港の人々、これから
港の話に戻ろう。N-mark
のムトウイサムさんやPHスタジオなど「オープンスタジオ」に関わってきたアーティスト達は、artportの今後について考える有志の集まりをもって、議論を繰り返している。彼らの話によれば、たとえartportの倉庫での活動が中止になったとしても、これまでの活動を無駄にしないため、形にして次につなげるために模索中であり、そのことは名古屋市側と交渉中であるという。
そのための課題として、ムトウさんは、これまでのartportの活動の見直すべき点と今後の希望を率直に語ってくれた。一つは、これまでは様々な人が関わっていながらも、artportとしての意志決定をするための主体的な機関がなかったため、今後は、実行委員会、運営委員会等の母体をしっかりさせた上で、運営の方針を担うなど明確な機能を持たせること、そうして名古屋市とのパートナーシップを結んでいくこと。もう一つは、オープンスタジオに参加するアーティストの選考方法と待遇の改善。そして最後に、これまでのような期間限定とは違った、通年で使用できるスペースを目指しているとのことである。
実際のところ、ここ、名古屋市の港地域には、すでに様々な形でアートが営まれてきている。N-mark の活動でいえば、99年のartport開始とともにgivenの開催に中心的な役割を果たし、アートスペースKIGUTSU、ネットワークづくりのため日本全国を廻ったミーティングキャラバン(2003)の報告会、またPHスタジオは、ISEA2002の会場設計に続いて03年には名古屋港周辺地域のフィールドワーク、そしてartportに03年11月の1ヶ月限定の「バー・パラダイス」をオープンした。さらに2004年には、フィールドワークの成果を下に、他のアーティストともに名古屋港に注ぐ堀川周辺で大々的なアートプロジェクトを計画中という。
このような活動が名古屋市内の他の場所でなく、この港の地で起こっているということは、artportでの5年間の証のようなものと捉えることができるだろう。「港」というシーンが生起しつつあるといっていいのかもしれない。artportは、1999年、倉庫という場所を「与えられた」ことに由来するプロジェクトであったが、これを契機として、全国からアーティストを名古屋で発表する場を与えた場所でもあり、あるいは地元名古屋の人々には一堂に会したアーティストと、その作品と出会う場を与えたプロジェクトであったといえる。それはすなわち、彼らの目指すところ−名古屋地域にアートシーンをつくること、ここで表現を発表することに対して付加価値を見出されるような場をつくること−への土台を得た5年間であったともいえるだろう。
(徳山由香 取材:23/11/03、21/12/03)
artport、あるいはこれに代わる現代美術事業の継承を探ったartport周辺アーティストと名古屋市との話し合いは、残念ながら、2004年3月をもって解散したという。
一方で、artportに関わっていたアーティスト、椿原章代さんによる貴重なドキュメントが寄せられた:
http://homepage2.nifty.com/tsubakihara/j/info_j/03_99artport.html
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