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探るほどに面白い、知るほどに謎が深まる“大阪”という都市を楽しむ。


vol.21 大阪キモノ風俗史

何番蔵何番棚のお召ぇ〜し!
 江戸期のタウンガイドブックである文政三年(一八二〇)の『商人買物独案内』、弘化三年(一八四六)の『大阪商工銘家集』には、呉服商として三井越後屋(後の三越百貨店)、大丸まつや(後の大丸百貨店)、岩城ますや、平井小橋屋とともに、『小大丸』も「大和忠三郎」として名前を連ねる。三井、大丸、岩城、平井小橋屋が大坂の四大呉服店と称され、『小大丸』は四社につづく準大手の一角を築く。当時の呉服商ではどんな風に商談が進んだのだろうか。
 現代のような商品を店内狭しと並べて競い合う陳列方式は採用されていない。座って顧客の来店を待ち受ける座売り方式だ。顧客がやってくると好みを聞き出す。そのうえで蔵から商品を運び出し、顧客の前で広げてみせるが、即決といかない場合もある。そんなときには、お気に入りが見つかるまで反物などを山と積んでいく。
 番頭が蔵の番号や商品名を読み上げ、若手従業員の子供衆(こどもし)が歌うように復唱して蔵へ駆け込む。「何番蔵何番棚のお召し」「何番蔵何番棚のお召ぇ〜し〜!」といった趣だ。この蔵出しの輪唱がにぎやかなほど、繁盛店である。
 すべては面談で進む。番頭は顧客の真意を上手に引き出しながら、さりげなく店の自信作を勧めていく。ヒアリングとプレゼンテーションという現代セールスの基本がすでにうかがえる。おそらくかなりの時間が費やされただろうが、顧客はいらいらすることなく、かえってそんな商談のひとときを楽しんでいたのではないか。手代や子供衆たちは丁々発止のやりとりを聞きながら、少しずつ商売を覚えていったことだろう。


嫁入り衣装の隊列が行く


 
  大正時代の名家の嫁入り隊列。(『小大丸弐百年のあゆみ』より。大西衛氏蔵)
 


 
  人より群を抜く魅力をと、装う人も職人も競って技を尽くした日々。大正期から昭和初期のキモノは、実に個性豊か。(小川月舟寫眞場提供)
 
 キモノ姿のヒロインは今も昔も花嫁さん。かつては花嫁衣裳のほかにも嫁入り先へ持参する婚礼衣装が大きな市場を形成していた。なかでも小大丸では年輪を刻んで「婚礼衣装なら小大丸」の評価が定着。
 紋付・羽織姿で正装した本使と副使が先導し、キモノや身の回り品などの調度品を収納した荷物を担いだ人たちがあとに続く。うちかけ箪笥(たんす)、小袖箪笥、塗長持、木地長持など、十三、四の荷物が確認される。「明治大正期の名家の婚礼には、通常小大丸の荷物がもっていかれ、荷飾りには小大丸の番頭が参加するのが普通の慣例であった」という。想像するも優雅な情景ではないか。
 大正から昭和への転換期に、専門店ネットワークの意識が芽生えていく。小大丸に加え、生駒時計店、てんぐ履物店、尼伊宝飾店ら各ジャンルの一流店が大正十五年(一九二六)に「専門大店会」を結成して以来、合同展示会を開催して話題を呼ぶ。ガス灯がまばゆく照らし出す心斎橋筋にはモガ・モボが闊歩し、モガたちは安くて大胆な柄や色合いを楽しめる銘仙に飛びつく。
 いま、往時のキモノが再び流通し始め、『昔キモノ』『アンティークキモノ』として静かな熱を帯びる。新しい『心斎橋キモノ』が誕生するのも夢ではない。



 
  次第に和装から洋装へと変わっていった昭和初期の心斎橋筋。通りをいく人々は、流行の衣服をまとい、「心ブラ」を楽しんだ。 
 

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