでしょう。


 
  大きなスケールで作られた最初のパノラマの一部
 


 


 
  左:パノラマ内部図面。観客は中央に配された円筒形の塔の上部(赤部)から、彼らを取り囲むように配されたパノラマ絵画を見る。右:グッゲンハイム美術館。普段は何もない吹き抜け部の中央に円形の舞台が設置された。
 
ふと私が思い出したのはパノラマです。ここでいうパノラマとは18世紀終わりから19世紀あたまにかけてヨーロッパを中心に流行した、ある種の娯楽施設、見せ物を指しています。円筒形建築物(ロトンダ)の内側に沿うように横長の巨大な絵をぐるりと設置し、観客は中央にある舞台からその絵画を360°の景色として楽しむことが出来るというようなものです。「すべてを見る」という意味もつギリシャ語をその名の由来とする「パノラマ」において観客はまさしくすべてを見る事を体験したでしょう。批評家ジョナサン・クレーリーはそれまでの遠近法的な視覚のありかたとの断絶点をパノラマに見いだします。(*1)遠近法的視点は見る者の立ち位置を明確な基点とし、消失点へと収束してゆく景色を描き出したのに対し、パノラマはそのような見る者の立ち位置も消失点をも欠いた、にもかかわらず/それゆえに、すべてを見ることを可能にする(そのように錯覚させる)装置である、と。そのようなもう一つの視覚のあり方への関心は、再び、近代的・遠近法的な知覚のあり方を逆照射するものとして設定されています。いささかの回り道となりましたが、このようなパノラマと今回のパフォーマンスとの類似と差異を考える事がどのような意味を持つのでしょうか。

私はあたかもパノラマの中央からロトンダの内側360°に配された絵画を眺めるかのように、円形の舞台の背景に配された遠近法的な消失点を欠いた壁面と、そこにいる観者とを眺めていたのでした。しかし、それがパノラマ的視野と決定的に異なるのは、手前にある舞台とその向こうに同心円状に広がる光景との二重性にあります。そしてこの二重性は、パノラマにおいては決してあり得ないであろう「見る/見ていることを見る」という二重の注視を強いることとなるでしょう。私は中央の舞台を「見る」と同時に、その向こう側で中央を見つめる観者をも「見る」。この二つの「見る」はそれぞれ異なる水準にあります。後者はいわば「観者が見ていることを見る」、「前者の『見る』という行為を見る」水準に位置するのです。それゆえにこれらは同時的というよりは交換的・反復的に現れる。両者の「見る」行為は決して一つの「見る」へと統合される事なく、常に明滅を続けるでしょう、「見る/見ていることを見る」の間に挟まれた/(スラッシュ)はこの絶え間ない交換性・運動性を示すことになります。

先に記したパフォーマンスにおいて扱われる事物の数々、顔に張られた金箔、死んだウサギ、黒板など、これらの構成要素を耳にする限りでは、強い象徴性をもった神秘的パフォーマンスをイメージされるに違いありません。そして、実際にこれらの物体がもつ「意味」を、たとえばボイスの言葉を手がかりに読み解いてみることもさほど困難ではないでしょう(ボイスの作品について何かが語られる時、しばしばそのような「解説」を耳にします)。しかし重要なのは、このパフォーマンスにおいてそのような象徴性、ある種の崇高性はことごとく掻き消されることとなる点です。上述のように観者は舞台を取囲み、さらに二・三階のスパイラル部分にも散らばっているため私たちが中央の舞台に目を向ける際、否応なく、その向こう側にいる別の観者の姿を視界の中に入れずにはいられないのです。しかも彼らがしばしば気ままなおしゃべりをし、携帯電話で話していたりする中、いかにして観者が中央で行われている神秘的行為に没入する事などできるでしょうか。言い換えればそこでは、強い記号性を持つはずの物体や行為からことごとく神秘的象徴性がはぎとられ、浮薄かつ滑稽な(スーパーフラットな?)「もの」が立ち現れてしまう。象徴性の機能不全、意味の失調。

あるいは、これらの言葉は未だ正確ではないかもしれません。さきほど「見る/見ていることを見る」という観者の側の意識としての対立項を示しましたが、この項を作品の性質の方へと引きつければ「意味/意味の失調」という対立に置き換えられるでしょう。つまり観者がこのパフォーマンスを「見る」時、この作品は「意味」を獲得し、観者が「見ていることを見る」時、「意味の失調」が現れる。「見る」ことと「見ていることを見る」こととの間の反復運動を繰り返す私たちはすなわち、「意味」と「意味の失調」との切断面こそを注視することとなるのです。そもそも舞台をグッゲンハイムの中央に配した時点でこのような困難は免れ得ず、翻って考えてみれば、いかに劇場というものが(あるいは美術館でも同じですが)観者の視線を排する事によって舞台上に展開される「意味」へと没入させる事を可能としているのかが明らかになります。それは「見ていることを見せない」ための装置に他ならず、同様に、パノラマが「すべてを見る」ための装置足り得るためには観客の視線を隠す必要があった(*2)。確かにそこではすべてのことが見えたでしょう、そう、観客の視線それ自体を除いては。

パノラマと極めてよく似た構造をとるアブラモビッチのパフォーマンスは、パノラマにおいてすら見ることができなかった観者の視線までも見せることによって、舞台上にある記号性あるいは象徴的意味へと私たちが没頭する事を拒否するかのようです。いや、それは没頭し解釈することを強く要請するがゆえにこそ意味と意味の失調との切断面を鮮やかに見せつけると言うべきでしょう。グッゲンハイムのロトンダ中央に7日間にわたって現れた円形の舞台は今後私たちがそこを訪れる度に、不在の舞台を通じて、ここでものを見ていることに対する批判を投げかけ続けるに違いありません。




*1 Jonathan Crary, “Gericault, the Panorama, and Sites of Reality in the Early Nineteenth Century”, Gray Room 09,Fall 2002, pp.5-25.(MIT Press) この論文は以下のページから無料ダウンロードできます。
http://mitpress.mit.edu/catalog/item/default.asp?ttype=5&tid=1185

あるいはStephan Oettermann, The Panorama: History of a Mass Medium, trans. Deborah Schneider (New York: Zone Books, 1997)では、パノラマ装置とバロック演劇との関係について触れられています。このような繋がりを、例えばベンヤミンのアイロニー論を経由して理論的に読み解くことは近代的視覚について考える上で重要だと思いますが、それはまたの機会を待ちたいと思います。

*2 観客の周りを取囲む絵画は明るく照らされるのに対し、彼らが立つ位置は暗くなっており、他の観客の姿はほぼ見えないよう工夫されています。

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