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35 金魚『沈黙とはかりあえるほどに』review


                   墓の上で踊ることから

                                      Text:メガネ
                                      Photo:相模友士郎


 
  フライヤーデザイン:八ツ橋紀子作品情報などは 金魚(鈴木ユキオ)公式ウェブサイトへ→
 
■ ダンスの始まる地点

 このダンスの始まりには<擦る>という身振りがあった。
 下手前方に、一畳ほどの広さの木板を積み重ねて金属板を敷いたオブジェがある。それ以外は何もない空間に飛び出した鈴木は、オブジェに近づき、いつしか表面を撫で、擦り始める。おそらく火の力で刻まれたと思われる金属板の凹凸の抵抗で、舞踏家の身体には細かなインパルスが蓄えられてゆくかのように見える。やがて突起に指先を引っ掛けた反動から動きは拡大され、空間に振動が撒き散らされる。
 この触覚に訴える導入を経て、鈴木がフロアで展開するソロは、スペクタクルでさえあった。終点を定めず放たれる四肢は、大きな呼気とともに折り返され、即興ではあっても様式上の統一性と、確かな記銘性を備えた経路を描き出す。けれどもその間、塊のように切り出され、無音と交互に配置された音響によって、見る者の意識はこの早い段階で与えられたダンスの愉しみから引きはがされもする。互いの持続を邪魔するかのようにぶつけ合わされ、同時に進んでいても目に見える関係を結ばない音とダンスは、目のためのダンス、耳のための音という自明の結びつきを断ち切り、知覚レベルでのせわしない運動を引き起こす。そこで生まれる目に見えない、耳に聞こえない運動に目を凝らし耳を澄まし、あるいは持続の途絶えた果てに残像や残響をつかみ損ねたとき、観客は「沈黙と測りあえるほどに強い」何かに出会ったかも知れない。


 
 
 
 さて、そのような目撃者の意識に浮かぶ有象無象と緊張関係を結ぶ表現が成立したとしても、今日それが、歴史的事件として共有されることは難しい。けれども本作は、上記のようなやり方で個人的な事件となり得る可能性を孕むだけでなく、「今ここ」の外部とつながる意識に支えられていた。
 そのことを示唆するのが、個々の作品要素が結ぶアレゴリー的ともいえる相関関係の中に、繰り返し浮かび上がる身振りである。物語を持たない舞踊作品がしばしばそうであるように、本作でも、人物やオブジェが、関係する相手により異なる見え方を与え合って、意味の生成運動を連鎖的に引き起こしてゆく。この常に流動し落ち着く先を知らない意味体系の一断面を、擦る身振りを手がかりに記録してみたい。


 
 
 
■ 獲得されてしまった身体技術への違和感?

 冒頭で注目された身振りの後、鈴木は確立された身体秩序から繰り出される即興舞踊を展開し、作品半ばで再びオブジェに絡む身振りへと戻っていった。そこでしばしじっと座った後、金属面を擦る鈴木の指は自らのシャツの上をたどり、シャツを脱いでオブジェを再び擦る。この一連の流れの中にある<擦る>は、初めのとは違った意味を帯びて現れる。2つの身振りの間に差し挟まれた音は、ビートのきいた楽曲からノイズを経て言語として分節されない発音(と鈴木自身の口笛)へと変化した。発話を舌の身振りととらえる考えに拠るなら、このような音のドラマツルギーは、ダンスを経て身振りへと向かった演技のモード転換の方向性を捉える補助線となる。冒頭の<擦る>身振りがダンスへの初期衝動を孕むものであったなら、2つ目は、再び踊り始めるために立ち戻った、分節言語が失ってしまった衝動と結びついた身振りと受けとめられよう。本作が参照した武満徹のテクストの中にある「吃音宣言」を引くまでもなく、ここには、獲得されてしまったコミュニケーション様式に対する批判的な距離が見て取れる。それは鈴木にとって、一つには自身の技術化された即興舞踏への現在の態度なのかも知れない。


 


 
 
 
 もう一つの<擦る>身振りは、別の獲得された身体技術を参照させる。それは上手後方のフロアで、カンパニーの女性ダンサー、安次嶺によって繰り返され、四角く床を切り取った照明の助けもあって、シャツを用いたオブジェ磨きとの相似形で認識される。このように空間の中で視覚的に結びつけられた2つの身振りは、今度は接する素材の違いによって、異なる現れ方をする。安次嶺が擦るのはフロアだが、その滑らかな木目は、いくら擦っても次の動きへのつながりを生み出すようには見えない。それどころか、拘泥するほどに床掃除をしているようにしか見えなくなってくるこの動作は、用途に方向付けて分節された日常行為に近づいてゆく。
 こうしてフロアは身振りと対照される2つの身体言語/身体秩序の領域となるが、実際、その上で展開される女性ダンサーたち(安次嶺菜緒、原田香織)の演技もまた、オブジェと関わる身振りとは対照をなすものが多い。例えば、音楽に合わせて上体を揺すったり、向かい合って互いに同期したステップを踏んだり、音やお互いの動きとわかりやすいつながりを示している。果てに原田は、「ご飯食べた?」といった日常会話を安次嶺にふり、そこで発せられた「ねえ、聞いてる?」という問いは、踵を返して客席にも差し向けられることとなる。これらは、安次嶺の動きに執拗に介入する男性ダンサー(横山良平)も交えた相関関係の中でさらに多様な解釈へと導くが、3者の間で転がりつづける意味の連鎖を大幅にはしょって、ここではフロア上で水平方向のつながりが展開されていたことを確認するにとどめたい。


 
 
 
■ 柩あるいは墓としてのオブジェ

 以上のように、擦る身振りを手がかりに、空間の対比とそれぞれの領域で展開される身体表現の意味合いに気づくと、オブジェそのものが、鈴木の表現活動についての試みを暗示しているように見えてくる。繰り返すと、それは20枚ほどの木の板の上に1枚の金属板を重ねて出来ていた。その層状の構造は、それだけで樹木の年輪や地層のように時間の堆積を感じさせる。フロアとの関係に目を向ければ、木製の床と材質の連続する下層は、日常動作にせよ舞踊にせよ身体という物理的な素材が同じである一方で、それらから個人の身体言語が際立つために要する鍛錬の積み重ねを表すと考えられる。ここで、金魚が近作で材木を用いていたことを参照してもいいかも知れないが、確かなのは、鈴木がこのような層の上に異質の素材を置き、その表面に抵抗をうがって、本作の表現の要となる領域としたという事実である。それはすでに獲得したものとの連続性を断ち切り、反復による積み重ねとは異なる原理で、その都度新たな表現を生み出そうとする意志の表明と受けとめられる。イメージを広げるなら、金属は、錬金術的な物質変容を連想させもするし、鈴木の師にあたる室伏鴻が作品のモチーフとした真鍮板も参照させるかも知れない。だが、このような自由連想を押しとどめても、オブジェは過去の堆積を葬る柩、あるいはそれを記念する墓標のように見えてはこないだろうか。
 先の流れの後で鈴木は、オブジェの上に立ち上がり、ゆっくりと表面に身を沈めていった。この動きは、フロアでの水平に展開するつながりとは対照的に、オブジェの層を貫く垂直の線を強調するイメージとして記憶に残る。このイメージは、個人の身体の層を通過して歴史的なもの、普遍的なものへと至った歴史に名を残す舞踊家の営みを想起させる。本作は、鈴木にとってそのような試みへの出発点となるのだろうか。


 
 
 
                             (9月22日京都芸術センターにて鑑賞)

※京都芸術センター発行『明倫art』12月号にて、本作レビューのショートバージョンを掲載予定。

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■ 金魚、京都公演の決定のお知らせ
3月13日    DANCE×MUSIC・鈴木ユキオ新作(京都芸術センター)
3月28日—30日 鈴木ユキオワークショップ「また、踊るために」(アートコンプレックス1928)

詳細は 金魚(鈴木ユキオ)公式ホームページにて随時ご確認ください。

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