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+ 徳山由香

国立国際美術館非常勤学芸員などをへて、コンテンポラリーアートの研究、企画、運営に携わる。 2005年10月より文化庁在外研修によって、フランスにて研究・研修に励む。

+ 田尻麻里子

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+ ピエール・ジネール

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PROFILE
canolfan

canolfan [カノーヴァン]は、名古屋圏を中心とした若手アーティストの展覧会を開催していた新栄画廊から、91年に改称したスペース。カフェも併設するこのスペースは、名古屋の若い人達が、交流や情報を求めて集う場所である。1982年の画廊開業当初から数えると04年で22年目、名古屋市内でスペースを維持してきた新見永治さんを訪ねた。

領域を横断する活動

そもそも画廊と名乗る場所から カノーヴァン(ウェールズ語でcenterの意味)という親しみやすい響きをもつ名と居心地のよいカフェをもつスペースへと、それは大きな転換期だったかといえば、そうではないという。むしろ画廊時代から一貫して、視覚表現に限らず、身体表現、音、映像と領域を横断するパフォーマンスやイベントの場であったという事実は、「カノーヴァンという場所でなにかが起こっている」と語られるカノーヴァンの目指すところへと自然に行き着いたといえるだろう。

所狭しと並ぶアートグッズ、情報コーナーに迎えられる入口

その活動を見てみよう。コンピューター・ミュージックなどの実験的な音楽のライヴを中心に、社会学的アプローチのレクチャーシリーズ「脱カップルの恋愛/結婚/社会論」、アートに関するシンポジウム「消費社会における(アートという)啓蒙と堕落の歴史」等々、最近のものだけとってみても、刺激的な内容が並ぶが、これはオーナー/ディレクターである「新見さんそのもの」と見受けられる。とくに音楽のラインナップは非常に充実しており、地元から他都市、海外まで幅広いジャンルのミュージシャンのライヴが聴ける。ところが、いわゆるギャラリーで開かれるような視覚表現による展覧会が、見当たらない−実のところ、現在のカノーヴァンは、95年から7年間、インスタレーションやパフォーマンスの場として多くの若いアーティスト達の様々な表現を受け入れてきた、隣接するギャラリースペースを、2002年末の展覧会を最後に閉めたままで、近年は音楽のライヴやパフォーマンスに比重を移してきているのだという。

カタリ・カタリ、ライヴ

貸画廊からセンターへ

決してライヴハウスに鞍替えしたわけではない、というが、画廊と名乗っていた場所が、なぜ「見せる」ことを止めたのだろうか。この変化は、美術業界の抱える構造的問題とオーナーである新見さんの問題意識とが密接に絡み合って生じたものである。
ここのスペースは、新栄画廊時代からカノーヴァンに移行した後も、2000年まで、基本的に「貸画廊」として運営されていた。ちょうど美術界内でもこの制度化した発表形態に批判的な意見が出始めた頃であったが、新見さん自身もこの運営方式に疑問を持ち、01年「意を決し画廊を賃貸することを止め、行なわれる催しすべての企画をカノーヴァンが行なう」こととしたという。ところが実際のところ、インスタレーションやパフォーマンス中心の作品が売れて収益を上げるわけでもなく、かといって、売れるようなペインティングを発掘してコマーシャルギャラリーを目指したいというわけでもない。また、スペースを持っているということは、そこで常に何かを見せていなければいけないという観念にとらわれがちで、スペースの稼働率と見せたいものとのバランスをとるのが困難であった。等々の理由から、自主企画で運営を続けることにも継続性を見いだせず、結果「ギャラリー」にこだわるのを一時止めてみたというのが現在の状態であるという。

ギャラリーとカフェでの展覧会「会話」2002.3.2(sat)-31(sun) 河原崎貴光

またもう一つの理由として、新見さん自身の関心の移行ということも、彼自身の誠実な言葉で語られた。以前から音楽に対しては、よりストレートに素直に、音そのものに反応できるのに対して、視覚美術に対しては距離があり、気持ちの投入が難しいということを感じていたが、最近はこのことを強く意識するようになり、美術というものを「うまく捉えられなくなった」という。殊に、9.11の事件を目撃してしまったことは、彼にとってあまりに直接的な刺激を持つ視覚経験であっただけでなく、これが現実社会そのものであるという事実は、虚構の世界のアートに先を見いだせなくなるような感覚を持つようになったという。
このように自身の中に湧いた疑問の種を見逃さず、きっぱりと行動に移した新見さんの態度は、極めて潔い。疑問を感じながらも責任感やキャリアに引きずられながら、あるいはシステムに守られながら現状を維持することしかできない自他の弱さを、軽やかに飛び越えているものだといえるだろう。

「なにか」を求めて

カノーヴァンの本棚には、音楽雑誌や美術雑誌が揃い、また政治、自然科学、社会学と様々な分野の雑誌や書籍が集められている。「色々な情報がないと不安」だという新見さんの興味範囲、アンテナの広さを示すもので、また「なにか」に接近したいという気持ちになったときのために、いつでも見たり聞いたりできる距離に情報を置いておくのだという。

書籍、雑誌、CD etc. 自由に手に取ることができる。CDは購入も。

このような自由な関心の拡がりと直観的な柔軟な意志によって20年以上もの間継続するスペースがあるということは、名古屋という街にとって、ここを拠点に活動する若者達にとって非常に幸福なことではないだろうか。ただ、おそらくこれは表現者なら個々の人間が気付いていることだが、このスペース自身が、「自分が聴き/見たいもの、聴かせ/見せたいものを聴く/見る」ことに徹底しているように、自分たちも自分自身の「なにか」を自分で見つけなければならないということだ。自らの声に耳を澄ませ、「不安」を抱きながら「なにか」を探すこと−カノーヴァンは、そのためのたくさんの窓を備えたセンターとして、そこにあるだろう。

(徳山 由香 取材:13/12/03)

カノーヴァン

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