log osaka web magazine index
「映像を介したコミュニケーション」の歴史を振り返る際に、一般的に語られるのが商業映画の歴史である。しかしその影に隠れながらも連綿と続いたもう1つの映像文化の系譜が存在した。その例が錦影絵にはじまり、幻燈機、おもちゃ映画フィルム、9,5ミリフィルムなどの今となっては貴重な映像メディアや、それらを囲む配給制度(生産)、鑑賞制度(消費)の歴史である。
インタビュー前半は、それらの歴史に精通する松本夏樹氏に、ご自身の貴重な所蔵品を実際に解説していただきながら「もう1つの映像コミュニケーションの系譜」をさかのぼる。
そしてインタビュー後半は、夏樹氏が主宰する『カイロプテッィク商會』の活動を基に映像メディアを収集・保存し、その情報を次世代に継承することの意義や、その系譜を現代に受け継ぐ映像コミュニケーションに目を向け、その可能性を探る。

インタビューア/構成:松本篤
篤:まずは去年7月の日本最古のアニメーションフィルム発見、おめでとうございます。
夏:おかげさまでありがとうございます。
篤:アニメーション発見に至るまでの経緯は、インタビュー後半に改めてじっくりとお聞きする時間をいただきたいと思います。
夏:あとのお楽しみですね。
篤:さて、remoで映像・写真史の研究者の方を交えて映像文化史の系譜図作り、マッピングをしたことがありました。その図を見ながら考えたことは、「今日私たちが享受している映像文化はどこからやってきて、どこに向かっていくのか?」ということ。もっと個人的な関心で言えば、プライベート(私)とパブリック(公)という概念がどのように制度化したのかを映像メディアを通じて検証すること。また、「家族」というミクロな単位によって生産・消費の環が完結した8mmフィルムというプライベートメディアとは一体何だったのか?そんなことをあれこれ考えていると、夏樹さんが収集・公開活動されている錦影絵や幻燈機やおもちゃフィルムなどのメディアがとても示唆に富んでいるし、豊穣に見えてきたんですね。



日本最古のアニメーションフィルム→
アニメーションループ(タスキ)フィルム タイトル「活動写眞」、明治末。日本最古のアニメはまさに「自己紹介」。
所蔵:松本夏樹  撮影:大阪府立現代美術センター
篤:近代以降、つまり明治時代から約1世紀を経て現在に至るまでに映像文化は急速に活性化しますが、それが可能だったのは今日の映像文化の発展を受け止めるだけの基礎土壌が近代以前に既にあったからではないのでしょうか。近代以前の日本にはどのような映像文化がどのような形態で存在していたのですか?
夏:江戸時代18世紀の半ば頃に長崎からオランダ影絵とかオランダ細工と呼ばれる幻燈が見せ物として入ってきます。オランダ影絵とは、色とりどりに着色されたイラストがガラス板に描かれていて、なかには施されている仕掛けを触るとその画が動くものもあったでしょうが、そのガラス板に光を透過させ映写しその光の像を楽しむ、というものです。それがまず関西を通り関東に伝わります。そして19世紀の江戸で、オランダ影絵に伝統芸能の話芸が組み合わさってできた「動く幻燈劇=写し絵」が起こります。そして江戸八百八町の郊外にまで広がっていき、仏教説話に由来する説教節や、話芸と結びついた写し絵は地方芸能としても成立していくことになります。
施されている仕掛けを触るとその画が動くもの→
ケースに収められている幾枚もの「種板」。これにろうそくなどの光源を透過させて浮き出る絵を楽しんだ。
所蔵:松本夏樹  撮影:平田泰規
宇都宮美術館『日本アニメの飛翔期を探る』展(2000)より
一方、上方の京都や大坂に伝わった写し絵は「錦影絵」と呼ばれるようになります。明治初期には富士川都正という芸人が登場し、上方では多くの常打ち小屋(平野町の御霊神社境内、天王寺の清水谷の岡の座、天王寺の生国魂神社境内の松竹座、谷町5丁目の松の席、千日の奥田座など)ができるほど非常に人気のある芸能として認識されるようになったようです。
地方芸能として認識されるプロセスとして、写し絵の地方巡業という流通形態と農閑期との関係があります。農閑期に入ると地方の地主・庄屋は小作人を屋敷に招いてねぎらいます。そして大きな広間を明けっ放して「今日は、遠路はるばる江戸から『写し絵』なるものを呼んでいますので楽しんでいってください」というわけです。こうして演芸として映像に親しむという素地ができあがっていきます。
夏:そして明治時代に入ると1878年(明治11)に文部省の官僚が、ヨーロッパあるいはアメリカから改めて「西洋幻燈」を持ち込むわけです。別名が「教育幻燈」。つまりビジュアル教育、視聴覚教育です。映像を通じて国民を啓蒙・啓発しようとしたわけです。衛生、修身、愛国など、日本国民を創るための思想を幻燈というメディアを使って普及しようとしたんです。そして文部省から請け負った幻燈業者が教育幻燈会と銘打って幻燈機とガラススライドのコンテンツを持って全国を巡業した。
幻燈機とガラススライド →
所蔵:松本夏樹 撮影:松本篤
篤:日本国民を創るコンテンツとしては具体的にどんなものがあったんですか?
夏:ニュース、特に1894年(明治27)〜1895年(明治28)の日清戦争です。近代日本にとってはじめての戦争ですし相手は大国、清。日本国民が一致団結しないといけない国家事業です。しかし、明治になるまで国家という発想はないし、戦うのは侍だった。
日清戦争→
イラストに添えて「有栖川大将宮殿下」(当時の陸軍大将)という文字が記されている。
所蔵:松本夏樹  撮影:松本篤
篤:それが明治になって徴兵制になる。
夏:国民は兵隊(臨時の国家公務員)として参加せざるを得ない。そこで問題になるのが言葉。命令伝達のない軍隊なんてないですよね。しかし明治になるまで日本語、国語というものがありませんでした。お国言葉の薩摩弁と津軽弁でコミュニケーションできるわけない。そこで軍隊で「国語」を覚えた人が郷土に帰省してこれを広めたり、学校で国語教育が盛んに行われたのです。つまり日清戦争が日本語を創り、近代国家日本を創ったんです。
篤:その国策教育に幻燈などのメディアも貢献した。
夏:遠い戦地の戦況を知りたい、しかし地方には戦争の情報が少なかった。そこで幻燈師が「戦況、いかに」と来るんですね。実は日清戦争に記録写真はなくて新聞でも錦絵師が絵を描いて戦況を伝えていたのです。全国津々浦々、近代日本初の対外国家事業である日清戦争の戦況をイメージとして伝えるために幻燈の地方巡業が貢献しました。
夏:一方で、民間の中からパブリック(公)ではないコンテンツ(ポンチ絵や風刺や艶ものなど)を作って幻燈をやりだす業者が現れます。そこへ江戸期以来の伝統芸能である写し絵・錦影絵も参入し、さらには明治30(1897)〜40(1907)年代にかけて西洋の幻燈機を使って写し絵・錦影絵をやる者や写し絵の器具(風呂)を使って幻燈をやる者が登場します。また安価な家庭用小型幻燈とそのガラススライド(種板) が流行します。そして最後に映画が割り込んでくるわけです。
ガラススライド(種板)→
日露戦争<1904(明治37)〜1905(明治38)>についての種板一式。
所蔵・撮影:松本夏樹
篤:映像文化の混沌ですね。
夏:そうです。4つ巴状態です!それは日本の従来の映像史で全く取り上げられていないことで、当時はいろんな映像文化がもつれからまってものすごく流行したんです。宗教、思想、教育、娯楽、アダルト、ニュースといったコンテンツ、教育者、説教師、落語家、役者、活動弁士などの職種、さらには家庭内、屋外上映、常打ち小屋、地方巡業などありとあらゆる方法や形態が登場し、映像文化の生産者と消費者の裾野が爆発的に拡大した時代だったんです。だから映像文化の系譜をたどる時、発祥時期や使用器具だけで単純にジャンル分けできない事情があるんです。
篤:まさしく組んず解れつ状態だったんだ!
夏:だから映画が入ってきて急に映像文化が発達したわけでなく、それ以前から脈々と映像文化のプロセスがあったんです。
篤:歴史が培った生活文化は、ちゃんと地続きになっているんですね。
夏:日本で初めて映画が一般公開されたのが1897年(明治30)の2月の大阪で、実業家稲畑勝太郎という人物がコンスタン・ジレルという映写技師を携えてリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフを紹介したのです。ただし、日本で初めての映画上映ですから当然映画館なんてものもなく、難波にあった南地演舞場が臨時の会場になりました。
篤:演舞場というのは、舞を見せたりするような古典芸能を観せるところですよね。
夏:そうです。それとほぼ同時に別のルートから横浜に上陸したのがリュミエールの別バージョンと、1人でしか観ることができなかったキネトスコープを改良したエジソンのバイタスコープという映画です。もうこれで映画上映として広く一般が鑑賞できる形は出揃いました。ただし、その当時はまだまだ映画館という設備制度は整っていませんでしたから、演舞場のような施設や寺社の境内を使っての全国巡業という形で広がっていくのです。
篤:その頃の映画1本の上映時間はどのくらいだったんですか?
夏:1分以下です。そして繰り返し短いフィルムを上映したので、すぐにフィルムが傷みました。当時の著作権に対する意識は希薄でしたから、現地で1コマ1コマを切って売るようになったんです。最初は1コマずつ切り売りしていたのが、そのうち長めに1尺つまり16コマを切って売るようになった。
篤:16コマ=1秒というわけか。
夏:ですから映画が海外から輸入された明治30年代は、大都市の少数の映画館、全国巡業とその周辺の切り売りフィルム、そして一部の裕福層が映写機と短いフィルムを購入して自宅でたしなむ、という形態でした。
篤:その当時の映写機一台の値段はどのくらいだったんですか?
夏:それはもう目が飛び出るくらい高価です。およそ一般家屋が何軒も買えるくらいです。ですから、全く一般的なものではありませんでした。
夏:大正期(1912〜1925)になると外国から小型の高級おもちゃとしての子供向け家庭用35mmフィルム映写機が輸入されます。もちろん映写機は国産でも作られるようになりましたが、ここにも日本特有の事情があります。映写機製造の担い手は江戸時代から日本の伝統芸能だった幻燈産業です。彼らが作った映写機は従来通り幻燈もできるように幻燈機に手廻し35mmフィルム映写機を取り付けた兼用機だったんです。
手廻し35mmフィルム映写機を取り付けた兼用機→
所蔵:松本夏樹  撮影:大阪府立現代美術センター
大阪府立現代美術センター『gallerism2005』(2005)より
篤:既得権を守りながら、新規参入を目指した。
夏:大正中期頃になると、映画産業がやっと本格的に制度化していきます。大阪・東京に映画館が集中して作られたのもこの頃です。先ほども言いましたが、日本では著作権の意識が希薄でしたから封切りされて何回も上映して傷んだフィルムを映画館でも切り売りして払い下げしていたんです。その端切れフィルムを家庭用35mm映写機にかけるようになったんです。すなわち、家庭用35mmフィルムのコンテンツが充実し、光源としての電力供給の拡充もあって、そこに子供向け家庭用映画産業=おもちゃフィルム産業が成立していくんです。
篤:映画産業が活動弁士や映画館という形態に制度化されていくのと共時的に、家庭というプライベートな空間に映像が流通していったということか。家族中が集まって部屋を暗くして、ふすまや障子に上映して楽しんだのが想像できます。
夏:もちろん大人が子供に観せるということもありましたが、おもちゃフィルムはおもちゃです。だから子供による子供のための上映会もよく行われていました。有名な活動弁士の真似をやって遊んでいました。
篤:子供が手廻し映写機を使いこなしていたんですね。とても楽しそう!
夏:さらにおもちゃフィルム産業は、映画館で上映するフィルムを秘密裏に借用してまるまるコピーします。子供が観る家庭用ですから、単にコピーするのではなくダイジェスト版として面白い箇所のみをつなげて編集し、それを大量にプリントした。
篤:おもちゃフィルム販売がビジネスとして成立した?
夏:フィルムをコピーする時に、着色したんです。その理由は色目がある方が子供が喜ぶということと、その当時の技術では一旦着色したフィルムはさらにコピーすることができなかったという2つの側面があります。つまり同業者がコピーできなくなった。
篤:さんざんコピーしたくせに、編集したフィルムはコピーさせないとは狡猾だな。
夏:家庭用おもちゃ映画産業の担い手は主に幻燈産業でもありましたから、缶に入れたおもちゃフィルムと子供向け幻燈+35mmフィルム映写の兼用機を抱き合わせて販売したんです。
缶に入れたおもちゃフィルムと子供向け幻燈+35mmフィルム映写の兼用機→
所蔵・撮影:松本夏樹
篤:ソフトとハードのセット販売ですか。
夏:そのおかげでものすごく普及し、ビジネスとして成り立ったんですね。
篤:「映画」と「おもちゃフィルム」、同じ35mmフィルムなのにまったく違う文脈を歩み始めたんですね。特におもちゃフィルムが産業として成立する際、日本人の著作権に対する意識が大きく作用していた、というのがとても気になります。
篤:現在、”ジャパニメーション”として隆盛を極める日本のアニメーション。日本の映像文化の中でどのような拡がりをみせたのですか?
夏:日本のアニメ−ションフィルムの歴史は非常に特殊で難しい問題なんです。というのもアニメーション史というものが、殆どと言ってよいほどこれまで研究が進まなかった。先ほども言ったようにその理由の1つは近代以前の写し絵や錦影絵、明治の幻灯という幻灯産業と、映画以降の映像文化が全く遮断されて考えられている、という点です。だからそもそも幻燈産業の生産方法や鑑賞制度や流通の中に、アニメーションフィルムというジャンルが後になって組み込まれていった過程を見落としてしまう。幸運にも私が日本最古のアニメーションフィルムを発見できたのは、幻燈の文化を知っていたからでしょう。
篤:幻燈という文化を理解していないと、アニメーションの歴史も理解できない。
夏:幻燈と35mmフィルム映写兼用機用に、撮影でなく印刷されたアニメーションフィルムが幻燈業者によって生産されたんですね。しかし生産コストが高くつく割には短い時間しか上映できなかったので、フィルムの頭とお尻をくっつけてループ状にした「タスキ」と呼ばれる形でエンドレス上映していました。
篤:タスキ、ですか。
夏: 1897年(明治30)に日本ではじめて大阪・京都で上映された映画はわずか数十秒だったのでタスキにして上映したのです。ナポレオンが出て来て挨拶して終わり、という内容だったらしいのですが日本で最初の活動弁士のしゃべった言葉として記録されています。「これはナポレオンである。ナポレオンはナポレオンである!」
篤:説明になっていない!
夏:エンドレスだからナポレオンが繰り返し出てきます。「これはナポレオンである。またまたナポレオンはナポレオンである!」と言った、、、というか言うしかなかった。
篤:言うしかなかった、、、。
夏:しかしその後、日本の印刷アニメーションフィルムは一瞬のうちに消滅しました。
篤:なぜですか?
夏:地方巡業を始めて、そのうちフィルムを現地で切り売りするようになって高価で新しいフィルムが業者に入りにくくなり、フィルムを上映するだけのために高額の映写機を購入しないといけないがアニメーションフィルムは極端に上映時間が短い、というデメリットのために実写フィルムが主になるんです。
篤:切り売り販売という流通システムが関係していたんですね。
夏:あと2つ、日本におけるアニメーションフィルム史の特殊性を挙げると、1つ目は著作権という問題です。
篤:ここでも著作権が絡むのかぁ。
夏:ヨーロッパの場合、著作権が自明だったので実写フィルムは著作権上、とてつもなく高かった。それに比べて幻燈ガラススライドと同じく石版印刷したアニメーションは安かった。だからヨーロッパの家庭に入っていった最初の映像はアニメーションです。幻燈機メーカーは幻燈機に映写機を取り付けて、ガラススライドと共に子供用のループ(タスキ)アニメーションフィルムをつけて売ったんです。
一方日本の場合、著作権が曖昧だったので実写フィルムもかまわず売ることが可能だった。故に別に印刷しなければならないアニメーションフィルムの必要性が全くなくなった。その後もヨーロッパでは1920年代前半まで印刷アニメーションフィルムが生産されているようですが、日本は瞬く間に消滅しました。

篤:日本とヨーロッパのアニメーションフィルムの歩んだ歴史がこうも対照的だとは驚きですね。置かれている環境や時代背景によってメディアの歴史も全く違うものになってしまうのですね。
夏:まさしくそうです。それは歴史上のすべての事柄に共通していて、高邁な理想だけではどうにもならなくて様々なやむにやまれぬ社会環境の事情が歴史をつくるんです。
そして日本におけるアニメーションフィルム史の特殊性の2つ目は、「幻燈からの流れのアニメーション」という今日では忘れられている歴史とは別に、劇場公開アニメ映画史がある点です。その源流は大正時代から盛んに公開されていく外国セルアニメーション商業映画の影響を受け、1917年(大正6)に下川凹天や北山清太郎たちが作った映画館上映用の切り絵アニメーションに求めることができます。そして戦前のアニメーターは、おもちゃ映画業者の発注で1〜3分程の、アニメ史には登場しない無数の作品を作って生活していました。ただし高価なセルフィルム節約のため字幕などは2〜3コマしかなく、子供はそれを幻燈のように止めて映写したのです。

篤:ジャンルや時代の全く異なった遺伝子たちが、日本のアニメーション文化を多角的に形作ったんですね。
夏:35mmフィルム映画つまり劇場公開用コンテンツを作っていたフランスの映画会社パテー社は、そのコンテンツの二次利用を模索していました。そして家庭でも映画が楽しめるような家庭用小型映写機を作って、大量のコンテンツを販売しようとした。
篤:今でこそ主流になっているコンテンツ映画産業のさきがけですね。
夏:それまでどこの映画会社も考えなかった発想です。1922年(大正11)に家庭用9.5mmフィルム映写機パテーベビーが世界規模で発売され、もちろん日本でも1923年(大正12)に発売されました。創意工夫を凝らした非常に独創性の高い映写機が評判を呼び、パテーベビーは大ヒットしたんです。
9.5mmフィルム映写機パテーベビー→
クランクを廻す夏樹氏。
所蔵:松本夏樹  撮影:仲川あい
篤:なんとも愛らしいネーミング。そのパテーベビーがきっかけで家庭の中にも映画産業のマーケットができあがっていくんですね。
夏:さらに「私も映画を撮ってみたい」という要望が出てくるんです。パテー社はそれに応えて撮影用手廻しカメラを作りました。最初は三脚に固定して1秒間に2回転クランクを廻すことで撮影する方法でした。さらに改良は重ねられ、スイッチを押すと自動撮影ができる技術が開発され、カメラを一点に据えたままでも手持ちでも上下左右にカメラを移動させながら撮影(パン)できる表現が可能になりました。固定画面からの解放です。その後もフィルムの交換が簡単なマガジン式にするなど、パテーベビーの改良は続きどんどんシェアを拡げていったのです。
撮影(パン)できる表現が可能になりました→
夏樹氏が手にしている部分が後に開発された自動モーター装置。映写機部分(手前)との装着・脱着が簡単にできるように工夫されている。
所蔵:松本夏樹  撮影:松本篤
篤:日本の映像文化の混沌期を経て誕生したプライベートフィルムの申し子、それがパテーベビー!
夏:しかし日本特有のアクシデントが発生しました。マニュアル通りにネガで撮影し、現像するのですが、ことごとく現像に失敗していたんです。
篤:どこかに原因があった?
夏:おそらくですが、船便が赤道を超える時に現像液が熱で変質したのではないでしょうか。「それだったら、最初からポジフィルムで撮ってしまえ!」そのうち日本ではポジ撮影・ポジ現像・ポジ編集、つまりプリントのできない唯一のオリジナル映画という方法がメインストリームになっていきました。そして愛好家はこぞって撮影方法や自宅での現像ノウハウ(自家現像)や現像温度の知識、編集の方法を探求しました。それにつれ、専門研究者が大正末期から昭和初期にかけて勃興し、プライベートフィルムが大流行したんです。
篤:ビジネス的にも成り立った、ということですか?
夏:はい、そうです。プライベートフィルムという文化を支えたのは、ほんの一握りの裕福な層に限られていましたが、その当時は今よりも経済格差が激しく、想像出来ないくらい富裕なんです。それこそ家が一軒買えるくらいのカメラや映写機などを一揃えできてしまうんですね。その当時の価格表を見てみても、一家3人が1ヶ月生活できる金額で、ちょっとした備品を買ってしまうんですね。とてつもない富裕層。だからお医者さんや弁護士などが多かったですね。そういう一部の人のためにも拘わらずビジネスとしては成立したんです。
篤:本当に想像がつきません。
夏:プライベートフィルムの隆盛に、アバンギャルド=前衛芸術が大きく関係します。北尾鐐之助という人物が「小型映画の研究」という著書の中で、ジェルメーヌ・デュラック(Germaine Dulac)の『貝殻と僧侶』とかマン・レイ(Man Ray)の『ひとで』などの前衛映画についての批評をしています。
つまり、プライベートフィルムのフレームがそのままアバンギャルド=実験映画だったんです。言い換えると「プライベートフィルム=アバンギャルドの表現ができるメディア」という図式ごと昭和モダンの大大阪を含めた日本各地に輸入された。それは単なる技術の輸入だけでなく、1920年代の最新のヨーロッパの精神や思想、意識が輸入されたんです。ちなみに北尾鐐之助という人物は大阪や関西の地方文化に精通し、一方写真家としても活躍し関西中を旅行しては記録写真を撮っています。つまり、大阪という場所とプライベートフィルムとアバンギャルドという関係も深かった、ということです。

篤:ヨーロッパから輸入された最新のメディアコンテンツが実験映画であり、その担い手がアーティスト、それをアバンギャルドという思想が支えていた。
夏:そうです。ヴァルター・ルットマン(Walther Ruttmann)の「伯林−大都会交響楽」というストーリーのないリズムだけで作られた映画があるんですが、その影響が日本のプライベートフィルムにもろに現れます。例えば、街をいかに撮るか?「引き」で街全体を撮るよりは、行き交う雑踏の足にフォーカスする。そこには、大都会でしか見ることのないストッキングを履いた女性の足が写る。今から考えると簡単に思いつきそうですが、その当時は大発見だったに違いない。去年、大阪府立現代美術センターで公開した「大阪行進曲」という映画にも、夜のネオンをダブらしたり、踊る足下のフォーカスだったり、ジャズのシルエットだけだったり、というカットが現れます。ちなみに当時、都市映画というジャンルができたくらいです。
篤:創造もまずは模倣から、ですね。「プライベートフィルムという文化」の成熟に、アーティストがその一翼を担ったという事実は、芸術と社会の関係性を考える上でとても興味深いことです。
夏:さらに面白いのは、プライベートフィルムの成熟に合わせて起こった「個人(アマチュア)」と「映像産業(プロ)」のシナジー(相乗)効果です。プライベートフィルムの手法のオリジナルとしては、ヨーロッパのシュールレアリズムやダダイズムの実験映画だった。その次に、それがプライベートフィルムのフレームそのものとして日本に輸入され、こぞって愛好家(アマチュア)が模倣した。更には、産業(プロ)としての家庭用映像コンテンツ (例えば家庭用9.5mmフィルムや16mmフィルム)を制作する際に、アマチュアの手法を積極的に取り入れたり流用した。
篤:その当時、プロが作った映像コンテンツを観る層、つまり家庭用の9.5mmフィルムや16mmフィルム映写機を持っている層は、プライベートフィルム愛好家の層と重なりますよね。
夏:そうです。アマチュアの手法を取り入れて制作されたコンテンツをアマチュアのプライベートフィルム愛好家が鑑賞し、さらにそれを真似ながら自分の作品を作る。結果、その映像手法や映像文法はさらに強化されることになります。
篤:そこにプライベートフィルムの生産と消費のダイナミックな循環が成立する!
夏:日本のプライベートフィルムの最初の被写体は石井漠という、1910(明治43)〜1920(大正9)年代のヨーロッパのノイエタンツ(ニューダンス)の流れを汲んだ自由舞踊・創作舞踊の舞踊家のグループでした。日本でパテー社の販売権を独占していた伴野商會主催により、東京三越の屋上で彼らのダンスを被写体に日本で最初のパテーベビーによるプライベートフィルム撮影会が行われました。
ちなみに石井漠の周辺を探ると面白いのですが、彼のダンスの作曲を山田耕筰がしています。彼は童謡の作曲家として知られていますが、実は表現主義やシュールレアリズムを積極的に取り入れていた非常にアバンギャルドな人物でした。そして山田耕筰と組んでいたのが北原白秋で、彼らは意図的に「近代日本児童」のための音楽・文化を作りました。そして北原の兄弟が「アルス」という美術関係の出版社を起こし、そこからプライベートフィルムと写真のための「玄光社」という出版社が起こります。

篤:あの玄光社ですか?『小型映画』という雑誌を発行していた出版社で、今でもアマチュアのための映像関係の雑誌を発行していますね。
夏:そうです。その最初の案内文を北原白秋が書いています。さらに玄光社が発行したプライベートフィルムについての本を書いていたのが代表的小型映画研究者の吉川速男で、その装丁を当時最新の版画芸術運動を行っていた恩地孝四郎が担っていました。
篤:錚々たるメンバーですね。
夏:その当時の芸術文化の叡智が、プライベートフィルムに結集したのです。
篤:当時の文化人や知識人を虜にしたプライベートフィルム。何がそうさせたのでしょうか?
夏:その理由の1つには、最新の技術と思想が自分の手によって表現できる視覚メディアとして魅力的だったということです。たしかに一部の裕福なエリート層が牽引した動きですが、彼らがプライベートフィルムという文化に命を吹き込んだ功績は大きい。モダニズムの萌芽であり、現在に至る「個人による映像表現」の萌芽でもあります。
夏:その流れに関連してくる大きな問題がでてきます。それがコミュニズム=共産主義です。活字の方でプロレタリア文学運動が活発化する時期と前後して「プロキノ運動」が起こります。
篤:プロキノ運動?
夏:プロキノとはつまり、プロレタリアのための映画(kino=キノ)です。「エリートだけの特権階級に映像を独占させてはいけない」、「映像という新しいメディアはプロレタリア革命のために奉仕すべきである」というようなソビエト映画理論で以て、例えば裕福層を機材ごと取り込みました。結果、傾向小型映画(左傾化した映画)というジャンルが誕生しました。
篤:プライベートフィルムの生産側を取り込んでいったんですね。
夏:また、その頃には存在していたプライベートフィルム専門の批評家に左傾化した論評が目立つようになりました。「日本人民の日々の営みを記録するべきである」とか「このカットは特権階級的である」とかね。当然それはプロキノ運動の一環で、映像をめぐる言説に意図的に関与していった結果です。
篤:批評家も押さえていった。
夏:批評家はオピニオン・リーダーですから当然そういう意見は同人誌にも掲載されます。そして徐々に特権階級のものであったプライベートフィルムの文化の中にコミュニズムの思想が浸透していくんです。
篤:コミュニズムという思想が映像を介して消費されていったんですね。
夏:つまりアバンギャルドの問題とプロキノ運動とその当時の最新のメディアであるプライベートフィルムとの関係は切っても切れないんですね。その当時ドキュメント(ドキュメンタリー)という表現形式がこぞって作られたのですが、よくよく考えるとその必然性があったということです。ちなみに伴野商會が音頭をとって全国コンペを盛んに行っていたようで、例えば北は樺太や朝鮮や南は台湾まで、他にも全国各地の祭りや街並のドキュメントが全国規模で生産されては共有されていったわけです。すなわち大正から昭和にかけて、勃興する映画産業とは別の映像文化のストーリーが展開されたわけです。
夏:パテーベビー(1922年)という9.5mmフィルム映写機の世界的な大ヒットを目の当たりにして、アメリカのコダック社(イーストマン・コダック)はすぐに16mmフィルムと映写機の製造を始めました(1923年)。16mmだとパテーベビーより記録部分が広くとれるメリットがあると判断した結果ですが、実際はフィルムの両脇に空いているパーフォレーションのためにパテーベビーの一回りくらい拡大しただけで、結局満足できる画面を確保できなかった。それに映写機や撮影機など一揃えの機材を揃えるのもかなりの金額がかかるし、あまり魅力的ではなかったのでしょう。なかなかコダックの16mmフィルムは普及しませんでした。さらにベビーパテーは改良を重ね、価格も安価になっていきましたから、コダックはかなりあせった。
パテーベビー→
フィルムを送り出すための穴(パーフォレーション)をフィルムの中央に空けたのもパテー社の独創的な発想。これによって画角が確保できた。一方コダックのフィルムは両サイドの際にパーフォレーションを配置したため画角が狭まってしまう。
所蔵:松本夏樹  撮影:松本篤
篤:どうしたんですか?
夏:そこでコダックは、日本での無料現像サービスを行いました。
篤:それで持ち直した?
夏:いいえ、パテーのシェアは依然圧倒的でした。そこで当時の電気通信社(電通)に「コダックの日本でのプライベートフィルムのシェアを拡大したい」と相談を持ちかけたんです。そこで電通は内務省や文部省に働きかけて、大正から昭和にかけての最大のイベントである1928年(昭和3)の昭和天皇即位式、いわゆる御大典を映像におさめ、ありがたき祝典を観ることこそ 全国皇民の義務である、と口説いたんです。さらには日本全国津々浦々の公民館などの公的施設で上映・鑑賞する際は、画角が大きいコダックの16mmフィルムが望ましい、と続けた。
篤:巧妙なプランですね。
夏:内務省や文部省の推薦のもと、公民館や図書館、学校に16mmフィルム映写機が置かれ、それ以来16mmフィルムはお上のお墨付きを取ったんです。
篤:パテーの出る幕がなくなり、コダックのシェアが拡大した。
夏:そうです。ちなみに現在では廃止されましたが、公共機関の16mmを使用するには16mmフィルム映写機免許というものが必要だったんですね。なぜなら国家が管理・統括していたメディアだったから。
篤:そう言えば、16mmフィルム映写機を使用する際に講習会がありました。あれはその名残りだったのかぁ。
夏:それ以来35mmフィルムは映画産業のもの、16mmはお上のもの、9.5mmは小市民のものという住み分けが発生しました。
篤:魑魅魍魎がうごめいているんですね。

夏:コダック社はさらに安価な商品として、1932年に「撮影する時は16mmカメラで、映写する時は8mmフィルム映写機を使用する」というダブルエイト=レギュラーエイトを製造しました。なぜダブルなのかと言うと、撮影する時は16mmカメラでフィルムの片側ずつフィルムを収めているマガジンを入れ替えて2回(ダブル)撮り、コダックのラボで縦半分に割いて8mmフィルムにしたからです。そしてさらに8mmフィルム独自のカメラと映写機用の、片方にのみパーフォレーションを空けたスーパーエイト(1964年)と呼ばれるものを世に送りだし、戦後になると産業として爆発的に家庭に普及していくのでした。ちなみにその翌年の1965年には、富士フィルムからシングルエイトも発売されます。
篤:爆発的に?
夏:その1つの理由にアメリカ軍などのGIがゲイシャ・フジヤマを撮影する8mmフィルムと8mmカメラが大量に日本に入って来たからです。それの払い下げを日本人が安価で手にいれることができたんです。
それに加えて、映像と人間の欲望・欲求の結びつきです。映像メディアが劇的に変化する時は、必ずと言っていいほど人間の下半身が関わってきます。ブルーフィルムが8mmフィルムの普及に大きく貢献したことは紛れもない事実です。

篤:人間の根源の衝動ですね。
夏:そうですね。ブルーフィルムというものは、地方の温泉街、行楽地と密接に関係しています。昭和の朝鮮特需<1950年(昭和25)〜の朝鮮戦争による日本産業の景気回復>以後の高度成長期の慰安旅行などで地方に行くと、ストリップ劇場や売買春と並んでブルーフィルム(露骨な性行為の場面を写した猥褻な映画)を密かに上映しているところがあったんです。当然、配給ルートや本番女優の人身売買などで日本の裏社会も暗躍したわけで、日本の映像史を振り返る際に下半身の問題や、裏社会との関係は避けて通れません。
現在の映画産業の成り立ちも、映画は本来見世物興業でしたから、そこには必ず裏社会が絡んできますし、映画監督やそのクルーをまとめて○○組と呼ぶのも、それを示唆するのかもしれません。

篤:大衆化する映像産業と裏社会の関係性。むむむ、すごくディープな話になりましたね。
夏:8mmフィルムから次のメディア(磁気テープ)であるVHSとβ(ベータ) のシェア競争時も、品質ではβ(ベータ)が圧倒的にすぐれていたにも拘わらず、アダルトビデオをおまけにつけたVHSが覇権を握ったという事実があります。
篤:世のお父さん方の下半身に審判を請うた結果ですね。確かにVHSからDVDへの乗り換えに際しても、アダルトコンテンツが積極的に利用されました。おそらくDVDに替わるメディアの台頭にも利用されるのでしょうね。
夏:間違いないでしょう。
篤:流通するメディアの変遷や、映像器具の進歩、さらには置かれている社会環境の諸条件によって今日に至る映像文化・映像産業。その起源をものすごい駆け足でおさらいさせていただきました。ありがとうございました。            

(インタビュー後半に続く)

於 松本夏樹氏自宅

夏樹さんの先導のもと、今日の映像文化の起源をさかのぼることができたのは非常によい機会でした。そしてそこで気づいたことは、映像文化がそのもの単体として社会に存在しているわけではなく、その当時の社会環境や社会情勢の「写し」として存在するということ。日本の前時代、近代化、電力拡充などの技術革新、政治、公権力、芸術と社会、著作権の問題、裏社会、大衆化と欲望の関係など、その当時の映像文化から照射されたのは様々な生活文化の歴史。
「1日前のことすらよく覚えていないのに、生まれる前のことは克明に眼前に甦ってくるんですね(笑)」とは夏樹氏の言葉。その時代にタイムスリップしたかのような心地よい感覚を伴った松本夏樹的映像史観に、私もすっかり酔いしれてしまいました。

さて後半は、夏樹氏が主宰する『カイロプテッィク商會』の活動を基に、その活動をはじめたきっかけや醍醐味、また日本最古のアニメーションフィルム発見の時のエピソードや、映像メディアを収集・保存しその情報を次世代に継承することの意義などをじっくり伺います。そして「もう1つの映像の系譜」を現代に受け継ぐ映像コミュニケーションに目を向け、その可能性を探ります。乞うご期待!

HOME