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内なる矛盾を破壊から再生に向けて 西尾雅
近未来の京都を舞台に、不法占拠の住民を強権もって立退かせる市職員を登場させる。観光を謳いながら歴史的建造物を破壊しようとする市の欺瞞をつき、深刻な京都批判を展開。京都人特有の排他性や驕りが、京都で育った演劇人たる作家や劇団に未だ違和感を抱かせる実状を明かす。むろん、これはフィクションであり、くすぐりを散りばめてはあるのだが、ブラックな笑いの裏に人の本音が透ける。かつては首都だった自尊心にすがる京都を例に、誰しもが持つ排他性や差別意識を衝く。が、本作が京都芸術センター制作支援事業の一環として地元京都で初演されたことに、関係者の勇気と京都の懐の深さも知る。批判をも呑み込んで文化の集積は続く、それが伝統の重みか。

観光重視の政策が強化され、市中心部は昔ながらの京都人だけが住む保護区と化し、ネイティブでない者は郊外に住まわされている。観光の恩恵に預かれない地区はしだいに荒廃、殺人事件も頻発して、一帯はますます寂れる悪循環を繰り返す。唯一この地に残された歴史的建造物に住む高幡夫妻(水沼、西野)は既に建物を市に売却していたが、事件現場のシンボルとなったこの建物を観光イメージ悪化を恐れる市が取り壊すと知って居座る。立退きを説得する市職員(金替)と、運動に共鳴する近所の板倉夫妻(尾方、増田)や旅行中の真中(奥村)が平行の議論を重ねる中、周囲はしだいに不穏な空気に包まれる。

優柔不断な高幡の夫は、市との交渉で気の強い妻に隠れるばかり。板倉の夫は、近所に住み着いた新興宗教に出入りする妻に気もそぞろ。イタリア生まれで日本旅行中の真中は地元民以上に京都通だがとんちんかん。わずか5人の取り壊し反対派の中でも足並みは揃わない。板倉のように夫婦という最小単位の人間関係も宗教観の違いでたやすく破たんする。そんな折、高幡の妻の実家がある市中心部が放火され、実父が亡くなる。犯人は板倉の妻が関わる新興宗教とされる。むろん、彼女は犯行と何の関係もないが、父を殺された高幡の妻は板倉の妻に食ってかかる。共同体内部で葛藤は鬱積し、分裂は拡大する。それこそが人の業だとばかりに。

けれど人は集う、群れる。立退きを説得するはずの担当職員が反対派に回り、高幡らと一緒に立てこもる。彼もまた市役所という組織の中で差別される側だったのだ。が、反対派に取り込まれた彼は当然クビになり、強硬派の上司(土田)が直接介入する。クビにした部下と同じく生粋の京都人でない上司は、組織への忠誠を証明するため強行に出なければ出世は覚束ない。かくて、絵に描いたような差別される者が差別を拡大する構図が展開される。

市と戦う高幡たちにも、近所の住人のいやがらせが襲う。放火犯である新興宗教関係者と誤解されての襲撃だが、ここでも弱者であるはずの郊外の住人同士が争い、荒廃に輪をかける。かつての左翼系演劇なら向かうべき敵が明示され、住民の団結を促したであろうが、現代の不幸ははるかに深刻。搾取する側、搾取される側と簡単に分けられないほどに利害は入り組み、夫婦間にも越えられない溝は当然ある。問題は、それを承知で人は誰かとつながらねば生きていけないということにある。

そうした矛盾こそが、あるいは人の本質かもしれない。追い出しを図る強硬派の上司と追い出される側の高幡が、同じ出身地あるいは同じ猫好きというだけで一瞬親しみを覚える。非京都人の夫との結婚を反対され父に反発した高幡の妻は、父を殺されるや毛嫌いする京都弁を迸らせて、肉親と出身地へのアンビバレンツな感情をあらわにする。
イタリア生まれゆえに日本人のアイデンティティを求め悩む真中。それは宇宙人の存在を信じ、宇宙の中の人間であろうとする劇中の新興宗教の悩みと共通するのかもしれない。純粋の京都人でないゆえに冷遇される人々の中にも微妙な差はある。わずかな差にしがみついて、人は他人を差別、排他し、自分の優位にすがる。京都人であること、日本人であること、宇宙の中の人間であろうともがく彼らのこっけいさを、私たちはけっして笑えない。

彼らが守るのは明治に建てられた洋風の寺。かつては高幡夫婦が自宅兼喫茶店とし経営難で手放したのだが、立退き迫る職員に形ばかりコーヒーを出す。が、彼を快く思わない高幡の妻は思わず「飲まないで」と声を出す。言ってから彼女は「いいえ、飲んでくださいよ」ととりなす。けれど、酸味と苦みのブレンドが絶妙と称するコーヒーを彼が味わえるはずもない。コーヒーより、彼女の心の配合が問題なのだ。コーヒーを勧める、勧めない。取り壊しを許さない、応じる。父に反発する、愛している。夫の優柔不断が癪にさわる、私が代弁してのける。私は生まれた京都を憎む、いや忘れることができない。共同体の関係どころか、ひとりの人間の中で、既に矛盾が心を引き裂いている。

人が、共同体が、社会が融和する道はないのだろうか。西洋建築を模した寺に残されていたのは脇侍仏2体だけ、ご本尊の姿はない。それは、観光都市を目指しながらいっぽうで破壊に走る市の姿勢や、つながりを求めながら、いがみ合いを繰り返す彼らを象徴するように中途半端で本質を欠く。和洋の混交、奇妙なブレンドを繰り返す中で、私たちは人として最も大事な何かをどこかに置き忘れて来たのかもしれない。

悲惨な結末が待つ。板倉は近隣住民から暴行を受け意識不明に陥る。立てこもり組は、救急車を手配する間もなく、建物を破壊すべく迫る重機の音を聞く。そして暗転。「その鉄塔に男たちはいるという」で銃弾に見舞われる慰問団の最後に重なる。個人の意思を押しつぶす重機の破壊音はまさに凶器。板倉の妻が力説するように新興宗教も、初めは宇宙人とも平和にコンタクトするとの理想を持つ穏やかな集団だったに違いない。けれど、人々の非難と無理解の中でいつしかカルトと化し、反撃のため過激手段に出たと推測される。窮鼠猫を噛むの例えのように。この地で頻発する猫の惨殺事件は、大人しいはずの近隣住人の仕業だろう。京都市民として疎外されている彼らもまた攻撃目標に無抵抗な動物やカルト教団を選び、迫害を連鎖、拡大させて行く。

悪意の堆積が人を、集団を変質させる。平和が暴力に、文化財の保護が破壊という真逆に反転する、天使が悪魔に堕すごとく。それが神も仏も鎮座していない現世ということか。すべての根源は私たちの内なる矛盾にある。復讐をあきらめ、すべてを許せばいいのか、けれど、長年住み慣れた家が燃やされ、あるいはつぶされ、肉親が殺された怒りはどうすればいいのか。困難ではあろうが、もう一度話すことから始めるしかない。一杯のコーヒーを勧めることで可能性を見出すのだ。その苦さこそが、人生の真の味わいなのだから。

キーワード
■宗教 ■ブラックコメディ
DATA

同公演評
何と戦っているのでしょう … 平加屋吉右ヱ門

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