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したらにしはこの村のもんではないな 松岡永子
 時間の都合もあって京都の劇団はあまり見ることができない。今回は追加で大阪公演が決まったらしいく、見られた。1999年の作品の再演。
 公演場所の交通の便はあまりよくないが、場所の雰囲気はいい。住之江の名村造船所跡地。少し昔は労働者(昭和の常民)の声が慌ただしくとび交っていたのだろうと思わせる、あっけらかんとした廃墟のような空間を抜けて、劇空間に入る。舞台上には几帳を立てこめたように布が幾重にもかけられている。照明が入るとさまざまに光を通し影を落とし、美しい。幻を見るのにふさわしい場所だ。弄んでいる警棒が掌に当たる音。ビー玉の落ちる音。そんな幽かな音が響き、聴覚的にも繊細な美しさがあった。

 中心人物である行方不明になる男は柳田先生と呼ばれ、彼からの手紙を受け取った佐々木の報告、という額縁の形で劇は構成されている。当然連想される柳田国男はビッグネーム過ぎる。報告を受けるのが柳田で、行方不明になるのは一学徒——たとえば女の美に囚われて鐘守りになった『夜叉ヶ池』の萩原晃のような——である方が物語としてはずっと自然だ。ただ、それを承知の上で敢えて男を柳田としたのであれば、その見識の若さには敬意を表する。この舞台の感触は『遠野物語』の読後感(それは遠野の実際の風景よりも、柳田の文章によるところが大だろう)に近い。

 舞台脇に置かれた古めかしいテープレコーダーから声が流れる。柳田先生から手紙が来たのだと語り始める。その手紙の内容が舞台上で展開する。
「独り神楽」という珍しい民俗を偶然目にした柳田は、調査のためある寒村にはいる。外の人間がほとんど来ないそこで、先生と呼ばれる彼は、好奇をこめた敬意を示され、丁重に迎えられる。この村では「人形様(にんぎょうさま)」と呼ばれる筒型のものが祀られている。人形様が淋しくないよう奉納されるのが独り神楽という奇妙な踊りだ。
 人形様にまつわる、時代の異なる三つの話を柳田は採集し、手紙に書いて送る。

第一話「鬼が転じて山姥となること」
 この地方で「箱入り娘」は比喩ではなかった。娘は長持に入れて運ばれ、婚家ではじめてその蓋が開けられる。娘の入った長持を奪い取ることで村人に怖れられていたネゴロウ。ある時、奪った長持の中に人形が入っていた。赤子のように泣く人形をあやしながらネゴロウは山に入っていく。

第二話「濁り水」
 これは関係者がまだ生存している近い時代の話。金魚が死んで悲しんでいた少年は、金魚の形を保ってくれる氷の人形を手に入れる。少年は人形を愛し、外気にさらされるたびに少しづつ溶けてしまう人形を守るために容器ごしに言葉を交わすだけで我慢している。少年の様子を怪しんだ母親は後をつけてきて容器を開ける。中にはわずかな水に浮かんだ金魚。少年は死んだ金魚と話していたのだと納得した母親はそのまま帰る。母親の独占欲のためたったひとりの友達だった金魚を殺され、今また人形を失った少年は姿を消す。

第三話「斑猫の女王」
 見世物小屋で歌い踊る人形が大評判。人形を診た若い医師は、陽に当たらず衰弱した人形を外に連れ出そうとするが、興行主達に捕らえられる。面を被せられた医師は全てを忘れ踊りながら去っていく。人形は歌いも踊りもしなくなり、ただの木偶に戻ってしまう。

 すべての人形を作ったのはQという名の人形師だという。

 物語を採集しながら柳田は激しい苦痛に襲われる。不治の病の妹のため、隣家の医師が人体実験を繰り返していたらしい。柳田も何か薬を飲まされたようだ。法廷で医師は、妹は死んではいない覚めない眠りを眠っているだけだ、と主張する。人形は人とは違う眠りを眠っているだけなのだ。
 送られてくる手紙に対して佐々木は、そんな場所はどこにもない早く帰ってくるようにと警告するが、柳田はさらに踏みこんでいく。
 人形とは本来誰のためのものだったか。宿泊している家の少女が柳田を娘のもとへ導く。

 彼は娘と一対で少女の雛になったのかもしれない。
 彼はあのとき記憶を無くした男で、生まれかわり死にかわりしながら愛する人形と出会い続けるのかもしれない。
 ふいに何度も現れる少女はざしきわらしを思わせるし、歌い踊る人形には身売りされた娘たちの影を感じる。現実と幻想、伝承がないまぜになった美しい世界。

 しかし、そんな合理的解釈に意味はない。
 なんとか理解できる筋を見ようとしているわたしは、ほんとうに舞台を見ているのだろうか。わたしがこの舞台を美しいと思うのは旅行者の感傷に過ぎないのだろうか。ノスタルジックなエキゾチシズムを感じているだけではないだろうか。そんなもどかしさを感じる。

 痛みを知らぬものに鎮痛の何たるかはわからない、そのことを感じているから村人達は容易に語ろうとしないのだ、と柳田国男は随筆に書いた。

 これは、おまえには理解できないお話なのだと劇中くりかえされる言葉が告げる。
——したら、にし(主)はこの村のもんではないな——

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