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塩崎おとぎ紙芝居博物館館長・紙芝居総合センター三邑会
塩崎ゆうさん |
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塩崎ゆうさん。全国で唯一、今も活動を続けている紙芝居の絵元、『三邑会』はこの人抜きには語れない。夫、塩崎源一郎さんを支え、二人で駆け抜けた紙芝居人生。そこには語り尽くせない思い出が詰まっている。
塩崎ゆうさんの夫は『三邑会』の生みの親、塩崎源一郎さん。二人で紙芝居ひと筋の人生を駆け抜けてきた。源一郎さんは一昨年に亡くなられ、ゆうさんはその後を継いで会を守っている。『三邑会』から作品を借りて街頭で紙芝居を演じる会員は現在約二十人。みんな家族のような付き合いの人たちだ。自宅の一部は紙芝居数万点を収蔵する「塩崎おとぎ紙芝居博物館」として、希望者に公開(要予約)している。夫婦で築いた紙芝居の城には思い出がいっぱい。ゆうさんに源一郎さんと紙芝居のお話、たっぷりとお聞きした。 |
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ほんとに無我夢中でやってきました。私は紙芝居のことはわからないから『三邑会』では内助の功ばかり。それでも昼も夜なく働きに働いて。二人でゆっくり過ごした思い出なんか一度もありません。夫は酒も煙草もやらず、紙芝居のために頑張って、もうかったお金もすべてつぎ込みました。だからこれだけたくさんの絵が残ったんです。ほんとうに紙芝居だけに生きてきた人生でした。
あの人が大阪に来たのは昭和十四年(一九三九)ごろでした。私の家の近くに住んで、何人かのグループで紙芝居をやっていましたが、あのころはまだ東京から紙芝居を借りていて、絵元はやっていませんでした。そのうちに、どんなはずみがあったのか結婚してしまって(笑)。
そのころ、私は食堂をしていましたが、戦争が始まり物資が配給になると食堂をやめて主人を手伝うようになりました。でも昭和十九年(一九四四)には夫も召集され、後はもうめちゃめちゃ。空襲で家も焼かれて、終戦で帰ってきた夫は軍隊の訓練で足を悪くして松葉杖をついていたんです。丸裸でさあ何をやろうかといっても、やっぱり紙芝居しかできません。悩んだあげく主人は、もう自分では演じられないから、今度は紙芝居をつくって人に使ってもらう仕事をしようと思ったんです。
それで新聞広告で絵描きさんを募集しました。随分たくさん集まってきましたけど、紙芝居のことは知らない人ばかりでしたから、主人もそこからがひと苦労。教えなあかんことばっかりで、時間かかりましたけど、それでもだんだんものになってきて。当初はこの家の二階に絵描きさんたち七、八人が住み込んで仕事をしていました。大家族で暮らしているようなもので、今思うとすごいですね(笑)。絵描きさんたちは田舎から送ってもらった白いご飯を炊いて食べている。私らは配給ですからナンバキビとか、そんなんばっかりでした。絵描きさんたちがうらやましくてね。
私はできた絵を台紙に張ったり、絵に原稿を裏書きしたり、ラッカーをかけたり、雑用をやりました。絵描きさんたちの話し相手をするのも仕事。紙芝居のときに売るお菓子も自分たちでつくりました。バクダン飴、酢コンブ、スルメの足、型抜きのお菓子、ほんとになんでもこしらえた。やり方なんかわかりません。主人が道具を買ってきて、いろいろ工夫するんです。器用な人で、頑張り屋でした。酢コンブつくったら家じゅうに酢の匂いがしみついたり。でもそんなこと言うてられません。生活していかなあきませんから。よう身体がもったなと思います。今はとてもできません。よくやったね、と自分で褒めてあげたいです。 |
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