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残魂エンド摂氏零度 松岡永子
 無駄にレベルの高い音楽や映像、才気溢れる作家の紡ぎ出す物語が膨大な枝葉も含めて併走するてんこ盛りの舞台。そんな初期のデス電所の舞台に比べると今回は実にシンプル。以前の舞台の賑やかさを惜しむ向きもあるだろうが、わたしはストレートな芝居が好きだ。
 あいかわらず音楽のレベルは凄まじく高い。映像も素晴らしい。ダンスも。竹内佑の演出力をもってすれば、その一つだけでも十分ショーとして舞台を仕上げることができる。だが、そうしない。スタッフワークのどれも突出して目立つことをせず、実にバカバカしい(誉め言葉です)くすぐりと同列のものとして存在している。
 舞台装置もシンプル。白一色の壁だけが広がり、同じ形、大きさの扉がいくつもならんでいる。
テーマもシンプルで、劇中、ひとつの単語で言い表わされさえする。
「自立する」

 オープニングシーン。少女が男に拳銃を突きつけられている。聞いてはいけない話を聞いてしまったらしい。
 少女は命乞いするわけでもなく、「わたしのこと撃つの? 撃つんでしょ?」と慌ただしく尋ねる。撃たれたいのか? という男の問いに
「撃たれたいわけないじゃない。でもこの(話の)流れなら撃つでしょう。撃たないとみんなが承知しないわよ」
「みんなって誰だ?」
「みんなはみんなよ!」

 このシーンはいろんな意味でクライマックスで、物語はここへ戻ってくる。

 たぶん近未来。
 世界はいくつかの部分がつぶれて小さくなってきている。「わたし」は特別な感慨もなく、世界とはそんなものだと思って育った。たぶん、みんなそうなのだ。
「わたし」が中学生になったとき、両親は、自立した人間になってほしいと開発されたばかりの超高性能ロボットを買い与えた。見た目は人間そのもの。通信その他あらゆる機能を備え、所有者の代わりに考えることを引き受けてくれる。そして、こんな高価なものを持っていると知れるといじめられるから、みんなには内緒にしておきなさいという。

 子どもがいじめられているのに耐えられないのは、子どもを愛しているからか、親の虚栄心か、傷つく子どもを見ていると自分が傷つくからなのか、わかりはしない。本人にもわからないことを考えても仕方がない。彼らは彼らなりに子どもを愛していて、子どもを守るためにロボットを与えたのだろう。ただ彼らは愛の示し方を知らなかったし、だから子どもにも教えられなかった。

「わたし」はロボットに所有者として自分のデータを入力する。そして「わたし」は「わたしたち」になった。

 真っ白な壁に囲まれた部屋の中央。少女とひとりの男の子がラインでつながっている。
 ドアが次々と開き、色とりどりの人々がにぎやかに現れる。テンポの速い、ノリのいい会話。同意と反論、というより話題転換、そして同意。本気で言い争ったり議論したりしない。チャットでの世間話。
「わたしたち」はふたりきり(ひとりと一台)この部屋に閉じこもって、そしてモバイルや通信機器のCM風に言えば、「世界中とつながっている」。

 はじめ、少女は自分が万能のロボットだという。自分は何でもできて、自分の分身である男の子は「わたしがいなきゃ何にもできない」という。
「うん、君がいないと僕は何もできない」と従順に答える男の子の方が、もちろんロボットだ。
 彼らが部屋の外に出ていくことはない。
 部屋を訪れるものはたまにいる。
 近くに越してきたという女は金に困っていて、彼らの持っている遺産を狙っているようだ。いつも来る修理屋さん(機械全般を扱うらしい)の兄が、急にいなくなった弟の代わりに、と来ている。
 テロ組織の活動が活発になり、この一帯に避難勧告が出たと係員が告げに来る。少女は、シェルターは安全かも知れないけど自分の部屋より安心できる場所はない、と避難を拒む。

 彼女はネットの人間関係に過敏だ。ちょっとしたことで「空気の読めない振る舞いをした。嫌われた。もうあそこ(のコミュニティ)には行けない」泣き喚く。そしてけろっとして、次のコミュニティにはどんなキャラ設定で行こうかな、と楽しげに思案する。
 リアルの人間関係では、つねに相手の弱みを見つけ優位に立つことを考えている。
 彼女にとって世界はプログラムされた筋書きどおりに進むものであり、勝ちか負け、オンかオフしか存在しない。

 隣人の女は少女の部屋の奥へ金目のものを探しに来る。少女は女が金に困ってることを暴き立て徹底的に傷つけ、勝利を宣言する。女はそこにあった拳銃を手に取る。

 以前にもここでこんなことがあった。昼間便利なものを直している修理屋の男は、裏では便利なものを破壊するテロ集団、ポロロッカのリーダーだ。その秘密の会話を聞いてしまった少女に拳銃を向けた男は、明らかに困っている。テロリストではあっても少女を殺すことにはためらいがあるのだろう。
「撃たなければみんなが承知しない」と少女はいい、男が撃った弾は少女の部屋の壁に小さな穴をあける。そこから一筋の光が射しこむ。男に淡い恋心を抱いていた少女は泣く。

 その時と同じように拳銃を手にした女は、けれど銃口を少女にではなく自分の腕に向ける。
「いつも自分が被害者でいるつもりでしょう。そうはいかない。私が撃たれてあんたが加害者になるのよ」と脅迫された少女はこんなの予定にないとべそをかく。これはよい機会だと判断した男の子は、どうするのか少女自身で考えるよう促す。壁の穴からは一筋の血が流れ出している。
 何を望んでいるのか問い詰められた少女は、やさしくしてほしい、愛してほしい、とつぶやく。
「愛されたいって、誰に?」
「みんなに」
「みんなって誰? そのうちのひとりの名前をいってごらん」
「…(答えることができない)」
「…そのみんなに、私は入ってるの?」
「うん」
「あんたを愛するなんてムリ! …少なくとも今は」
 そういいながら女は乱暴に少女を抱きしめる。少女はもう、男の子がケーブルのコネクタを差し出して立っていることに気づかない。

 ポロロッカに破壊された男の子を抱えて、少女は自分の部屋を出て避難所へ行くことを決める。
 いつの間にか少女は、ひとり吹雪の中に立っている。真っ白で何も見えない。
 破壊され崩壊した世界には何もない。何かがあった、という証の瓦礫すらない。世界の終わりの風景はあっけらかんと明るい空虚なのだ。
 踏みだす先に明るい未来などない。そんなことははじめからわかっている。ただ、一寸先の白い闇に向かって一歩を踏みだす。

「わたしたち」から「わたし」へ。「みんな」から固有の名前を持ったその人へ。
 世界のあり方が変わって、無力感と表裏の全能感を手放した少女は自分の足で立っていけるようになる。

 デス電所のヒロインはいつもきれいだと思う。
 売春婦だったり殺人者だったり変質者に殺されて剥製にされていたりするが、みんな強くてきれいだ。それは、いざとなると女の方が度胸が据わるとか、母親予備軍らしく優しく逞しいなどといったステレオタイプではない。それは男性にとって都合のいい幻想に過ぎない。
 彼女たちには、自分の人生を自分のものとしてひきうける覚悟がある。他人のせいにしたりいいわけしたりしない。無力な者なら無力な者として、居場所を持てない者なら持てない者として、自分をひきうける。
 劇中、失踪した弟の代わりに責任をとるという男が出てくるが、彼が負おうとしているのは自分の責任ではない。弟の場所に代わりに座ることで自分にも居場所ができるだろうという幻想にすがっているだけだ。

 ただ気になっているのは、なぜいつもヒロインなのだろうということだ。
 フライヤーに書かれた詞を見ると、はじめ主人公は男の子だったようだ。この物語は、男の子が自分のみっともなさや無力さを受けとめ一歩を踏みだす話にしてもかまわなかったはずだ。それがなぜ少女の話になったのか。キャスティングの問題ということは十分考えられるが、もし作家が理想や希望を女性にしか託せないのだとすれば、それもひとつの幻想だろう。

 ところで。音楽のレベルが高いというのは、全編でできのいいオリジナル曲が使われているということだけではない。デス電所の音楽は、舞台のサイドでキーボードなどを駆使してライヴ演奏される。そんな贅沢なことはなかなかできるものではないと思うが、門外漢には正しく評価することができない。誰か、きちんとコメントをしてくれないだろうか。

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