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ラウル・セルヴェの公開にいたっては?

公開できたのはそれから1年以上経ってから。2000年の冬、渋谷のユーロスペースのレイトショーを皮切りに、大阪は扇町ミュージアムスクエア。全国の主要都市もひととおりまわった。

当時、公開前はよく東京に来て色んな人に会ってたよね。チラシのアイデアとか、みせてもらったね。

シネマワイズ時代からプチグラ(パブリッシング)さんとは一緒に仕事してきたんで、アートワークなんかは彼らにお願いして。

チェブラーシカで動き始めたのはいつ頃?

映画館の時に見つけて、次の作品はこれだ、と心に決めていて。権利元とかは探していた。会社にいながらセルヴェの時であらゆる配給のノウハウを培って。それがあったからできた。でもセルヴェは字幕なかったけど、チェブは字幕をつけるのが大変だった。あとは、ロシア人、なかなかフィルムを送って来なかった、っていうのが大きな誤算だったかなあ。

そういえば、チェブのことを聞いてから、もうすでに3年以上経ってる?帰省して大阪行った時、一緒に連れてってもらったカフェ(=のちにコンテンツレーベルカフェと判明)でその場でモニター借りて、ビデオみせてもらった。「カワイイでしょー」って。

わたしの周りにいた人は、ビデオみせられてず〜っとカワイイっていうのを聞き続けてきたワ。
吉本でチェブは?

1年目の新規事業の時は好きにやらせてもらったけど、2年目に入って会社自体の大きな組織変更で自分も映画の仕事ができなくなってTVの仕事に戻された。チェブに関してもちょうどゴールデンウィークの頃、会社ではやらないと決定して…。セルヴェの方は、公開も決まってたのでそれをやりつつ続けてた。それで、もうこれは自分でお金出さないといけないなあ…って思って翌年の3月くらいに辞める予定で。お給料も丸まる貯金していかなあかんなあ、ってことで独り暮らしを辞めて実家(三宮)から通うようにして。

退職金をつぎ込んだ、って有名な話よね。

それでも夏休みのお昼間の公開だったから、自分独りだけでは全然お金足りなくて。そこでプチグラさんに相談したら、同額くらいは出せる、と。あとは宣伝費も結構かかるんで、どうしようか、という時に、その頃『ブレアウィッチ・プロジェクト』をヒットさせた後で、会社も大きくなりかけていたクロックワークスさんに話を持っていったら、ビデオ化(DVDも)権ということで、それくらいなら(といっても高額!)全然出せるよ、ってことで話がまとまった。劇場も、セルヴェの時の縁でユーロスペース、扇町、名古屋(シネマテーク)なんかは、決まっていって。

東京へは?

吉本辞めてから、プチグラに入るということで。当時は、妹の家にずっと居候。
ワタシが実家(和歌山)に戻っていたから、ちょうど入れ違い。彼女の東京での活躍ぶりは実は目の当たりにしていない。

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