毎年、夏は仕事の兼ね合いから、歌舞伎を観るだけで手一杯になってしまいます。その反動でもないのでしょうが、秋、一息ついてみたりすると、歌舞伎はもちろん、文楽、お能、狂言、舞踊会という古典芸能から、ミュージュカル、小劇団にコンサートに映画など等・・・観たいもので一杯になってしまいます。お金も時間も、そのどっちもをあんまり持ってなくって良かったのかも??知れません。
芝居の裾野
そんな中の一つ、先日、とても久しぶりに宝塚歌劇の「エリザベート」を観ました。宝塚も劇団四季も、その昔、足しげく通っていたころがありまして、特に宝塚は、理屈抜きにハートがメロメロにさせられちゃうトップスターさんが登場したりすると、安いテッペン席で、何度も何度も同じ公演に通い、必死でオペラグラスを覗いてました。休憩時間はお昼ご飯も我慢し、武庫川と当時の劇場川向こうにあった旅館街の風景をのどかに眺め、夢の舞台を思い起こしながら、ソフトクリームを大事に舐めるという、まだまだ何とか可愛いころ?でした。
古典芸能をする小屋と比べ、宝塚大劇場はとても広いので、今は、出来ればS席で観たいなーとは思うのですが、いざ行きたいと思う公演は、S席どころか、まず希望日のチケットを取ること自体が大変で、気がつけばついつい足が遠のいてしまっていたのですが、昨年は、劇団四季も久々に観劇し、宝塚も劇団四季も、そのどちらもが、私がよく観に行っていたころと比べ、舞台も観客も、かなりのグレードアップ・・・それをとっても感じました。
今回、久々だった私の座席は1階の最後列。その後ろには、思いっきり立見のお客さん達がいて、だけど、皆さん、静かでマナーが良くて、お芝居を邪魔しない流れにあった拍手なども感心しましたが、とにかく、劇場一杯の観客全員が舞台に夢中でめり込んでいるって感じなのです。もちろん、もちろん、私もはまり込んで観ました。
歌舞伎はよく、上演中にも拘らず説明したがるお客さんがいます。今まで数え切れないくらい遭遇してしまいました。「ほら、あれ○○さん、隣は○○さん、○○さんのお兄さんよお」とか何とか・・・少々の説明なら我慢もしよう、ところが、そういう説明をしてる人に限って、これは必ずと言っていいほど、「え、違うやん」という箇所が何点かある・・・気にしないでおこう、でも気になっちゃうみたいな・・・その人がやっと黙る、ホッとする、するとビニール袋やバックを探る音が、がさごそ、がさごそ・・・これも少々は我慢しよう、しかし、これがまた一番イイ科白の所だったりする・・・と、こんな具合で、まあ、そういう場面だからこそ、余計に気になって仕方ないのかも知れません。
そして、これは以前からのことですが、宝塚も劇団四季も、私がよく観る古典芸能と比べると、若い観客がとてもとても多くて、とにかく、その若いお客さん達が夢中で舞台を観ているのです。きっとその中には、観る側から、「この舞台に立つ側になりたい」と、憧れ、夢を目指す人達もいるのだろうと思います。舞台に出ている端々の人達にいたるまで、年々確実に歌もダンスも風姿も、全体に実力が充実してグレードアップしていると感じるのは、次代のスターを目指す若い人達が大勢いる、次代の観客も大勢いる、そういう裾野の広さなのだと思います。
そう言えば、この前、守口のムーブ21の講演会で、市川右近さんが「ブロードウエイで、ミュージュカルを観ていた時にふと思ったんですよね。もし、ここで一人のダンサーが倒れたとしたら、その代役を狙える人が何百人いるのだろうかって・・・」と、おっしゃっていたのですが、本当にその通り、どんなスポーツでも芸能でも、広い裾野があればこそ、益々充実していくものだろうと思います。
一斉に広く発信されるテレビなどのメディアとは違って、舞台は全公演満席でロングラン上演したとしても、まず受け手の絶対数が違います。それでも、他の商業演劇なら、物凄く才能があって頑張って運も良ければ、もしかして、もしかしたら主役をはれるようなことになれるかも知れないけど・・そういう点で、システムとして、歌舞伎が抱える現状、門閥制度というのは、外から入門者を迎え、演じ手の裾野を広げようとするには、大変難しい制度であると思います。でも、その制度があったがゆえに守ってこられたのも確かですし・・・。
ですが、いくら良い主役がいたとしても、よい脇で固められていない芝居は、薄くて面白くありません。裾野が広く競争が激しければ、自然に観客は充実した舞台を堪能でき、また観客を増やし、その舞台に立ちたいと思う人も増える・・・歌舞伎がそんなふうに繰り返され、次の世紀も脈々と引き継がれて欲しいと願います。
最近、歌舞伎では、割合派手なもの、ケレン味の強いものが、よく上演され、好まれているようです。役者さんのコメントで、「本当はしたい芝居があっても、地味なものは今はウケないから出来ないんです」と、残念がってらっしゃっるのを読んだりすると、地味系の丸本物をじっくりと楽しむ方が、どちらかといえば好きな私としては、とても寂しい気がします。ですが、セーの法則、供給していくことで需要が生まれるとも思うのですが、これが時代にあった歌舞伎の変遷というのなら、仕方ないのかも知れません。過去、今より層が厚い俳優陣をもっても、関西での歌舞伎興行が、危機的に衰退したことを思えば、これが事前の策の一つなのかも知れません。
ただ、大好きな歌舞伎が、この先、私自身にとって、「生の舞台を観に行くより、昔の舞台をビデオで観ていた方が、主役も脇の役者さんも、何もかもが充実してていい」・・・みたいな、そういう楽しみ方をしてしまう物にはならないで欲しいなと、この頃、よく思ってしまうのです。
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