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+ 徳山由香

国立国際美術館非常勤学芸員などをへて、コンテンポラリーアートの研究、企画、運営に携わる。 2005年10月より文化庁在外研修によって、フランスにて研究・研修に励む。

+ 田尻麻里子

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+ ピエール・ジネール

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ミュージアム・シティ・プロジェクト

PROFILE

福岡が熱い、という声を90年代に盛んに耳にした。それは、現代美術に携わる人間にとってはおそらく周知の事実だが、ミュージアム・シティ・天神、ミュージアム・シティ・福岡という福岡の街を舞台にしたアートプロジェクトが、1990年から2000年までの10年間、隔年で開催されてきたためである。ミュージアム・シティ・プロジェクト(以下、MCP)とは、そうした継続的なプロジェクトの名前でありかつその運営団体で、また2000年以降はプロジェクトの中心メンバーがその趣旨と名称を引き継いで活動している。
2004年の現在、MCPは、福岡市文化芸術振興財団の運営する文化芸術情報館“アートリエ”内のスペース、ギャラリー・アートリエのプロデュースを担っているという。
MCPのプロジェクトが動き始めたのは既に15年前のことであるが、「都市」がアートプロジェクトの単なる「場」にとどまらず、主題に掲げられることも頻繁な今日、そこで日々直面するであろう問題を先験的に共有するMCPの活動を追うことに少なからず意義を見出せるはずである。MCP運営委員長山野真悟と事務局長を務める宮本初音に話を聞いた。

ミュージアム・シティ・天神/福岡・プロジェクト
都市における現代美術


「ミュージアム・シティ」とそのプロジェクトの名称に掲げられているように、MCPは、アートを美術館という制度によって保証された文脈、ホワイトキューブに限定された空間の中に置くのではなく、街中の野外や路上、あるいは商業空間などに作品を設置することで、福岡という都市全体をつかった美術展であった。すなわちその意図は、山野の言葉にもある通り「都市空間におけるインスタレーションの試みを発展させながら、アートを不特定多数の観客の前に出してみる実験の機会」であった。
それでは彼らは、どのように都市に美術を注入してきたのか。筆者自身、MCPを経験しなかった者の限定された視点からではあるが、彼らの残したドキュメントを紐解き、その10年以上にわたる活動を捉えてみよう。

インスタレーション

美術館の外でアートプロジェクトを行うことは、先述の山野の言葉と同様、MCPの90年から96年までのキュレーター黒田雷児の「ディスプレイとしても建築や看板と張り合え、かつ差異化できるようなインスタレーション」という言葉から汲みとれるように、インスタレーションという美術表現を、あえて街の中で行うことによってその可能性を広げるという実験的要素が強い試みであった。

母里聖徳《ドラムマン》警固公園、1990

例えば我々は、MCP初回となった90年、巨大なドラム缶彫刻を制作した母里聖徳の《ドラムマン》に、市街地にある公園で表現することに対する底抜けに陽気な喜びを見ることができる。また、森村泰昌の《花と包丁》では、商業施設の中で華やかなディスプレイを装いながら大衆の目に晒されることによって、その批評的な文脈をより鮮烈に読み取ることができるだろう。これらの作品は、この時、この場所にあってこそその生を得た作品であり、その意味ではMCPは、サイトスペシフィックなインスタレーションの生成の場となっていたといえるだろう。

森村泰昌《花と包丁》イムズ・パーティーコート、1990

コミュニケーション

MCPに出品される作品はこうしたインスタレーション作品を中心とした94年までと、それ以後とで少しずつ変化を遂げる。一つには大がかりなインスタレーションの設置の場所とそこでの自由な表現を確保するにあたっての交渉の難しさに加えて、プロジェクトの関心が、街の中で作品を展示することによって「どうすれば『見る人』と作品とをつなぐことができるか」という点に注意を払うようになってきたこともその大きな要因である。例えば96年からは市内各所に設置された作品めぐりのためのミニマップが作成されるようになったが、それに加えて作品自体も、視覚的物体だけでなく、コミュニケーションを表現の中心に据えるようになってくる。

ナウィン・ラワンチャイクン《博多ドライヴ・イン−博多の全タクシー・ドライバーに捧ぐ−》イムズ壁面(市役所側)、1999年
ナウィン・ラワンチャイクン《博多ドライヴ・イン−博多の全タクシー・ドライバーに捧ぐ−》情報茶店、1999年

例えば98年に発表されたナウィン・ラワンチャイクンの《博多ドライヴ・イン−博多の全タクシー・ドライバーに捧ぐ−》は、博多の街に実在するタクシー・ドライバーとの出会いから架空の映画看板やコミックを作成した作品だが、それだけにとどまらず、ラーメン鉢にもなって鑑賞者を「食べていきんしゃい」と誘い込む、その仕掛けがコミュニケーションの回路として作品の中心的要素となっていることに注目すべきである。

社会への提案

さらに次の年の99年、ドイツのアーティストグループ、ヴォッヘンクラウズールを招いて開催された「ヴォッヘンクラウズール:アートによる提案と実践WochenKlausur: Art and Concrete Intervention」に目を向けてみよう。
「街にアートを設置する」プロジェクトであるこれまでのMCPとは違って、作品制作/設置を目的としないこのプロジェクトは、ドイツと日本のアーティストによって構成されたメンバーは、福岡の人々と話し合い、学校制度にまつわる様々な問題について考え、実際に小学校の授業で新聞の記事を書く、商店街の宣伝を制作するなどの実際的かつ創造的なプログラムを実施した。つまりここにおいては、ついに美術作品としての視覚的表象は問題とされず、むしろ受け手である社会との関係を築くことが、アートとして提示された。

ヴォッヘンクラウズール:アートによる提案と実践、1999年

社会に開かれたアート

福岡という都市におけるインスタレーションの実験的な実践から観客とのコミュニケーション、さらに社会活動を自己表現とすることにまで行き着いたMCPの10年に及ぶ活動をこうして振り返ってみると、アーティストの制作活動とは別に、会場となる市街の施設や公共空間の管理者をはじめとして、資材提供者、様々な形で作品の制作に協力するスタッフ、そして鑑賞者と、実に多くの人々との交渉、折衝、交流がプロジェクトを成立させる中心的な要素であったことは、想像に難くない。
だがここで我々が注意しておきたいのは、実際にこのように多くの人が関わり合い、アートが社会に開かれていった結果、MCPの中にアートの要素が少なくなっていったという自己認識である。
MCPがプロジェクトを実現するにあたって協力関係にあったのは、建築や装飾、あるいは行政でいえば都市計画といった、文化や美術に直接関わるよりは、街づくりや広告、観光を活動領域とする関係者であった。従って「アートの実験」のために培われたMCPの交渉力、知識や人脈、実績は、皮肉にも近年殊に2000年以降、商業施設の風変わりなディスプレイ、あるいは若いアーティストの力を借りた「(安価で)オシャレな町おこし」といった認識で捉えられ、広まっていたというのである。

アートセンター/アートスペース

ところが今年、2004年に入って、MCPは新しい動きを見せることとなる。
冒頭にも述べたように、MCPは2004年6月から2005年度末までの1年と10ヶ月の間、福岡市文化芸術振興財団の運営する「文化芸術情報館“アートリエ”」を構成するインフォメーションセンター、カフェなどに併設されたギャラリー・スペース、ギャラリー・アートリエのプロデュースを担うことになった。

ギャラリー・アートリエ
文化芸術情報館“アートリエ”

アートセンターの必要性は、実はMCPが発足当初の目標の一つに掲げていたものであり、またMCPは、「ミュージアム・シティ」が終了した翌年の2001年に、廃校になった小学校の校舎を利用して「冷泉藝館」という3日間だけのアートセンターを開いている。それは、インフォメーションセンターを兼ねたカフェ、アーティストによるワークショップやレクチャーを開催して、自らの理想とするアートセンターをつくってみせたものであった。
文化芸術情報館“アートリエ”が開設された際に、こうしたMCPによる提案が直接的に受け入れられたわけではなく、従って必ずしも理想的な状況といえるわけではないのかもしれない。それでも彼らは、このギャラリー・スペースのプロデュースに大きな可能性を見出している。一つには、「冷泉藝館」で示されたような、これまでのMCPの知識と経験に基づくアート、アーティストに関する様々な情報を提供するという機能が、このスペースで発揮できるということがある。

ギャラリー・アートリエ、インフォメーション

アートのためのスペース

それにもまして注目しておきたいのは、先に述べたような、アートが社会に開かれるあまりにアートとして成立するのが難しくなってきたという状況に対して、彼ら自身が、これまでのような作品の設置や内容に制限があるスペースとは逆に、アートのためだけに限定された、自由なスペースの必要性を感じ始めていたという機運に、このスペースの意義が合致するということである。

candy factory* ギャラリー・アートリエにて、2004年

彼らはこれまでのMCPに関わってきた、あるいはMCPと共に育ってきたアーティスト達とともに、少なくともこのスペースの中では、複雑な交渉を経ずに、街中という制約を受けることなく自由に「実験」ができる。また計画的にスペースを使用することができるということが可能になったということによって、企画の幅も広がる。
たとえば2004年9月に紹介されていたcandy factory* のプロジェクトは、北九州のギャラリーSOAPによって企画されたもので、この時同時に北九州市立美術館の一室でもcandy factory*の作品が発表されていた。こうして隣接した都市間において同時進行で一つの企画を実現することができたことに、福岡を中心として九州地方に広がるアートのネットワークの一端をみることができる。

パブリック

こうしてみてきたMCPの活動をあえて一言で述べるならば、アートを、鑑賞の対象としての物質的に固定された受動的側面からだけでなく、人や社会との関係性の中でこそ生じ、変化しうるフレキシブルで能動的なものとして捉え直す行為であったといえるだろう。このようなプロセスの中ではアートは、多様な人の集合体としての都市において、その多様性を繋ぎ結びつける媒体として不可欠なものとして認識される。

ここで我々は、彼らの残した軌跡は、まさに我々が90年代以降、インスタレーションからプロジェクト/参加型へと、海外の動向と同時並行に/双方向に開かれゆく姿を見せる日本の現代美術を語るのとパラレルな現象であったことに思い当たる。つまりMCPは、福岡という都市において、私たちの時代のアートの生成に立ち会ってきたといっても過言ではない。
さらに2004年の秋、MCPは「天神芸術学校2004」と題して、アーティストやアートマネジャーのための理論や実践の講座を開き、次世代のアートを担う人材を育てることを飽くことなく実践している。

ミュージアム・シティ・プロジェクト事務局にて

時代の表現に寄り添い、人を育てること。こうした行為は、おそらく「パブリック」と呼ぶにふさわしい行為に違いない。MCPのアートを開かれたもの、パブリックなものとしようとする試み、それは、これに参加するすべての人間の息の長い時間と尽きることのない情熱に支えられている。

(徳山 由香 取材:05/09/04)
写真提供:MCP事務局、徳山由香

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