舞台作品というのはいつも謎です。誰もが観客になる可能性をもっているのに、決して全員が観客になることはないからです。誰かがその舞台を見たら、誰かはその舞台を見ていません。客席が限られていますし、また日時も指定されていますから、無理です。100席あって、5回公演なら、見ることができるのは500人です。立ち見も含めてギュウギュウ詰めにしたとして800人ほどしかおそらく「観客」になれないでしょう。たとえ全地球人を収容できる会場を作ったとして、たまたま全地球人が同じ日に時間を空けることができ、全地球人が見たい舞台だったとしても、やっぱり無理でしょう。後ろのほうなんか舞台上の人間は豆粒にすら見えないにちがいありません。舞台に出ているのが人間である以上、大きさには限界がありますし、そうすると、会場の大きさも収容観客数も限定されるというわけです。
むろん、こういったことは舞台作品にかぎったことではなく、たとえば小説にしたって同じです。『アクロバット前夜』1300円(税抜き)は初版4000部ですが、これは4000冊印刷したということです。ということは、どうがんばっても4000人以上の人は買えんということであるが、だが舞台作品とちがうのは、本の場合は貸すことができます。買うのは限度があっても、貸すのはどんどんできます。阿倍野の図書館で6人待ちだったという話も聞いたことがあります。また古本屋に売るという手段だってあるでしょう。そういえばこないだBOOK OFFで650円(税抜き)で売られていたのを見た。それは1冊だったが、4000人が全員古本屋に売ったとしてそれが全部売れたら8000人の人が『アクロバット前夜』を買ったことになります。あのねのねのアウトドア派の人のほうがBOOK OFFで買ってBOOK OFFにまた売ると言っていたのを放送で聞いたが、そうすると数はもっともっと増えるであろう。
さて、何の話をしているのかといいますと、ともかく舞台作品にかぎらず小説なども「観客」ならぬ「読者」を限定しているのは同じ、ということです。誰もが「読者」になる可能性をもっているのに、決して全員が「読者」になることはないからです。誰かがその小説を読んだら、誰かはその小説を読んでいません。けれど、ちがうところもあります。それは時間と場所を特定しないところ、です。いつ読んだって、どこで読んだって大丈夫です。小説自体に変化はありません。時間と場所を特定するのは、そうしないと舞台作品にならないからですが、だとすると、それは何かに似ていませんか。そう、まるで待ち合わせみたいです。何日の何時に、ここで、というふうな待ち合わせの約束みたいに見えてきます。
最初の約束は、渋谷のモヤイ像の前、もうほとんど夏といっていいくらいの日差し、でした。その日(5月29日)、ぼくは待ち合わせをしていました。だれとかというと、珍しいキノコ舞踊団の伊藤千枝さんと、編集者の吉田大助さん、です。珍しいキノコ舞踊団(http://www.strangekinoko.com)の舞台を、ずっとぼくは大好きで、以前からできるかぎり、見てきました。できるかぎり、というのは、さっきいったように舞台作品は特定の場所を必要としますから、関東での活動が中心だったりすると、関西に住んでいる者としては、見に行くためには夜行バスに乗らなくてはなりません。夜行バスでなくてもいいけど、ともかく、なかなか見られないので困っていたところに、伊藤さんが『アクロバット前夜』を読んでくれたりということがあり(吉田さんが自分で買って贈ってくれたそうです)、舞台ではないけど、振付家本人を前にすることができたというわけです。
稽古前の時間を割いてもらったので、たくさんの時間ではなかったけれど、興味深い話がそこでは聞けました。伊藤さんは、振り付けをするとき、以前は「振り」を「付け」る作業を文字どおり、していたが、最近は振り付けを〈現象〉としてとらえるようになった、ある動きと、別の動きのあいだに〈現象〉するものとして、振り付けをとらえるようになったというのです。それはまた、作品を冒頭から作ることと相似形をなしてもいて、作品の着地点を探すのが創作の過程になっています。作品全体をひとつの大きな「振り」(現象)と見なすことによって、個々の「振り」(現象)と作品全体が連携しあっているのです。また「連携」は別のところ、例えばキノコのダンサー全員が関わる大きな公演と、ソロもしくはデュオの小さな公演のあいだにも見られますし、そのほかにも、作品『私たちの家』以前(伊藤さんは「以前」の作品のことを「ああいうカッコイイ作品」と言われていた)と、それ以降の作品のあいだにも見られるでしょう。それらは時間軸に沿って見いだされたものではあるものの、伊藤さんの中ではいつも並列に存在していて、たがいに「連携」している。ほんとはもっと、すてきな言葉で伊藤さんはしゃべってくれたんだが、どうもまとめようとするとうまくいかん。彼女がほんとに使った言葉は「現象」というのと、『私たちの家』以前の自作を「カッコイイ」といっていたことくらいです。しかし、内容は言われたことをできるかぎり再現してあります。
話をしながら、ぼくは紅茶を、吉田さんはオレンジジュースを、伊藤さんはメロンソーダを飲んでいました。伊藤さんには『メロンとメロンパン』という作品があって、これは初めて作ったダンス作品だそうです(このソロ作品の話も楽しかったのですが、これはまた別の機会にしましょう)。
最後に、ひと月に1度、10回にわたって書く機会を得たことをぼくは話し(今、ここに書いている文章のことです)、せっかく10回もあるのだからこの10回分を1つのプロジェクトと見なしたい、そこで珍しいキノコ舞踊団の大阪公演を実現する、というプロジェクトにしたいのだが可能だろうか、と思い切ってお願いしてみました。これは実は伊藤さんに会う何日か前に思いついたことでしたが、突然だし、そもそもぼくはただここに書く場を与えられた物書きにすぎず、そういう舞台作品を企画することなんかしたことなくて、あるのはただ熱意だけなのに、伊藤さんはとても澄んだ声で即座に、「はい」とひとこと、言ってくれたのでした。その身軽さは、舞台上での伊藤さんの身軽さと一瞬、重なったように思えました。
こうして、ひと月に1度、10回にわたってここに書かれるこの文章は、珍しいキノコ舞踊団の初の大阪公演を実現するためのプロジェクトと「連携」することになりました。文章が言葉のままで終わるのではなく、現実に関わることを目指す以上、それが現実である以上、必ずしも実現するかどうかはわかりません。「実現」と「現実」は似ていますが、はなから別のものです。実現を本気で目指すが予定調和はごめんです。むろん、本よりはるかに多く読む可能性をもっている電気的なこの「場所」が、「時間」と「場所」の限定された舞台作品とかかわるのですから、予定調和など生じっこないでしょう。どんな公演になるのか、まだまったく決まっていませんが、伊藤さんは空間を踏まえた上で創作をしていますから、たとえばそれは、大阪という「場所」を踏まえた作品、ということになるかもしれません。東京から夜行バスに乗ってやってくるという経験も、ときには「観客」にとって必要かもしれません。いずれにせよ、このような「冒頭」からこの連載は始まることになります。
【追記その1】
本文で触れた伊藤千枝さんとの面会は、編集者の吉田大助さんの仲介があって実現したものである。吉田さんは、ぼくにとっては編集者だが(講談社発行の雑誌『エクスタス』の元編集者)、同時にライターでもあって、昨年、『SWITCH』誌で「ひとりでに、ひとりで」と題した伊藤さんに関するコラムを書いている。吉田さんと伊藤さんの出会いがなければそもそも、ぼくは伊藤さんと出会えなかっただろう。すくなくとも、この連載はまったくちがうかたちのものになっていたにちがいない。その意味で、すべてはここから始まったといっていい。以下、『SWITCH』から転載する。[10月21日記]
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ひとりでに、ひとりで。 |
伊藤千枝「ウィズユー2」
吉田大助・文 |
稽古場を訪ねると伊藤千枝は確かにひとりきりでいて、モニターの前の椅子に体育座りしていた。かぶりつきで見ているものはもちろん「自分自身」で、ついさっき録った数分間の振付の確認をしている。スタジオの中で彼女が自分自身をうつし出す手段はふたつ。ビデオ/モニターと大きな鏡だ。だから、さっきまでモニターの前にいた彼女は、それからすぐ鏡の前に移動して、ふたりきりの試行錯誤を再開する。
今回、伊藤千枝が挑戦するのはソロダンスだ。18歳の頃に作った習作を除けば、彼女にとってソロダンスは、振付、出演ともに初めての試みになる。そもそも彼女は大学に入ってさっそく珍しいキノコ舞踊団を結成してしまうし、ソロという考え方をしたことはあまりなかったのだと思う。
最初の最初、珍しいキノコ舞踊団は振付家が三人いた。それから、
ひとりはダンサーに転向する(1996)。ふたりになってから3作品を作った後、ふたりの振付家による2部構成の作品『あなたが「バレる」と言ったから』(1999)を公演。デュオ作品『ウィズユー』の振付をはさみ、2000年11月の『フリル(ミニ)』で初めて、本公演をひとりで振付することになる。こうして僕たちは「振付家」伊藤千枝を再発見した。
ところで、今年の5月に伊藤はラボ20の「キュレイター」として、ソロダンスを試みようとするダンサー達の選考とディスカッションの機会を持った。その時、彼女はこんなふうにアドヴァイスしたという。自分自身の魅力を引き出し、開発しよう……。
そして今回のソロダンスだ。実に絶妙なタイミングだと思う。「今まで、自分のからだを大事にしたことがなかったことに気付いた」と告げる伊藤が、「ダンサー」としての彼女自身を再発見する機会が、今回のソロダンスなのだ。それはではどんなダンスか?
8月に小沢剛のトンチキハウスで公演されたキノコのダンスについて伊藤は、私はビー玉をばらまいて、動きやぶつかりや反射を見ているだけだ、と語っていた。つまり、振付家は「ばらまく人」であり、動きの全部を見渡せる特等席で「眺める人」なのだ。そうしてけたけたと「笑う人」。
僕たちは今回のソロ作品『ウィズユー2』で、伊藤が、彼女自身をばらまき、眺め、笑う様子を見ることになるだろう。その「見る」 経験は確実に、僕(たち)を別の期待へと持ち運ぶだろう。もしかしたら、この世界は素晴らしいものになりうるのかも知れない、というふうに。ひとりでに、ひとりで。
【追記 】その2 遅ればせながら、本連載『福永信の「全地球人に告ぐ」』の誕生秘話を書き記しておこう。
とはいえ、事は至ってシンプルかつ明瞭で、とくに込み入った話ではない。
「今度、いっしょに仕事したいのですが……」 と、まあ、こんな具合に、本誌『ログ』制作者らに声をかけられたところから、すべては始まったわけだ。
今、本誌制作者らと初対面した日付、場所を、何も見ずに、正確に述べることができる。
それは2002年5月17日金曜日、京都市は東寺すぐ横のギャラリーそわか内だった。時間は21時30分すぎであった。
なぜ、半年前の自分の誕生日に何があったのかすらはっきりしないこの私が、こんなにも前のことを、時間まで記憶しているのか。声をかけられたのがよほどうれしかったのか。そうではない、とはいえない。たしかに悪い気分ではなかった。だが、記憶している理由は別の事情によるのである。
2002年5月17日金曜日、ギャラリーそわかは、展覧会『ビデオラリー』の最終日だった。
展覧会『ビデオラリー』の説明をすこししておくが、これは、私が初めてキュレーションしたグループ展で、4組のアーティストたち(かなもりゆうこ、カワイオカムラ、関口国雄、フジタマ)が参加し、13日間、画廊の全4室すべてを使用して開催されたものだ。タイトルにすでに現れているように、映像作品を中心にすえた展覧会である。期間内には数回、イベントも行われ、なかなか立派な(自分で言うのもなんだが)よくできた展覧会であった。
初日は、かなもりゆうこが山下残と組んで作ったダンス作品『マラカスをふしまわしたら歌ができた』が上演され、次に関口国雄が画廊内の小さな倉庫で即興的に上映会を敢行し、最後はカワイオカムラとフジタマ(と、木村友紀)によるビデオ上映ライブ『夜のラリー』でシメられた。
そう、2002年5月17日(金)夜9時半すぎとは、『夜のラリー』が終了した直後なのである。夜9時半すぎといえば、観客は皆、覚めやらぬ感動をたがいに共有するために歓談していたのだけれども、このとき私は声をかけられ「今度、いっしょに仕事したいのですが……」と誘われたわけだ。本誌制作者らは、『ビデオラリー』の観客であり、『夜のラリー』のお客さんだったのである。
むろん、詳しい話は後日、日を改めてなされた。これはいつだったか、おぼえてない。だいたい1週間後くらいだったと思う。場所は谷町線は千林大宮駅から歩いて150歩ほどのところにある大阪市立芸術創造館である。 約束の時間(これもよくおぼえていないがお昼すぎくらい)に到着した私を待っていたのは、先日『夜のラリー』で声をかけた面々で、1人は背が高いのに高下駄が似合いそうな男性、1人は顧客からの好感度の高い銀行員風の女性、1人は私立大助教授風の男性、最後の1人は私立探偵風の男性である。ほんの1週間過ぎただけであり、当たり前だが、見た目の変化は服装くらいだ。だが、明らかな変化が見られた。それは、目の前にいるのは今はすでに『夜のラリー』の「お客さん」ではないという、当たり前の事実である。というか、むしろ、今度は私のほうが「お客さん」なのであって、すっかり立場は入れ替わってしまったのである。
「まあ、座ってください」
私立大助教授風の男性が言った。
「ハイ、どうも」
私は椅子に座った。
「お茶をどうぞ」
顧客からの好感度の高い銀行員がお茶を前に置く。
「ああ、こりゃ、どうも」
「先日はごくろうさまでした」
背が高いのに高下駄が似合いそうな男性が言った。
「いや、まったく。おもしろかったです」
私立探偵が深くうなずく。
芸術創造館には展覧会『ビデオラリー』の開催直前に、チラシを挟み込みに行ったことがあり、演劇の上演が行われるところだということは知っていた。
私をこの日、この場所に招待した4名の地球人たちは、それぞれ、芸術創造館と遠からぬ関係にあることが、この後の自己紹介によって明らかになった。ということは、私はここで何かをするのだろうか。「今度、いっしょに仕事したい」ということは、芸術創造館で何か仕事をするということを意味するのだろうか。「芝居でもしろ」と言われたらどうしよう?
私は学生時代、学内の劇団に所属していたことがあり、芝居心はないとはいえない。というか、造形大という名の学び舎に所属しながら反・造形を標榜していた手前、舞台芸術には少なからぬ関心を抱いていた者である。残念なことに、最後まで腹式呼吸をマスターできず、舞台に上がることはついになかったが(上がるべきでないところで上がったことはあった)。
したがってもし、「芸術創造館で独演会をしろ」という依頼であったら、まず腹式呼吸から始めなければならない。これは急がなければ大変だぞと内心思い始めていた。
けれども、私に渡されたA4の紙には〈大阪ウェブマガジン制作の流れとチーム編成プラン〉と書かれてあったのである。
「今度ですね、大阪市で新しくウェブマガジンを創刊することになったんですよ。そこで、福永さんに参加していただけたらって思ってお声をかけたんです」
「ウェブマガジン?」
私の声は裏返っていたと思う。
「いや、声をかけておきながら、わざわざ、来ていただくなんて、申し訳ありませんでしたが」
探偵がすまなそうに言った。「でも、助かりました。何しろ、ウェブマガジンの創刊準備でバタバタとしていまして」と高下駄も頭をかきながら言う。
「ウェブマガジン?」
不自然かもしれないが、私は二度、たずねた。
「ええ。今日はその説明をさせていただきたいんです。このウェブマガジンは、大阪市ゆとりとみどり振興局と、(財)大阪都市協会が事務局を作りまして、発行するものです。そうは言っても堅苦しいものではありませんが」
「ゆとりみどり……」
「今お渡ししたそのペーパーに、5名の方のお名前がありますが、この5名の方に現在、われわれはご執筆を依頼しています。新創刊なので、こうやってじかにお会いして話をすることから始めたいと思いまして」
なるほど、〈大阪ウェブマガジン制作の流れとチーム編成プラン〉には5名ほどの名前、山下里加(美術ライター)、雨森信(インディペンデント・キュレイター)、石淵文榮(能楽ライター)、源甲斐智栄子(「関西・歌舞伎を愛する会」事務局長)などと、現在本誌で活躍中の執筆者名が、それぞれ略歴付きで記されていた。
「執筆ですって?」
いささか不服そうに、私は言った。
「ええ。7月に創刊号をアップしまして、以後毎月、更新していきます。福永さんにもぜひ、書いていただきたいです。ただ、たんに書くというのではなく--」
ホラ来たぞ! と私は思った。
だが、背が高いのに高下駄が似合いそうな男性は、落ち着いた様子でこう続けた。
「たんに書くというのではなく、このウェブマガジンじたいを僕らといっしょに作っていく、そういったかたちでご参加いただければと思うんです。ディレクターということで」
ディレクター?
そういえば、「ディレクター略歴」とその紙には書かれているが、執筆者ではないのか? 役者でもなく?
すると、私立大学の助教授風の男性が言った。 「まあ、この言い方はそんなに大切なものではないんです。たんなる執筆者とちがうんだということがわかっていただければ、それでいいのです。名付けようがない、ということが言いたいだけですから。原稿を書く側、原稿をいただく側、そういう関係に終始するのではなくて、むろんそれも大切ですけれども、それだけではない関係を、なんとか作れたらって思うんです。今、こうして顔を見ながらしゃべっているみたいに」
助教授風の男性の目が光った。
「まあ、もしかしたら、非常にウェブっぽくはないことなのかもしれないけれども、しかし、だからこそ、何らかの可能性が見つけられるんじゃないか。なんだ、役所のホームページか、とは思われたくないから。役所の人間が言うのも変だけど、でも、既存のイメージをなぞるだけだったら、やる意味なんかないでしょう」
探偵が後を続ける。
「『ビデオラリー』展は1年くらい準備されたと、会場に置かれてたパンフレットに書いてありましたね。あの『ビデオラリー』のような、動きのあることはどうですか、もし、このウェブマガジンに参加していただけるなら。毎月取材をするとか、そういう動きがあるというのはどうでしょうか」
さて、ここいらへんまでが、私と本誌との出会いということになる。
この時点ではまだ、珍しいキノコ舞踊団という固有名は出て来ていない。具体的に何をやるかも思い浮かんでない。だが、浮かんではないが、すでに始まっていると、(今から思うと)言えそうだ。というのは、このとき言われた「今、こうして顔を見ながら」とか「動きのあること」という部分が、本連載のコンセプトにそのまま、つながっているからである(送り手と読者が「今、こうして顔を見ながら」出会う場所を作ること、実現可能かどうかわからないまま連載に「動きのあること」を優先させ、連載を見切り発車したところ)。
しかし、とはいえ、それは今になって振り返ってそう見える一種の「偶然」ではあり、私は断わろうとじつは思っていた。創刊の趣旨が問題なのではない。肝心かなめのインターネットができる環境を、持っていなかったからである。つまり、それを言えばこちらから断るまでもなく、先方から断ってくるだろうと思ったのである。そこで、キリのいいところで、4人を見ながら、
「残念だけど、私はパソコン持ってないのです」
と、言った。
「かまいません」
即答であった。
これが本誌執筆を引き受けた最大の理由だったのかもしれない。
ウェブマガジンの制作者たちなのに、なぜ、日常的にウェブマガジンを見ない(見れない)人間に仕事を依頼したのか。しかも即答で。これはいまだに謎である。この謎が魅力の一つとなっていることは疑いようがない。
そして、この会話から1か月半後、『福永信の「全地球人に告ぐ」』が、このページが、始まることになる。
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