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【パブロフ
大桶真インタビュー】
珍しいキノコ舞踊団ホームページ http://www.strangekinoko.com
「テレバイダー」ホームページ http://www.mxtv.co.jp/televider/
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「パブロフ
大桶真近影」 |
—パブロフという名前は、動きを思い起こさせますね。ダンスカンパニーの制作にふさわしい感じがします。
大桶;名前の由来をいうと、イメージはよだれを垂らしているバカ犬なんです(笑)。来た仕事は条件反射で何でもハイハイとやるという。お金に目がくらんでいて、でもたいてい手に入れるのはニセ札なんですけど、全然、うまみを得られない。貧乏くじを引かされる。そういう犬のイメージなんです(笑)。
—それでは、パブロフについて、まず教えてください。メンバーは大桶さんのほかに、どなたがいらっしゃるんですか。
大桶;基本的には、天明晃太郎という男と私です。僕は珍しいキノコ舞踊団の制作をしていますが、天明さんとの2人ではキノコの制作ではなくて、テレビの仕事をしています。
テレビの仕事をする上では、もう1人、相沢直という21歳か22歳か、の4浪生が加わります(笑)。彼は浪人なんですけど、本気で東大の医学部を目指していて、それで、医者になりたいのですが、同時に放送作家にもなりたくて、パブロフとして仕事をしています。彼は、うちに入る前に、フジテレビのバラエティープランナー大賞をとりましてね、こっちも本気なんです。今すごい流されてて、悩んでますね(笑)。テレビの仕事をしているときはこの3人のパブロフで、キノコと、nestという
-これも同級生なんですが -パフォーマンスグループの制作をしているときは、僕のほかに長谷川純子が加わって、彼女と2人でパブロフということになります。
別にどこからどこまでがパブロフ、という厳密なものがあるんじゃなくて、名乗りたければ名乗ればいいし、名乗りたくなければ名乗らなくていい。法人じゃないんでね、だれも責任もってないんですよ。僕は1人ではライターの仕事もしていますし。
—なるほど。複雑ですが、おもしろいですね。たんにキノコの制作チームというのではなくて、パブロフとして、いろいろなジャンルの仕事をされているんですね。
大桶;テレビの仕事に関しては、自分のなかで全然ちがう仕事だという、棲み分けはあります。使っているハードディスクは一緒で、両方の仕事の知識はいっぱい入るんだけど、使うアプリケーションは別、という感じですね。制作をやるとき、テレビの構成をやるとき、そしてライターをやるときとはちがうんですね。ライターの仕事とテレビの仕事は似ているので、兼業している人も多いです。僕は今、ライターの仕事としては宝島のメールマガジンを書いているだけなんですが、それはテレビの仕事との違和感はないですね。
—パブロフのテレビの仕事っていうのは、どういうことをされているんですか。
大桶;「テレバイダー」という番組の構成です。そこで台本書いています。
—エッ。「テレバイダー」っていうと、yes,mama
ok?の金剛地武志さんが司会をしている番組ですか。※
大桶;そう。金剛地さんってすごいおもしろい方なんですよ。
※たびかさなる「運命的な出会い」の驚きについては前回の「全地球人に告ぐ」4ですでに触れた。またその末尾で、大桶氏とのインタビューでもさらなる「運命的な出会い」が見いだされた、と僕は書いた。それがこれである。大桶氏が「テレバイダー」の構成作家でもあったということ。ではなぜこれが「運命的な出会い」なのか?
番組「テレバイダー」は、説明が難しいが、情報番組とコント番組の両立、をねらった極めて画期的な作品だといえよう。すべては台本化されたコントであり、同時に、具体的な情報で成立している(情報=コントの形式がもっとも極端に表現されているのが「テレバイダー」のHPである。URLは本欄の一番上に掲載してある)。
大桶氏を含むパブロフが、この番組の台本を書いていることを、僕はこのときまで知らなかった。しかし、僕はバンドyes,mama
ok?の金剛地武志さんの存在を通じて、この番組「テレバイダー」をすでに知っていた。なぜならば、僕はキノコ同様、イエマの熱心なファンだったからだ。
僕がyes,mama ok?を知ったのは1996年前後(3rdシングル『砂のプリン』が出たころ)で、それはちょうど、珍しいキノコ舞踊団を初めて見たのと時を同じくしている(『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』再演)。この符合に「運命的な出会い」を直感した僕は、伊藤千枝氏にこんど、yes,mama
ok?のCDを聞いてもらおうと思っていたのだが、伊藤氏に会う前の大桶氏とのインタビューにおいて、キノコの制作をしている大桶氏とイエマの金剛地氏との接点が浮上したというわけである。しかも、聞くと、キノコの公演の際に、金剛地氏の曲が使用されたこともあるという。僕が結び付けなくとも、すべてはことの初めから、結び合わさっていたというわけだ。
なお、本インタビューは、前回の伊藤千枝氏へのインタビューと同様、珍しいキノコ舞踊団の全作品解説となっているが、事前にどういうことをインタビューするかは伝えていない。(福永信)
—大桶さん抜きのパブロフっていうのもあるんですか。
大桶;うーん、天明さんの仕事で、俺がからんでなくて、パブロフ・天明っていうのもありますね。天明さんは天明さんで、昔、生ダラとかにもかかわっていたんですよね。日テレの深夜番組にもかかわっていて、彼のほうがよりテレビに近いですね。まあ、けっきょく、基本的にみんなフリーです。
—事務所みたいなものではないんですね。バンドというか、ユニットみたいな感じですね。
大桶;流行りの(笑)。デザイン系のね。そんなかっこうよくないですが、俺らは(笑)。非常に汚い。
年に1回くらい、会社にするかっていう話になるんですけど、まだそんなに収入ないからいいだろうってことと、あと天明さんと僕のどっちが社長やるんだって話になると、おたがい2人とも親が年寄りで末っ子なんですよ。末っ子長男ってやつで、非常に依存するタイプで(笑)、「社長は外から入れないと無理じゃないか」って話になるんでだめですね(笑)。
じつはその天明さんもお芝居をやってて、ここ3年くらいはやってないんですけど、15年くらい続けている劇団があって、そこの主宰者なんです。劇団つまりその、っていうんですが。非常にいいかげんな劇団で、あんまり役者じゃない人が役者をやるっていう、それこそ、白根ゆたんぽさんもヒロ杉山さんも出演する。
いちばん華やかなときで、原宿のラフォーレで1回やりました。ジャンルとしてはコントですね。1本筋のあるコントみたいなものです。僕もたまに出たりしました。すごいあがり症なんで、台詞もなくて、ただ舞台上で坊主にされる役(笑)。
—インパクトのある役ですね。
大桶;ないですね(笑)。すみっこのほうですから。長谷川はそのとき舞台監督をやったりとか、制作やったりとかしていますね。彼女は伊藤千枝がアートコンプレックスでやったとき(『ウィズユー2』)も舞台監督をやっています。
—大桶さんはライターや構成作家を並行してやられていて、自身が作り手であるというのもおそらく、キノコの制作をされるときに反映していると思うんですが、そういうのは制作のスタイルとして独特な気がします。
大桶;いや、けっこうね、兼業している人はいますよ。最近やめちゃいましたけど、時々自動の制作は新川貴詩さん、彼は美術ライターでしょう。
—そうですね。
大桶;僕がほかの制作さんとちがうところは、実務をしない(笑)。
実務というのは例えば、DMを作ったりとか、チラシを撒きに行ったりとか、事務所にずっといなきゃなんないとか、そういったことをすべて放棄していますね。人に押し付けちゃう。ちょっとおごった言い方ですけど、そういうのは僕じゃなくてもいいし、逆に他にやっていくれる人を探して来るのが、僕の仕事じゃないかなって思います。
制作はいろいろな人の協力が不可欠です。どういうふうに協力を得られるのか。お金の関係にしてしまうと「お金がないから来なくていい」って話になるじゃないですか。でも、ハナっからお金の関係を抜きにすると「全員来ていいよ」ってことになりますよね。「全員、おいでおいで」って、「弁当だけ出すから」、と。そうすると、現場がにぎやかになるんですよね。すごくたのしい。お金の関係を抜きにすると、そういう効果があります。
当然、なかには仕事のできない子がいたり、だれよりも働く子がいたりして、みんないっしょってわけではないですけどね。仕事のできる子には、こんどはお金になる仕事を紹介できますが、そうやってどんどん自立していってもらえれば、キノコをきっかけに、自分の好きなカンパニーを見つけていってもらえればって思うんですよね。
といいつつも別に、独立とかしなくてもいいし、ただ、学生のときの経験、若いときの経験で、「そういや舞台ちょっと手伝ってたことあるや」っていうのは、やってないよりやってたほうがいいと思うんですよ。やらなくてもいいことではないな、と、そう思うんです。
—お話を聞いていると、プロデューサーのように思えますね。
大桶;そのへんはあいまいで、僕はあんまり自分ではプロデューサーとは言わないんですよ。言ったほうがわかりやすい場合は言いますけど、プロデューサーってもっと、いろんな面で責任をもたなくちゃならないから。
あとね、僕は語学がいっさいできないんですよ。外人の前に出ると萎縮するんです。こんなにベラベラしゃべるのに、無口になりますから。だから海外の仕事はいっさいできない。ダンスにおいて、海外の交渉の仕事ができないというのは問題があります。だから、えらそうにね、「僕がキノコのプロデューサーっすよ」とはあんまり言わないです。プロデューサーと名乗ることで、自分自身に責任感みたいなのが出てくるのがイヤなんじゃないですかね(笑)。だめな性格なんです(笑)。何の責任も負いたくないというのがポイントなんですよ。人のせいにしたい(笑)。
—けれど、キノコっていうカンパニーがある意味で成熟してくると、そういうのは、難しくなってはこないですか。
大桶;ええ。もっと若いころは25、6歳くらいのころはもうちょっと踏ん張ったこともあるんですけどね。若いころは動員を3000人、あるいは5000人という規模にいかにするか、とか、大きな劇場でやれる喜びとか、そういうものを追い求めてたんです。
でも、僕も30を越えまして、いい意味でのルーティンというか、キノコは壊さなければ壊れないものになったんで、あとはこれをいかに続けていけるかっていうことに今なっています。
きっと10年先でもキノコはやっていると思うし、そのときにどういうキノコがあるのか知りたいから、あんまり気張らなくなりました。そのときに見続けていてくれるお客さんがいればいいから。伊藤も言ってたと思いますけど、等身大でやりたいですね。
こういうふうな考えにシフトしたのは、伊藤にすごく影響されているという感じはあります。ホントはもう少しズルくならなくては、とも思うんです。いろいろやりたいこともあるので、等身大、とだけ言ってられないかもしれません。
それから、ほかのアーティストに「制作をしてください」って言われたりもするんですが、これがいちばん困りますね。僕が制作を仕事だと思ってやっていれば、引き受けていけばいいんでしょうけど、知らないものとかの制作ってできなくて。やっぱりそのカンパニーを愛していないとできないから。だから基本的には全部お断りしているんですけどね。僕がやるのはキノコとnestぐらいですね。ただ、たまにね、これ制作やりたいなあって思うものもあるんですけど、すぐに人にやらしたほうがいいんじゃないかって思う(笑)。自分がやって決していい結果がでるとは思えないですね。
さっき言い忘れたことの付け足しなんですが、世の制作者とちがう点は、アーティストと対等だと思っているかどうか、というところです。僕の場合はキノコもnestも同級生ですから、はなからタメ口なんですが、ほかの劇団の制作の場合はお手伝いからなったりするじゃないですか。そうすると首を切られたなんて話を聞くんですよ。まだ小さな劇団なのに、「お前もう要らないよ」とか、「来なくていい」とか。ほかにも「なんとかさんに言われたのでやらなくちゃならないんです」とか。そこで主従関係があったりする。そういうのはやっててもしかたがないんじゃないか。長谷川は同級生ではないですが、対等だと思っています。首を切るというのは、だれとでも交換可能なポジションだっていうことでしょう。そういう認識をアーティストが持っているのは、それは非常によくない。
でも、こういうやり方しか知らなかったというだけなんですけどね。どこかに修行に行ったわけでもないから。
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1『散歩するみたいに。』(1991年)
大桶;大学3年生になったばかりの5月にやった作品です。彼女たちは2年生の中盤くらいに「自分たちでカンパニーをつくろう」って言ってて、つくろうって言ってたときには、僕はあんまりからんでいないです。「つくったよ」「なんか公演やりたいんだ」って言ってたときに、「じゃあ手伝う」ってかかわったのがきっかけです。
同級生ですからふつうの流れです。
制作ということがどういう仕事をすることかもわからなかったんで、どんな仕事をしたのかおぼえていないんです。チラシを撒きに行った記憶もない。学校が演劇の学校だから「おいでよ」って言うとお客さんはけっこうな数集まるんですよね。たぶん動員は200人くらいだったと思います。
2『will be,will be』(1992年)
大桶;この作品でちょっと制作的なことをやったんです。リクルートがやっているガーディアン・ガーデンというカフェが、今、ゲームセンターになっていますが、渋谷のスペイン坂の上にあって、「そこで劇団とか募集してるコンペがあるよ」って友達に聞いたんです。それで「出してみようよ」って伊藤たちに言って、企画書を書いて、審査を通って、やれるようになった。うにたもみいちさんとか堤広志さんとか、その後お世話になる人たちがそのときから見ていたんです。友達が連れて来てくれたんですね。
で、なぜ制作らしい仕事をしたと言ったかというと、このとき美術をやってくれた人が、白くてきれいな壁に「黒の模造紙を貼りたい」と言うんですね。でも、主催サイドからは「貼るな」って言われてたので僕が交渉したんです。実際にやってみたりして、「ほら、こんなちゃんとはがれます」「絶対にきれいにはがれますから大丈夫です」「僕が責任持ちますから」とか言って、OKが出て、ベタベタ貼って公演終わってはがしたら、壁まで全部、ベリベリってはがれた(笑)。
—すごいですね(笑)。
大桶;まだあります。仕込み日が全然なかったんで、「徹夜でさせてくれ」と頼んだんです。リクルートは企業としては全然やわらかいことをやっているので、理解はあるんですけど、前例もないし、まあふつうイヤじゃないですか。そこで責任者の方にタイムテーブルを作って、当時はシャープのワープロの書院で(笑)、それで持ってって「やらしてくれなくちゃ困ります」ってしつこく言って、最終的にやらしてもらったんです。関係が悪くならずに、むしろ気に入られたようで、「ちょっと来ないか」って言われた。それがキッカケでそのあとガーディアン・ガーデンで働けるようになったんですね(笑)。
このフェスティバルにはアートとか写真とかもあったんで、ムサビとかタマビの学生とかがアルバイトでスタッフとして入っていたんですよ。すごいたのしかったですね。大学で何も学べなかったんで、そこでいろんなもの、美大のあるべき姿を見たような気がします。ものすごく情報がいっぱい入って来て、刺激的で、いまだにガーディアン・ガーデンのネットワークで動いているというところがあります。僕の相方の天明さんともそこで知り合っていますし。
天明さんとキノコのつながりは、あんまりベッタリはしていないですけど、すごいアドバイザーになってくれますね。伊藤とか小山(洋子)も困ったら天明さんに聞いたりしていますしね。
3『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』(1992年)
大桶;4本立てのダンスのショーケースなんで、僕はほとんどかかわっていないですね。何もしてないです。本番を見るくらいでした。
だから、伊藤のインタビューを読むまで(「全地球人に告ぐ」第3回の伊藤千枝インタビュー参照)、あんな苦悩があったなんて知らなかった(笑)。ただ本番見て、うちのがダントツよかったとか思ってました。あとはつまんなくてロビーに出ていましたね(笑)。
4『これを頼りにしないでください。』(1993年)
大桶;うにたさんがパフォーミクスという新しいダンスのフェスティバルを西武のシードホールでやるから「出ないか」って誘ってくれたんです。キノコとあとnestも誘っていただいて、それとH・アール・カオスでやったんです。公演らしい公演はこれが初めてです。800人くらいお客さんも入りました。nestも僕が制作しました。だから3週間くらいシードホールに毎日通ったりして、でも、もう卒業もしていたんで時間はありました。
細かい舞台美術がいっぱいあったんですよ。背丈くらいの観葉植物とか、3人かけくらいのベンチとか、大量の洋服とか、幕とか、リノリウムとか、ものすごい量なんですよ。それが、僕の当時使ってた実家の1500CCのセダンに全部積めた(笑)。なぜか全部入ったんです。だからこんときはレンタカー使ってないです。こんなこといばってもしょうがないけど(笑)。いろんな家から集めてたから、それを返したりとか大変でした。
当時、伊藤、山下(三味子)、小山の主催者が3人残って打ち合わせすることが多かったから、電車がなくなるじゃないですか、そうすると山下が横浜、小山も少し離れた横浜、伊藤が東京の南のほう、それを全部送って、僕は八王子に帰るっていうパターンがあって、「えらいな、俺」って思ってました(笑)。結局、夜の打ち合わせでどこまでねばれるか、そこに立ち会いたいという気持ちはあったんですね。シードホールの舞台はシンプルで感動的ないい舞台でしたね。これを見て、批評家でもほめる人とほめない人とがいたんですが、ほめない人が理解できなかった(笑)。僕は何回も見ましたね。なんでだろう、こんなおもしろいのにって(笑)。
—大桶さんが何か作品に対して言うということはあるんですか。
大桶;僕のはファンの視点ですね。だから強制力はないです。客の視点で、「あそこ長いんじゃない」とか、「もっとパンチきかせてよ」とか、それくらいを言う程度です。
このシードホールのころから、長蛇の列を作ってお客さんが並んでくださっているという現象が、毎回ではないですが、たまにありました。満員になると劇場的にはもう入れられないとか、主催者サイドがだめだというケースがあって、でも、やじゃないですか、見れないで帰るのって。
—うん。
大桶;だから、開演時間とか押してしまって迷惑をかけてしまうんですけど、舞台のツラとかに桟敷席を作るんです。もう本番直前なんで楽屋に行って、伊藤とか小山に「ちょっと舞台狭くなるけどいい?」とか言って(笑)。そしたらイヤがるんですよ、「エエーッ」「そんなの困る」って。「でもそうしないとお客さん入らないからさ。入れようよ」ってそう説明すると納得してもらえる。でも実際に舞台に出てみると「聞いてないよー」ってところまで僕はお客さんを入れていたりもする(笑)。原美術館のときとかも、「ここまで入れるよ」「ここまでいくよ」って、ズルズルっと前のほうにまで客席伸ばしちゃったし。これは裏っかえせば、先にチケット買ってくださっている方には大変申し訳ないことです。
うちはフリースペースでやることが多いですが、いろいろ時間とお金をかけて工夫して客席を作っても、キノコのダンサーたちはちっちゃいし、床でねっころがることも多いから、どうしても見えづらいんですよね。作品によってですけど、見えないっていう、そういう苦情もあります。それはほんと申し訳ないと思います。だからプロセニアムのしっかりした劇場でやれば見えるんでしょうけど、なんかヘンな場所を選んでしまうんですね。
—とはいえ、多くのお客さんに見てもらうための工夫を惜しまないのはすばらしいですね。
大桶;いや、当日券で並んでいるお客さんが札束に見えるわけですよ(笑)。銭に見える(笑)。パブロフの名前の由来がそういうものですから。あっこれ、冗談ですよ。
5『Three pieces of orange.』(1994年)
大桶;これはスタジオ錦糸町という、今はないんですけど錦糸町西武のなかにあった、たぶんシードホールの半分くらいの広さのホールでした。もう、ちょっと天狗ですね(笑)。なんでシードホールでやったのにスタジオ錦糸町でやらなくちゃいけないんだろうって(笑)。金銭的な条件、小屋代タダ、プラスいくら、みたいなのもあんまりよくなかったです。で、まあ、「せまいところではせまいところなりにやろうよ」ってことでやってました。映像を使いましたね。ビデオプロジェクターを使ったのはここが初めてかもしれない。タモリの大笑いしている顔のドアップをスローモーションで映してましたね。
スライドは1(『散歩するみたいに。』)でも、2(『will be,will be』)でも使ってました。でもビデオプロジェクターを使ったのは、たぶん、『Three
pieces of orange.』が初めて。たぶんそれはビデオプロジェクターがそこにあったから(笑)。スタジオ錦糸町は昔は映画もやってたから。まだビデオプロジェクターは高価だったんです。
でね、94年か95年、この時期にNHKのBSの『真夜中の王国』で、「好きなだけ、何でもつくろようよ」っていう話があって、いわゆるふつうの番組形式じゃなくて1本のビデオ作品みたいになるものをつくらせてもらったんですよね。そのときにやってた動きとか踊りって『Three
pieces of orange.』でやってたものが入ってたと思います。これはすごくかわいくてバカバカしい感じでした。
これ、ビデオ、ないですね。僕も見たことないかもしれない。ホールの人もいい人だったし、たのしかったです。
6『〜の価値もない。』(1995年)
大桶;ちょっとまた逆上るんですけど、僕は92年くらいからガーディアン・ガーデンにずっと出入りしているんですが、それと同時にP-Houseに出入りしてたんですよ。nestの制作をやる上でP-Houseの秋田敬明さん、福嶋輝彦さんらがアドバイスしてくれた。その関係でそこの弟子になってて、彼らが何してくれたってわけじゃないんですけど、僕を勇気づけてくれた(笑)。「お前いけるからいけ」、と。それで毎日のようにP-Houseにたまっていました。で、P-House関係のイベントとかもいろいろやってて、『猫耳』っていう映画をやったりしましたね。そういうのをずっといっしょにやってたんです。
この作品をやった恵比寿のイーストギャラリーっていうところを根城にしてたんです。土壁みたいな壁に打ち放しの地下室で、四角いスペースの真ん中だけ1メートルほど低いんですよ。プールみたいに。ロマンチカと遊園地再生事業団とク・ナウカと、あとどこだったかな、どっかがフェスティバルをやったんですけど、まだ劇場としてそんなに認知されていなかったんで、借りた。初めて、7日間10ステ(ージ)というのをやったんです。関係があるから安く借りれる。「じゃあいっぱい借りて長いことやろうよ」、と。
内容はちょっと中世の感じで、王子様とか出て来たりして、評判よかったですね。ラストシーンは、時々自動の女の子なんだけど、当時キノコによく出てた女の子がいて、最後に、カーペンターズの「クロストゥーユー」をアカペラで歌う。すごいオンチなんですよ(笑)。オンチなんだけど、台車に乗せられて出て来て、「クロストゥーユー」をえんえん歌う。そうすると「うわっ、ヘタだな」って思うんだけど、観客は帰りに「クロストゥーユー」が頭のなかからずっと抜けない(笑)。いろいろと思い出のある場所です。動員は1200なンぼいきましたね。
—すごい。
大桶;この記録がなかなか破れなかったんです(笑)。まあ、こういうスペースを使うと必然ですけど、音響さんともすごく話をしないといけないし、美術はその空間を生かしただけではあったけど、舞台監督とは客席をどうするかっていう話をしなくちゃならないとか。
—自分たちで自由に制約なしにやったという感じですか。
大桶;ええ。手打ちの公演ってこうやるんだっていう意気込みがあったんじゃないですか。もちろんP-Houseとかのフォローがすごいいっぱいありますが。
—例えばこの公演で、大桶さんは、伊藤さんや小山さんと話し合いをして、仕事を進めて行くという感じですか。
大桶;あんまりおぼえていないんですけどね。僕、あんまり稽古場に行かないんでね。稽古場で話をした記憶もあんまりないし、どっちかというとスタッフサイドで、舞台監督と話をしたり、そういうことのほうが多かったように思います。僕は僕でP-Houseとかガーディアン・ガーデンとか、酒を飲むような活動のほうがメインだったりする(笑)。
僕の役目は「こういうのあるよ」って言って、例えば誰かのオープニングパーティーとかあれば、「いっしょにおいでよ」とか言うくらいです。
—窓みたいですね。外との関係を持たせている……。
大桶;まあ、そんぐらいなんだと思いますね。ノウハウも何もないですから。リーダーシップをとったりとかってないです。本当は責任の必要なポジションなんでしょうけど。ただ、彼女たちは学生のときからずっと稽古してずっと作品をつくって、遊んでないし、海外にも行けないし、アルバイトとダンスの繰り返しじゃないですか。そうするとどうしても視野が狭くなる。情報がなくなるから、そのぶん僕が遊びに行って(笑)、生意気を紹介したりとか、P-Houseの連中と交流があったりとかね。そういうことはあるわけです。
7『彼女はあまりに疲れていたのでその喫茶店でビートをとることはできなかった。』(1995年)
—このときのは構成作家とかライターの仕事も並行してやられているんですか。
大桶;テレビのほうはこのころは全然まだやっていません。雑誌ばっかですね。でも売れっ子とかではなくて、日之出出版とかあといくつかですから。仕事があると電話かかってきて、取材行って書いて、でもだれでもかけるような文章です。この春はタンクトップがマル、みたいな(笑)。
—キノコの仕事をパブロフとしてやっていたら、演劇関係の文を書いてくれっていう注文は来ないですか。
大桶;来ないですね(笑)。別役実の特集を青山円形フェスティバルでやったときにパンフレットを作ったりとか、ナイロン100°Cのパンフレットを作ったりとかはありますが、基本的にはそんなに来ないですね。
—ライターはライターで、まったく別の世界のことを書き続けていたわけですね。
大桶;そうですね。リンクはされてなくて、僕のなかで分けてしまっているところがある。キノコを紹介するからそのナレーション原稿書いてと言われて、いざ書こうとすると、よそのところだったらいくらでも書けるけど、てめえのところだと書けなかった。あんまウソばっかり書くのもわるいしなあ、とか(笑)。
8『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』再演(1996年)
大桶;この話はテアトルフォンテからいただいたものです。横浜市の担当者から話があって、その人は『Three
pieces of orange.』を見ていたんですよ。で、「キノコおもしろいからぜひやってもらいたいんですけど、こんな場所の劇場なんです」って言われて、行くだけで疲れた(笑)。
でもフォンテっていい劇場じゃないですか。当時大野一雄とかシリーズでやってたと思うんですけど。いい劇場だからやろう。条件面も劇場費とかなかったし、やろうと思えばやれるからやろう。で、正確じゃないですけど、「この作品やろう」って僕が言ったのかもしれない。ちゃんとやってなくて、プロフィールに書いてあったから気になっていたんじゃないですか。
9『電話をかけた。あと、転んだ。』(1996年)
大桶;これは神奈川芸術文化財団に呼ばれたときの作品だったので、ちょっと気合が入り過ぎていたかもしれません。小品集みたいになっちゃってね。僕はすごいおもしろい作品だって思いますけど、やり終わったあとも満足したし、お客さんも喜んでいたし。ただ、なんかそこから先が続かなかったんですよ。たぶんここで、伊藤さんなんかあったんじゃないですかね。『私たちの家』でぶつかる日常性みたいなものをもっと出していこうじゃないかと思っていたのかもしれませんね。
10『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。〜ジュリロミREMIX』(1997年)
大桶;これはね、このときにグローブ座の春のフェスティバルっていうのが始まったんですよ。東京グローブ座が3月の1カ月間を若手に貸し出す、と。審査員がいて、応募したのかな、あ、いや、これは第1回めだったから、応募してなくて、向こうから来たんだ。グローブ座でやれるってんで、「わーい、やるやる」って。でも、条件があって、シェークスピアをからめなくちゃならない(笑)。
—大変ですね。
大桶;H・アール・カオスはもろ「ロミオとジュリエット」をやっていました。うちはどうしようか、シェークスピアとぜんぜん関係ない(笑)。
とにかくうちは劇場機構が大好きで、グローブ座はせりが上がるとか、トビラがついたみたいなのがボーンと下りてくるとか、いろいろ機能がある。けっきょくそれを全部使った(笑)。
あと、『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』という作品は、全体的にものすごく暗かったんです。「これ暗いね」「つまらないね」「笑えないよ」「なんかできないかな」って言ってて、「じゃあ休憩中にコントいれよう」(笑)。それでグループ魂に出てもらったんですね。
このころキノコってナイロン(100°C)さんに1回か2回か出ていたんで、大人の若手とかと仲よくなって、僕はそんなでもないけど、伊藤とか小山とかは、今すごい人気の宮藤官九郎さんとか阿部(サダヲ)さんとかと酒を飲んでた。それでお電話したら「いいですよ。出ますよ」って言ってくれて。舞台の前半が終わって、パッて電気がついたら、せりから、グループ魂がガーッて上がってくる(笑)。
お客さんはまったく笑う準備ができてなくて、けっこうひき笑い、 というか、ひかれてひかれて、グループ魂もすごいやりづらそうだったです(笑)。
—それで、休憩を挟んだあとは、何事もなかったように始まるわけですか。
大桶;ええ。そういう意味ではちょっと格好よかったですね。作品は暗いんですけどね、すごい暗いんですけど(笑)。
それで、『あなたが「バレる」と言ったから』以降、ハッピーモードに変わったんですよね。ダンスはすごくたのしいんだと。だから、もちろんダンサーに対しても、たのしいんだからもっとたのしめって、そういうレッスンをずっとしてて。
『私たちの家』がちょうどはざまになると思いますが、ここくらいまでが、『ジュリロミ』くらいまでが完全な無表情です。どんなことがあっても、笑いもしなければつらい顔もしない。
—そしてラストには悲しさというか。
大桶;せつなさみたいなね。今も、たのしいっていう気持ちが伝わって、ちょっとした静けさで笑ってしまったりというのはあると思うんですけどね。だから、ベタなねらいでギャグとばしたりっていうのはないと思います。
11『私たちの家』(1998年)
大桶;美術は前回の『New Albums』もやってくれている家具職人の久保(英夫)くんが担当しています。彼もP-Houseの人間で、P-House関係の美術とか内装とかやっていましたね。それで、彼に「お前ちょっと演劇の美術とかやってみない?」「おもしろいよ」とか言って、だまして連れた来た(笑)。
僕はすごい大好きな作品ですね。映像的というか、わかりやすいというか、ね。日常性みたいなのをよりクローズアップしたんだと思います。非常にわかりやすいことをしたじゃないですか。部屋のセットを作ったりとか。
—そうですね。『電話をかけた。あと、転んだ。』は、何かの途中のような、流れるよう振りで、映像的にはおぼえていないですね。
逆に『私たちの家』は日常使っている動きを思い出させるようで記憶に残る動きになっています。とはいえ、僕は『電話』みたいなのも好きなんですが。
大桶;ええ、ありだと思うんですけどね。このころは、ただ、ダンサーのほうがついてこれなくて、笑えって言ってもヘンな笑いになったり。あと、タカタカって走って行ってジュースを飲むというしぐさがあったときに、ふるえながらこんなになって、演劇的な勉強はいっさいしてないから、できないんです。かわいらしかったですけどね。若いダンサーもちょっと入り出したんで、このへんから僕はおじさんにシフト(笑)。
—兄貴のような感じで。
大桶;いや、おじさんですね(笑)。エロおじさんです(笑)。「かわいい!」とか言いながら(笑)。まあ稽古場には1回か2回用事があって行く程度で、あまり行かないんですけどね。
どんなことをやるのかっていうのはあらかじめ聞くし、どんな美術にするのか、どんな照明にするのか、打ち合わせには参加するんで、イメージはもっていますけど、実際そこに踊りをいれて、どんな作品になるのかは劇場に入るまで知らない。その1、2度稽古場に行くのも、踊りを見るためじゃないです。嫌いなんですよ。これは最初からそうですね。そういうのがイヤで、制作を始めたというところもあります。本番が好きなんです。
音響とか照明だと、毎回本番についてなくちゃならないじゃないですか。すごい飽きるんじゃないかなと思うんですね(笑)。制作は見たいときに見て、見たくないときには外でタバコを吸っていられる仕事だから。
—本番はご覧になるんですね。
大桶;見ますよ。お手伝いの子たちにも必ず見せるようにしています。立ってとか、最悪照明さんのブースでとかになったりしますけど、それは、必ず。
12『私たちの家typeA;in a museum』(1998年)
—これはツアーですか。
大桶;そうですね。『typeA』も『typeB』も両方ともいただいたお話だったんですけど、『typeA』のほうは高松市美術館っていうけっこうリベラルなっていうか、毛利さんっていう方が新しいものが大好きな人で、「キノコやりましょうよ」って言ってくださったんです。
これはほんと予算のない公演でしたね。下見がまず深夜バスでしょ(笑)。で、本番は基本的には全員飛行機か新幹線かなんかで行きまして、僕と埼玉の久保と長谷川はトラック(笑)。美術を全部持って。僕が最初運転して途中疲れたら久保に代わるってことだったんだけど、神奈川出る前に疲れちゃって(笑)。でも帰りにフェリー乗れたのがよかったな。
—海を渡ったのはこのときが初めてですか。
大桶;そうですね。あ、うんとね、ただね、これはキノコとしてやってるんだと思うんですけど、僕も全然知らなかったんですけど、『will
be,will be』のあたりで、鹿児島公演っていうの1回やっているんですよ。メンバーの1人が鹿児島でお母さんがお教室をやっていて、ここの公演の一部というかたちでやったらしいです。
13『私たちの家typeB;monotone』(1998年)
大桶;1回帰って来て1、2カ月経ってから、『typeB』のほうになるんです。これは神戸のアートビレッジセンターという場所で、ニューウェイブシアターというくくりでやったんです。これもお金がなかったんだ。僕らまたトラックでした(笑)。
14『牛乳が、飲みたい。』(1999年)
大桶;制作的にいうと、『私たちの家』の評判がよかったんで、チケットがよく売れました。ほぼ満員で、といっても、満員でも1000人くらいですが、青山のスパイラルホールですから。そういう意味では調子よかったですね。
—この前後くらいにプチグラの写真集(『珍しいキノコの愉しい休日』)がありますね。
大桶;あれは、(プチグラの)伊藤高さんにいい話をもらえて、ありがたいと思っています。最初、会って飲みに行って、伊藤高さんは「紙面上で『私たちの家』を再現したい」って言うんで、「それは無理ですよ、どっかセット作らないと」とか言ったりしてました。
ただ、フォトグラファーの若木信吾さんとかスタイリストの大森(ようこ)さんとかビッグネームの人との仕事で、撮影も1日ですんだし、おもしろい写真いっぱいあったし、よかったですね。
—大桶さんも同行されていたんですか。
大桶;してました。マネージャーみたいに、みんなの服を持ったりとかしてました。途中で帰ったけど(笑)。
それで、『牛乳が、飲みたい。』は伊藤のほうのインタビューの原稿を読んだら、彼女、初めて1人でやったからすごい大変で、熱を出してどうのこうのって言っていましたけど、そのへんの記憶はまったくないです(笑)。
—でも、記憶に残りそうじゃないですか。伊藤さんが大変だったから、俺が代わりに、とか。
大桶;僕がほんとに、クリエイティブにっていうか、制作の現場にかかわっていないってことなんでしょうね。なんかあったかなあ(笑)。作品的にもそんなにインパクトのある作品でもなかったんです。『私たちの家』は僕らにもわかりやすかったから、なじめたんですけど、『牛乳が、飲みたい。』もバカなこといっぱいやってるんですけど、メルヘンな感じでもあるんですね。全員、白い衣装で、清潔感があるというか、いわゆるダンス作品、まあダンスやっているんですけど。
それに、いよいよ伊藤が1人で演出だっていう思いってなかったんですよ。どっちかっていうと、キノコのよさは3人でっていう、まあ山下は途中でダンサーだけになったけど、そういう感じだったから。
で、なんで小山がそんときやらなかったのか、というのも、僕はよく知らないんですね。それは伊藤と小山のなかの話なんでね。伊藤がひとりでやるって言ったときに「えー、そうなの」みたいな、それに対してちょっと否定的な立場でした。「小山とやったほうがいいんじゃない」みたいには軽くは言ったかもしれません。ただ、それも、「絶対そうだよ」っていうんじゃなくて、「まかせるよ」っていうスタンスですけど。『私たちの家』と『フリル』があったとしたら、『牛乳』はそこから外れているような、一連のものではないような感じですね。
15『あなたが「バレる」と言ったから』※(1999年)
※『holiday bus pass by』(小山洋子振付)
『素敵について』(伊藤千枝振付)の2本立て
大桶;非常に困りましたね。2本立て、というのはお金がかかるんですよ。両方が「これやりたい」「あれやりたい」って言うから、だから美術も2倍かかっているし、衣装も2倍かかっているし。出演者がたいへんだと思いました。両方やらなくちゃならないから。
—舞台美術もまったくちがったし、構成も、小山さんのほうはスタイリッシュで伊藤さんはゆったりとした印象で、まったく対照的で、2本見たなあって感じました。
大桶;おトクでしたよね。この先、伊藤がつくるってことになって、小山が演出補になるって話になるんですけど、小山の作品がとてもおもしろかったじゃないですか。
—かっこよかったです。
大桶;両方ともおもしろかったんですけど、小山のも全然イケてるっていうのがありました。キノコも器用にこんな2つの味が出せるんなら、レーベルみたいなこともできるのかなっていうのも考えたんですけど、いかんせん小山がそこから、作品をつくる気力をなくしてる。太ったりしてね(笑)。
—載せられないです(笑)。
大桶;いいですよ、ここは書いても(笑)。小山って、本人が中途半端でいたいんだと思いますけどね。伊藤とはある意味対照的です。
お互いにそこまでつきつめていっちゃってるから。しゃべんないでもわかる関係になっているから。伊藤はつねに小山にアドバイスを求めているし、小山はみんなとちがうアドバイスをつねにしているし。あの2人の関係性はすごく大切です。
小山はつくることに興味はあるんだと思うんですけど、エネルギーがないんだと思います。でも、「初期のころにやってた、せつなさみたいなのを奴は出してくるなあ」って思うんです。遮幕の前でビデオの生中継といっしょに踊る場面がありますが、あそこなんか、泣ける感じが僕はあったと思いますね。で、そのあと、伊藤のおバカちんな作品が続く(笑)。伊藤は休憩の幕間に、5分くらい場内アナウンスでラジオコントを1人でやってた(笑)。
—そういえばキノコはアナウンスを子供の声でやったり工夫されてますね。
大桶;その子供のときは『電話をかけた』ですね。ほんとに2歳か3歳の子の声です。『私たちの家』のときはイラストを描いてた天明さっちゃん(天明幸子)がビデオで注意事項を言ってた。これはあんまりよく聞こえなかったんですが。『牛乳』のときは、日本語で普通にアナウンスしたあと、犬の鳴き声がえんえん入る(笑)。ふつうは英語に切り替わるところを、ワン、ワワワンって(笑)。
—いいですね。
大桶;『フリル(ミニ)wild』ではおじいさんの声をアナウンスで流したんですが、その人は原美術館のお庭の掃除の人です。キノコは何カ月か原美術館でずっと稽古をしていたから、その人が一番稽古をよく見ていたんです。すごいフランクなおじさんでたくさん話しかけてくれるんですよ。ゲネとかも遅くまで残って全部見てくれたりとか。それで「なんかやらしてえなあ」って(笑)。
—そういう細かいアイデアが、見る前の観客を沸かせて、舞台にもいい影響がありますよね。
大桶;あそこをいじらないのはもったいないですよね。あとちゃんと聞かせないと。みんな聞いてないから、本番中に携帯すぐ鳴っちゃうし。
—2つの機能を持たせているんですね。たのしい気分にさせることと、ちゃんと文字どおりの意味を届かせることと。
大桶;そうです。でも、こないだの『New Albums』で生意気にやってもらったアナウンスのときはお客さんが1人帰りました。「失礼だ」って言って。おじさんが、「あんなのは失礼だろう」って。ですから、こういう遊びみたいなことは、これからやる舞台が受け入れられるかどうか、柔軟体操という意味もあるんでしょうね。
16『ウィズユー0.1』(2000年)
大桶;これは『フリル』の1カ月くらい前だったんですよ。わりと直前で、10月くらい。レパートリーとして、呼ばれたときにヒョイってやれる、なんでもつけられるタイトルつけようよ、ということで『ウィズユー』ってしたんです。
そのときの伊藤の書いた文章で、正確にはおぼえてないですけど、やりたいものをやりたいときに、そのときの気分で作品をつくる、みたいなことが書いてあったんです。ウソでもいいから対外的にはテーマっていうか、作品コンセプトみたいなものを語らなければなんなかったりしますよね。普通は。でも、「いや、これ今の気分なんですよ」みたいなことを言っちゃうと身も蓋もない。でもそうなんだから、しょうがない、と。
17『フリル(ミニ)』(2000年)
大桶;これもね、いろいろおもしろくて、生意気のマネージャーだった阿部ちゃんっていうお姉さんがいて、阿部ちゃんと、白根ゆたんぽさんたちとよく飲んでたんですよ。阿部ちゃんは安斎肇さんのところとかでデザインをしていたデザイナーで、白根さんとかのめんどうをみていた姉貴分だったんです。
それで、焼き鳥屋で飲んでたら、「私、デザイナーやめてさ、生意気のマネージャーになるのよ」って言って。生意気は、僕は当時、会ったことなかったんですけど、生意気の事務所があるデラックスという建物の存在は知ってたから「じゃあデラックスでなんかやろうよ」「やろうやろう」ってなって。
あそこはふだん打ち合わせとかで使っているヘビーな場所なんです。あんまりガッチリ借りるのは難しいです。ただ、あそこにいる人たちはみんなアートが好きだから、ちゃんと理解してもらえれば大丈夫。それで、阿部ちゃんが「じゃあこれ小屋を貸すというよりも、なんか生意気とからめられないかなあ」って提案してくれたんですよ。生意気のほうはネームバリューもあるし、外国人だし、「もうそれ乗る乗る、ぜひお願いします」ってなった。ここで、生意気と伊藤が初めて会うんです。
最初、生意気はたのしそうだからやろっかみたいな、軽い気持ちでのぞんだらしいんですよね。チラシのデザインとかの話をしてて、遊び半分でやってたんですよ。そしたら、彼らが同時進行で進めてた別の仕事があったんですが、途中から「僕たちのやらなければならないのはキノコだ。こっちをやらなければならないんだ」ってものすごい力が入り始めて、それであんなパワーのある作品になったんです。
そこに到達するまでに、たぶん伊藤と生意気はものすごいディスカッションっていうか、ビールを飲みながら、作品以外の話をずっとしているんです。音楽の話とか映画の話とか、おたがいのネタを出しながら、そういうのがずっと積み重なってできあがっているんです。
—最初の出会いからどのくらいの時間が経っているんですか。
大桶;半年くらいだと思います。デラックスという場所は倉庫で100坪くらいかな、11メーター×11メーターくらいの正方形のフリースペースで、KDAという建築家と、生意気と、DJのクワイエットストームと、スピンオフっていうインテリアの会社とかがぐちゃぐちゃに入っているすごく素敵でクリエイティヴな場所。まあgrafみたいなものだと思うんですけどね。
『フリル(ミニ)』に関しては、最初にデラックスでやりたいというのがあった。狭い場所で長い間やりたかったんですね。10日間、13ステです。プロセニアムをやったあとだからでしょうね。『あなたがバレる』が2日間3ステで、でっかい場所だったじゃないですか。だからもうちょっと作品を熟成させたい。
この業界、1本の作品を長いこと、再演も繰り返してまわせるようになるのが、われわれの食っていく道ではあるんですよね。山海塾しかりダムタイプしかり。作品を毎回つくっていくだけだったら、赤字かもしくはトントンか、トントンといっても生活費は出てませんから。だからそういう部分を補うためにも、作品をちゃんと熟成させたくてこうなったんです。
—思惑どおりいきましたか。
大桶;思惑以上です。生意気とからめることができて、想像していた以上のものができたんですから。
でね、作品じたいはね、僕今でもおぼえているのは、ゲネが終わったときに、あれはいろいろと細かい作品じゃないですか、いっぱい曲も使うし、だから小品集みたいに見えちゃうかなと思って、「カタルシスが薄いんじゃないか」「パンチがもっとあったほうがいいんじゃないか」って最初のほうで僕は言ってました。そしたら伊藤と生意気の3人に、「そんことはない」「大丈夫だ」「何言っているんだ」って怒られた(笑)。実際お客さんが入ってちゃんと見ると僕の意見はまちがいで、「こりゃあ、最高におもしろいや」って思いましたね。
18『ウィズユー1』(2001年)
大桶;横浜市のソロデュオのコンペティションでやったやつです。コンペなんで、伊藤たちが出ただけで、まあ、本番を見に行っただけです。予算とかもうちのほうで管理してない。キノコのお金は使ってやってましたけど。
19『ウィズユー2』(2001年)
大桶;これはツアーでまわったやつですね。レニバッソの布施さんがプロデュースでやってたので、僕はほんと、何もしてないです(笑)。ほんとはだから伊藤のマネージャー的な立場になればいいんでしょうけど、まあ、ハハハ(笑)。長谷川がいっしょについてってるからいいやって。
—これは企画もよかったですね。キノコ、レニバッソ、発条ト、のそれぞれのソロの3本立て、という。
大桶;うん、おもしろかったですね。ただ、ダンスオタクっていうか、レニバッソも発条トもキノコも知ってる人、こういうジャンルが好きであるという、ある意味でそこが前提になってるかなとは思いました。キノコがラフォーレでやってキューティー読んでる女の子がうっかり来ちゃうっていう感覚ではないですよね。
20『ウィズユー3』(2002年)
大桶;これもトラックです(笑)。レニバッソとの2本立てですが、スタッフまわりのことはレニバッソ側に全部お願いしました。これは制作は愛知だし、スタッフのケアとか全部布施くんだし、僕はとくに何もやることない(笑)。トラックのドライバーくらいです。久保くんがいなかったから、これは往復僕の運転です。
21『フリル(ミニ)wild』(2002年)
大桶;『フリル(ミニ)』のときに原美術館の人が来てくれて、それで、原美術館ってすごくいい場所じゃないですか、だから「あそこでやれないっすかねえ」とか言ったらすごく気に入ってくれたんで、「じゃあ、そういう話をちょっと進めてみましょう」って言ってくれて。それで会いに行ったりしたら向こうものってくれた。ただ、場所を貸すということはうちはしたくない、と。レンタルスペースではない。主催事業じゃないとやらないっていうのがあったんで、共催になっているんです。
でもね、スタッフの人たち、15、6人いたと思いますけど、みんないい人たちで、ノホホンとしているというか、「やりましょう、やりましょう」っていう感じでした。館内を使ったり、もともと設置されている作品の点在する庭を使ったりしていますから、ほんとはいろいろあったと思うんですけど、内部的なことはしっかりネゴシエイトしてくれているから、われわれとしてはすごくやりやすかったです。
最終日は雷でかっこうよかったです。たぶん僕が雨男なんですよ(笑)。3月の末の週でしょう、前後の週はピーカン照りなんですよ。ただその週だけ非常に雲行きが怪しくて(笑)。公演の中止かどうかの決定は、毎日午後3時にホームページにアップしたんですが、もう毎日毎日できるのかできないのか、ギリギリのところだったです。雨合羽もク・ナウカに、野外劇の多いク・ナウカに貸していただいて、美大生もぞろぞろって来てくれていろいろ手伝ってもらいました。
22『ウィズユー1.1』(2002年)
大桶;トヨタのコンペティションに参加した作品ですね。横浜のやつをちゃんと、ちゃんとというか、もう1回やったんですね。俺、これ見てないんですよ。
キノコって、クラシックバレエとかモダンダンスをおちょくって、おもしろいものにしていると人に言われることもあります。だから大前提として、キノコがやっていることとか、伊藤のパーソナリティーみたいなのがあって成立していると思うので、あれだけポンと出されても、もしかすると下手くそなバレエにしか見えないかもしれない。で、実際そういうふうに海外の審査員たちは受け取ったそうです。なんでこれがここに出てるのか、と。
僕のスタンスって、ダンスが好きな人に向けてものをつくっているという気持ちが全然ないんですよね。ダンスを知らない人とか、演劇しか見たことがない人とか、音楽をやっている人とか、そういう人たちに向けて、「ダンスっておもしろいもんなんだよ」って伝えたいというのがあるんです。だからお客さんがダンスファンだってなるとがぜん興味がなくなっちゃう。
23『New Albums』(2002年)
—これは最新作ですが、僕が今まで見たキノコのなかで、いちばん好きな作品なんです。1部と2部と言うんでしょうか、前半と後半に分かれていますね。前半には人と物が、後半には物と人のシルエットが重ね合わされる。タイトルは「複数の新しい過去の時間」と解釈できますし、まさにそんなヘンな日本語が似合う、たのしい作品だと思うんです。
大桶;僕もすごくよかったと思いますが、観客的には意見の分かれた作品でした。それもわからないではないです。『フリル』のシリーズがサービス精神旺盛で、エンターテインメントもあふれていましたし。大きな意味では延長線上にあるものなんですけど、細かい見方をすると、『フリル(ミニ)』っていうのはいったん完結しているんですね。まあこれからもやりますけど、1回完結していて、『New
Albums』というのは新たなステップなんですよ。だから「New」だったりする。
新しいステップというのがどういうものなのか、伊藤はあんまり教えてくれないんでわからないですけど、ここから新しいものが生まれてくるんだ、ということでしょうね。呼んでくれた世田谷パブリックシアターの人も大絶賛してましたし、僕らもだれ1人、不満ではないです。
—ありがとうございました。最後にパブロフ以前の大桶さんについても教えてください。
大桶;僕は、演劇を全く知らずに演劇学科に入ったんですよね。高校は成績が悪くて留年して中退して、そして、都立の定時制に行ってました。日芸だったらもう1度何かやりなおせるんだろう、どうせ道を外れたんだったら外れまくろうと思って、でも絵は描けないですから、論文で入れる演出コースを受けたら受かったんです。他うけた普通の大学は全部落ちたのに。で、学費があまりにも高いんで、親に真剣な顔で「やめないか」と言われたんだけど(笑)、もう受験勉強とかしたくないから、「いや、行く」って。
演出コースですが、演出する気はさらさらなくて、制作っていう仕事があるってわかってからは、制作のほうがいいと思ってやってましたね。ポロシャツの襟を立てて、エンジニアブーツを履いて、ヴィトンのバッグを持ってというようなチャラチャラした高校生だったわけですよ。そんなところにいたから、アーティストっていうのは全然別世界の存在だった。ただ、映画はね、ヘンテコ映画は好きでした。ホドロフスキーの映画ですとか。三鷹オスカーっていう、もうないですが、3本立ての名画座があって、そこに行って、「ロッキーホラーショウ」とか、その当時カルト映画っていわれるものを見ていましたね。これは退学したくらいのころかな。
都立の定時制に行ってから、その定時制の友達の実家がジーパン屋で……なんかすごい細かい話になってますね(笑)、で、そこのジーパン屋に集まるバンドをやっている人たちがいたんですけど、その人たちにかわいがってもらったんですよ。その人たちからいろいろ教わったというのはあります。福生の文化、米軍の文化っていうのもありますから。クールってタバコをそこで教わったし(笑)。
こういうこというの、恥ずかしいですね。
キノコのことに戻すと、そういえば、変わったところばかりでやっているせいもあるんでしょうけど、劇場じたいがもうなかったりしますね。1番残ってるけど、2番ないでしょ、3番残ってて、4番ない。5番ない。グローブ座もない。当時nestがやってた場所も、田端のディープラッツとか寺田倉庫とか、やる場所やる場所なくなっていくんで、俺はやばいんじゃないか(笑)。キノコもnestも場所選びがすごい大事です。ここでやりたいという意識を強く持ってから作品に入りますから。そこがいちばん最初です。それは大阪でやるというのも同じですね。
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「中華屋「天龍」」。
ラーメン激戦区恵比寿において、ノーマークながら実はもっともうまい店。
大桶真 撮影
オススメはレバニラ炒めと餃子。
店主のおじさんは写真家、飯田かずなのモデルにもなった。 |
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2002年9月1日(日)22時から23時、
および、9月3日(火)13時から13時30分、22時から23時
インタビュー、テープ起こし、構成、福永信
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【追記その1】
—公演の1週間前に伊藤千枝さんたちに大阪に滞在してもらうというプラン、公演のあとにも何か展覧会(?)があるというプランというのを考えてみたんですが(6参照)、どうでしょうか。
大桶;前の部分、レジデンシーのことでいえば、1週間であれば、空間をどう使うかということの話し合いになると思います。それは伊藤ひとりが行ってもしょうがないですね。そこはたぶん共同作業する美術の人間、それが生意気なのか久保なのか、それか現地の人なのかわからないんですけども、
たとえばそれが現地の人となると、 そこで出会って、前に1回2回出会っても同じですけど、そこから話し合いをはじめたら圧倒的に間に合わない。こちら側のスタッフがそっちに行ってやるってなると、もちろんそこに入ってからやることもたくさんありますが、ある程度のパッケージというのはしょうがないですね。とくに踊りに関しては、もうそれまでに全部つくってきちゃうということになると思います。そのプラスアルファ、よりよくするための部分というのを現場で模索するというかたちでしょうかね。ピュアに、レジデンシーしてそこで作品をつくりましたってことになると3カ月とか4カ月とか必要になりますから。
公演のあとの、というのはあんまり例がないじゃないですか。イメージがしづらいんですが、展覧会をもしやるんだったら、会期中もやったらいいじゃないかってなるし、ビデオの上映会だったら、後より前が集客につながるんじゃないかとか、結局、最終的な目的が公演となるとたいていの場合はそれが最後になりますよね、もし最後にやるとしたら、ワークショップとか、トークショーをやるか。
アフタートークは直後にやるから翌日とかにやるのも興ざめですよね。ちょっとその1週間で何をやるのがベストか、やれないことはないと思うけど考えなければならないところですね。近隣が住宅地でないならば、ライブとかできたらいいかもしれませんね。
—大阪での公演について、現時点で考えていることを教えて下さい。
大桶;たぶん今僕らが大阪圏でやれるチャンスってのは、伊丹アイホールかびわ湖ホールか神戸アートビレッジセンターかのどれかですが、大阪で受け入れてくれる劇場ってのはいってみれば大阪の文化の中心ではないと思うんですよね。
そこでgrafさんっていうのは、雑誌見ればどこでも出ているみたいな、大阪のカルチャーの一番とんがっているというか、最先端、先鋭的なところなんで、どうせ勝負するならそこで勝負したいっていうのは強いですね。
【追記】その2
なお、最後にも記したが、インタビューは、10月1日と3日の2日間に分けて行われた。場所は1日が渋谷のデゥリエール、3日が恵比寿のリーブズカフェである。2日間なのに、インタビューは合計3回に分けて行われた。これはおかしいのではないかと思われるかもしれない。途中でおやつでも食べに行ったのか。もちろんちがう。
理由は簡単である。録り直しをしたからである。愚かにも私は、テレコをエンドレス設定にしたまま、録音していたのだ。これではテープの回転は止まらない。気づいたときには、最初の10分が消え、20分が消えていた……。
消えてしまった部分を補うために、大桶さんにもう1回、時間をつくっていただいた、それが3回め、というわけである。
大桶さんは、多忙にもかかわらず、イヤな顔ひとつせず、むしろ気を使ってくれて、終電に間に合うよう、夜遅く終了した3回目の(取り直しの)終了後、車で恵比寿から京王線調布駅まで送ってくれた。
そのため、車中でもお話しができ、非常に充実した時間を私としては過ごせたわけだが、インタビュアーとしては失格である。にもかかわらず、前回の伊藤さんへのインタビュー同様、良いインタビューになっていると思う。それはひとえに、インタビュイーの見事さにすべてを負っているのは言うまでもない。
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…福永信
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