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+ 徳山由香

国立国際美術館非常勤学芸員などをへて、コンテンポラリーアートの研究、企画、運営に携わる。 2005年10月より文化庁在外研修によって、フランスにて研究・研修に励む。

+ 田尻麻里子

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+ ピエール・ジネール

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PROFILE
artport

artportは、夏から秋にかけての季節限定の、アートスペースである。場所は、市の中心部から地下鉄で20分弱、名古屋港の保税地区内、名古屋港管理組合が保有する倉庫群、これを名古屋市が借り受けている。ただ残念ながら、次の夏がきても私たちがそれを再び眼にする機会は、もう訪れないかもしれない−主催する名古屋市から2004年度以降の倉庫を使用してのartport事業の中止の通達が03年10月16日に発表されたのだ。
それでもartportは、ここ数年の名古屋地域の現代美術を語る上で不可欠な存在であり、その中心を担うべく行われてきた活動は、ここに記しておきたい。artport事務局を担当する上本裕保さんから話を聞き、過去の広報物等の貴重な資料を提供いただいた。

活動の拠点20号倉庫(左側の白い方)

眼前に打ち寄せる波に洗われる港、その先端に位置する1952年以降に建てられたコンクリート造りの倉庫群、この場所と空間を使って何かができはしないかと、名古屋市から地域の美術関係者に声がかかったのは、1998年のことだった。名古屋市は、水族館などの施設ができて賑わいをみせ始めた名古屋港地区に、既存の倉庫などを利用してさらなる地域の活性化を模索していたという。このような呼びかけに対して、当時それまで名古屋でメディアアートの展覧会ARTEC(アーテック)を開催していた関係者達が、その活動の発展を視野に入れてアートスペースの運営に名乗りを上げ、1999年の夏artportは始まった。

 

artport 1999-2003

1999年から2003年までの5年間にわたるartportの活動は、大きくとらえると、メディアアートの展覧会「メディアセレクト」、アーティストのために制作場所を提供する「オープンスタジオ」、そして子どものためのワークショップ「遊びの倉庫」の3つが挙げられる。
「メディアセレクト」は、先述したARTECを継続、発展した形で毎年開催されたメディアアートの展覧会である。実行委員会を構成するメンバーの一人である茂登山清文氏の言葉を借りるなら「MEDIASELECTは、10年間にわたった「アーテック」への、いわばアーティストたちからの返礼のようなもの」として開催された。それはすなわち、この10年間のARTECによってアーティストが育ち、今度は自らの表現を世に問う側に立つようになったということと言い換えられよう。メディアセレクトには、名古屋内外の若手から中堅まで多くの作家が参加し、「メディアアート」だけに収まらない多岐にわたる表現の場となってきた。こうした活動は、2002年には、市内各地とartportを会場にした「電子芸術国際会議 ISEA」の開催へと実を結び、ARTECからメディアセレクトへといたるメディアアートの発信地としての名古屋の活動は、ここに大きな盛り上がりを見せたといえるだろう。

メディアセレクト2003より
メディアセレクト2003より
「オープンスタジオ」は、そもそも99年のartportオープンと同時に開催された「given」というプロジェクトから展開したものである。givenは、広い倉庫をアーティストの制作場所として活用、さらに発表の場とすることを、名古屋を中心として活動するアーティスト達が企画したもので、6週間にわたる期間に全国から7つのグループ総勢100名のアーティストが参加した。これによって得られたアーティスト間の交流、そして何よりも、広い制作スペースを確保できるという喜びがそのまま「オープンスタジオ」へと引き継がれた。2000年以降のオープンスタジオでは、公募から選出されたアーティストに対して、1ヶ月単位で制作のためのスタジオとして光熱費等の実費負担で倉庫スペースを貸し出し、週末はスタジオを公開して、展示やワークショップを開催、これに対してたとえば2000年度には約5ヶ月間で40数名のアーティストが参加したという。
given(1999)

また子どもたちを対象としたプログラム「遊びの倉庫」では、倉庫を「アジト=隠れ家」と名付け、倉庫という非日常的な場所を、子どもたちの冒険、新しい遊びの場として開放、また中学生や美術を学ぶ大学生達らとの世代を越えた交流の中から、刺激的なものづくり、ワークショップを展開した。
これらに加えて、日本各地でインディペンデントな活動を展開するアーティストやキュレーターらを招き、レクチャーやシンポジウムを開催するなど、artportは期間限定ながらもアートスペースの可能性を問い、開かれた議論の場となった。

 

中止の通達

こうした活動に対して2003年10月、名古屋市からartport事業を本年度限りで中止との通達が発表された。そもそもこのartportは、名古屋市による「市民芸術村」構想が打ち出した「市民に芸術文化活動の場を提供する」、そして「港湾地区の倉庫の有効利用」という趣旨のもと実施されてきたが、今後この倉庫を恒久的な施設として利用するために改修、耐震設備を施すなら10億円以上の工事費を要すること、またそれだけでなく、港湾地区の「よりにぎわいづくりに繋がる早急な活用」を検討した結果、中止の判断が下されたという。
重ねて状況を述べるなら、artportの公共の施設としての機能は、決して十分とはいえないものであったようにみえる。そもそも99年の開始に際しての倉庫の掃除や建物の管理は、アーティスト達自身の手によって行われ、彼らに大きな負担を強いた。また毎年の活動についても、年々予算は削減され、結果、2003年度は主要なプログラムである「メディアセレクト」や「遊びの倉庫」ですら外部の関連事業として、つまり自己資金による開催を余儀なくされていた。さらに残念なことには、中止の通達に関しても、現場を担ってきた事務局や関係者には何の相談もなく、ただ突然の通知だった。そもそも事務局や実行委員会は、運営の方針を決定するような権限をもっていなかったという。さらに付け加えるならば、現在もこのスペースには耐震設備どころか、トイレもない。
限定的にでもせよ、このような状況を、「芸術文化活動の場」として「提供」していた、そしてそれすら継続が難しいという主催者である名古屋市の認識の甘さに対しては、内外からの批判が免れないのは当然だが、ここで私たちは、アート、美術の活動についてあらためて自らを振り返る契機としてみたい。

artport 2003

アートのための活動

なにか一つのきっかけをつかみさえすれば、アートは自己発展を遂げる−これがアートを生きる、おそらく全ての人々が共有する喜びであり、表現の価値であるだろう。ところがこのような喜びが過剰な自己発展を遂げるとき、ともすれば、そこに関わる人々に対して多大な奉仕を要求することがある。アーティストの自己マネージメント、自身の表現の場を自ら勝ち取っていくことはいまや当然のことのようになっているが、そのことがアーティストに対して多大な負担となり、表現のためでなく、表現の場、あるいは制度のためにエネルギーを消耗してしまっては、本来の表現すら危ぶまれるのではないだろうか。
たしかに、表現の場、それを支える場、アートに主体的に関わる場が、誰もにとって必要であることは事実である。だからこそ、従来の文化施設とは違った方向性を示すアートスペースが生まれてきたはずだ。しかしながら、アートに対する純粋な情熱が、スペースを維持するための機能的要素としてシステムの中に取り込まれてしまっては、本来皆が目指すところのプロフェッショナルから遠ざかるばかりか、長期的な視野で続けていくことが難しくなってきはしないだろうか。
「アートスペース」という場について考えるとき、その中心となる要素は、集まってくる人や情報であり、人や情報が集まるための場所であり、そしてこれをこの場で受けとめて整理し、これをまた誰かに伝えることのできる人ではないだろうか。そのような確たる「中心」となる場と人があってこそ、周囲の人間が積極的に関わり、あるいは緩やかにつながってシーンを形成していけるのであって、責任を担える立場の人間が曖昧、不在のままでは、折角多くの人間が集っても、情報も情熱も、ただ流れるままこぼれ落ちてしまうことだろう。

artport事務局を兼ねるBAR PARADISE (2003)

港の人々、これから

港の話に戻ろう。N-mark のムトウイサムさんやPHスタジオなど「オープンスタジオ」に関わってきたアーティスト達は、artportの今後について考える有志の集まりをもって、議論を繰り返している。彼らの話によれば、たとえartportの倉庫での活動が中止になったとしても、これまでの活動を無駄にしないため、形にして次につなげるために模索中であり、そのことは名古屋市側と交渉中であるという。
そのための課題として、ムトウさんは、これまでのartportの活動の見直すべき点と今後の希望を率直に語ってくれた。一つは、これまでは様々な人が関わっていながらも、artportとしての意志決定をするための主体的な機関がなかったため、今後は、実行委員会、運営委員会等の母体をしっかりさせた上で、運営の方針を担うなど明確な機能を持たせること、そうして名古屋市とのパートナーシップを結んでいくこと。もう一つは、オープンスタジオに参加するアーティストの選考方法と待遇の改善。そして最後に、これまでのような期間限定とは違った、通年で使用できるスペースを目指しているとのことである。
実際のところ、ここ、名古屋市の港地域には、すでに様々な形でアートが営まれてきている。N-mark の活動でいえば、99年のartport開始とともにgivenの開催に中心的な役割を果たし、アートスペースKIGUTSU、ネットワークづくりのため日本全国を廻ったミーティングキャラバン(2003)の報告会、またPHスタジオは、ISEA2002の会場設計に続いて03年には名古屋港周辺地域のフィールドワーク、そしてartportに03年11月の1ヶ月限定の「バー・パラダイス」をオープンした。さらに2004年には、フィールドワークの成果を下に、他のアーティストともに名古屋港に注ぐ堀川周辺で大々的なアートプロジェクトを計画中という。
このような活動が名古屋市内の他の場所でなく、この港の地で起こっているということは、artportでの5年間の証のようなものと捉えることができるだろう。「港」というシーンが生起しつつあるといっていいのかもしれない。artportは、1999年、倉庫という場所を「与えられた」ことに由来するプロジェクトであったが、これを契機として、全国からアーティストを名古屋で発表する場を与えた場所でもあり、あるいは地元名古屋の人々には一堂に会したアーティストと、その作品と出会う場を与えたプロジェクトであったといえる。それはすなわち、彼らの目指すところ−名古屋地域にアートシーンをつくること、ここで表現を発表することに対して付加価値を見出されるような場をつくること−への土台を得た5年間であったともいえるだろう。

(徳山由香 取材:23/11/03、21/12/03)

artport、あるいはこれに代わる現代美術事業の継承を探ったartport周辺アーティストと名古屋市との話し合いは、残念ながら、2004年3月をもって解散したという。
一方で、artportに関わっていたアーティスト、椿原章代さんによる貴重なドキュメントが寄せられた:
http://homepage2.nifty.com/tsubakihara/j/info_j/03_99artport.html

名古屋、港(2003)

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