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2008年5月3日(晴) 多摩センター駅近くの薄暗いラウンジにて

柴崎のオーダー:アロエグレープフルーツジュース
長嶋のオーダー:ソフトクリーム(バニラ)とブレンドコーヒー
福永のオーダー:ソフトクリーム(あずき)

 

長嶋 有 (ながしま ゆう) 
1972年生まれ。「サイドカーに犬」(2001年)で文學界新人賞を受賞しデビュー。「猛スピードで母は」(2002年)で第126回芥川賞受賞。「夕子ちゃんの近道」(2007年)で第一回大江賞を受賞。著書に『猛スピードで母は』(文春文庫)、『ジャージの二人』(集英社)、『パラレル』(文藝春秋)、『ぼくは落ち着きがない』(光文社)、エッセイ集『いろんな気持ちが本当の気持ち』などがある。朝日新聞夕刊(一部地域では翌日の朝刊)に「ねたあとに」を連載中。またコラムニスト・ブルボン小林として『ぐっとくる題名』(中公新書ラクレ)、『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』(太田出版)。東京在住。
http://www.n-yu.com/
http://www.bonkoba.jp/


柴崎 友香 (しばさき ともか) 
1973年大阪生まれ。「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」(1999年)でデビュー。『その街の今は』(2007年)で第57回芸術選奨文部科学大臣新人賞、第23回織田作之助賞大賞を受賞。著書に『きょうのできごと』(「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」所収、河出文庫)、『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』(同)、『青空感傷ツアー』(同)、『ショートカット』(同)、『フルタイムライフ』(マガジンハウス)、『また会う日まで』(河出書房新社)、『主題歌』(講談社)などがある。また行定監督によって映画化された『きょうのできごと』は2004年、劇場公開された。 WEB文芸 RENZABURO で写真とエッセイを連載中。http://renzaburo.jp 東京在住。


福永 信 (ふくなが しん) 
1972年生まれ。著書に『アクロバット前夜』(リトルモア)、『あっぷあっぷ』(村瀬恭子との共著/講談社)、『コップとコッペパンとペン』(河出書房新社)がある。京都在住。



前回のlog osakaの対談から約3年が経ちました。

長嶋:周りの反響を見ると、思った以上にあの座談会の記事は大勢に読まれてるよ。

柴崎:感想を言ってもらったり質問されたりすることもあるんだけど、言った方は時間が経過してるから、読み直すと「こんなこと言ってる」ってところも。若い時の化粧とかがんばりすぎの写真がずっと出てるみたいで、戸惑いもあるというか。

長嶋:うん、僕の芥川賞受賞の時の満面の笑みの笑顔の写真がいつまでもあちこちで使われちゃうみたいにね。古い感じにならないし、3年前の記事なのに、ついさっき話した対談みたいに読まれちゃう可能性があるから、ウェブは怖いというか、気をつけないと。定期的に最新の座談をするのはいいアイディアだと思ったよ。

柴崎:せっかくだしね、変化がみえるっていうのはいいことだよね。

福永:だんだん歳をとっていくし。

柴崎:見た目も変わって、だんだん弱っていくし(笑)。

長嶋:3年前の座談会の記事を読み直して見ると、携帯電話が出てくるせいで学園小説が書けないって僕が言ってたんだけど、この3年の間に書いたよ。

柴崎:ああ、そういう変化があるね。

長嶋:どういうふうに書けなさを乗りきったかと言うと、もう完全に携帯オタクたちのことを書いた。ガジェットとして「それはGショック携帯で」とかさ。ドコモの携帯の薄さは10何ミリでとか、そういうことにすごくこだわっているとか、未だにツーカーを使っている人たちとか、そうやって過剰な接近戦に持ち込んだ。10代の子らは結構そういうのを気にするだろう、と。僕も気にするところはあるし。そういうやり方で書くしかないなと思って、そうやったら書けた。そのやり方がベストかどうかは分からないけどね。でも単行本にする時に読み返したらすでにツーカーはなくなってて(笑)。最新機種の新しい機能とかいっても、あっと言うまに古い機能になっていく。でも3年経っても福永さんはまだ携帯もってないね。

福永:うん、変わらないこともある(笑)。

長嶋:あ、僕も2台持ってたのが1台になったな。

福永:同人誌も2冊できたし。

柴崎:私は3年前はまだ対談というものをほとんどしたことがなくて、小説家に会うこと自体が珍しかった。あれからトークショーに出たりとか、対談する機会がすごく増えたのね。対談に限らずなんだけど、私は人と喋りながら考えるっていうところがあって、対談で喋っていることっていうのは、自分の中では結論ではなくて、さぐっている途中の状態というのが、対談なのかなと思ってる。最近、人と喋るのは農業っぽいなと思ってて、しゃべるっていうのはタネを蒔いている状態で、しばらく経つと実がなってたり、乾いて枯れかけてることもあるんだけど、思わぬところでまた水をやれて伸びてきたり、そういう途中経過なのかなあと思う。家に帰ってから対談のことを思い出して、タネはこちらが蒔いてるだけじゃなくて蒔かれてることもあって、あ、あのタネはこの植物だったんだ、と後から分かるというようなこともある。

長嶋:じゃぁ、柴崎さんを追ってる人は、言葉が更新されていったりするのが分かるんだ。

柴崎:そんなたいしたことではなくて、誰でもそんなに首尾一貫してなくない?私はけっこう、前言撤回する人のことが昔から好きで。

福永:珍しいね(笑)。

柴崎:自分ですごく強く言ったことを、「あの時はどうかしてた」って言う人のことを面白いなって思う。ビートルズがインドにかなりの勢いで行ったのに「間違えた!」って感じで帰ってきたみたいな。前に言ったことと違うことを言うのは格好悪いかなとか、普通なら思うのに、そこをすっきり「間違えてました!」って言うのはなんか面白いなと思ってて。時間が経ったら経験もするし考えることも変わるし。一作書くことで分かることもあるし。前の対談の時はちょっと言葉足らずで、私の作品の世界が繋がっているって言ったけどそれはサーガというのではなくて、現実の時間と同じように小説の世界を設定してるから矛盾がない、ということなんだよね。以前は日付をきっちり設定して天気も調べて書いてたけど最近は別のやり方もあるかなと思って、試行錯誤してる。

長嶋:あぁ、僕も長嶋有の仮面のようにブルボン小林があってさ。どっちにも意味があるんだって、より頑に3年前は思ってた。当時も一人二役っていうつもりではなく、すぐにばれるくらいの仕掛けだったけど、今はもうね、かぶってる仮面がかなり上がってきてる(笑)。

福永:覆面レスラーなら、もう、負ける寸前っていう(笑)。

長嶋:そうそう(笑)。もう頭にちょこんと乗っかってるくらい。でもまだ名前をふたつに分けることに意味はあると思ってて。ネットでは特に名前で検索をかけたりするとしたら、名前によって検索結果が分かれるっていうことに意味があるんだけど、それを殊更言い張る必要はなくなってきてる。

長嶋:赤瀬川原平さんは純文学作家としては尾辻克彦の名前でデビューして、名前を分けて活動してたけど、今は赤瀬川原平で統一してるよね。

福永:読者としては「尾辻さんが良かったのに」とかっていうことはあるかもね。自分だけがおいてけぼりをくったと感じるかも。戸惑いとか。分身のように分かれているのがかっこいいと思ってた自分はなんなんだ、っていうね。ゴダイゴで聞いてた曲をタケカワユキヒデ名義で熱唱されても、俺はどうすりゃいいんだ!ってね(笑)。感情の混乱みたいなものはあるかもね。

長嶋:僕もよしもとばななさんがいきなり全部ひらがなの名前に変わってた時はちょっと戸惑ったよ。気持ちの持ち様がちょっと違ったっていうことはあるね。

柴崎:私は「あれ、変えはったんや」と思うくらいだけど、気になる人も多いんだなと。でもそれを気にしてても、つくる側はしょうがないっていうところもあるよね。

福永:藤子・F・不二雄も。しかも最初は藤子不二雄Fだったのに、いつのまにかFが真ん中に入っちゃって。

長嶋:あれは驚いたよ。真ん中にっていうのがさらに大きいよね。「そうはいっても藤子不二雄だし」とみんなに思わせないというか。僕も受取り手としては混乱はあるけど、つくり手としては仕方ないかもね。ブルボン小林と長嶋有と名前を分けることも、その時その時の内的必然があるわけだよ。たとえば同人誌が「メルボルン1」「イルクーツク2」と2冊出た時にも「これが自分の履歴になるのは格好よすぎる!」と思った。自分がやったこと以上に大げさな感じになってしまって。ブルボンでもやってまーす、ってブルボン名義でも雑誌を出した。でないと、正味の自分との誤差があるっていうかね。

柴崎:それは分かる。取材とかで一番好きな映画ベストワンを聞かれることがよくあって、1作だけ選ぶのは難しい。ちょっと難しい雰囲気のものを答えると、それは嘘じゃないんだけどそれだけが自分のプロフィール欄とかに載ってしまう。私のことを全然知らない人はそこだけを見るから、そのイメージだけになってしまって、そういう人だということになってしまうし。だからそういう時はその映画と「ブルースブラザーズ」も好きとか言って、バランスをとるというか。

長嶋:「古今東西好きな小説は?」と問われると、すごく難しい。

福永:そうだね。

長嶋:それは、数年前の座談会が残るということと一緒かもしれない。活字になって残るということの強さがあるよ。

福永:作者名は個人名だから、ひとりの人間のようにあらわされちゃう。同じ名前だけど3年前の自分たちと今の自分たちがまったく一緒というわけではないもんね。10年ぐらいぶりに会った人は、10年前のイメージがずっと保存されてるから「福永くんてこういう人だったよね」とか「よく喋るようになったね」と言うんだけど本人は言われてはじめて「あぁ僕ってそうだったっけか」と納得する。柴崎友香をマメに追ってる読者は揺れ動いてる柴崎友香を知ってくれている、と。

長嶋:職業での小説家ということで考えると、小説ってどんなもんだろうと思いながら僕はデビューしたから、方法論みたいなものがまったくなかった。なんかこんなもんだろうって、ねんどをこねて出した、みたいな。最初の1冊目くらいまでは方法論と言えるようなものなんてなかった。だんだん後から「ああそうか、小説ってこうだ!」って後付けのように言語化されていったんだよ。自分の書きたいものにいいやり方はこうだとか、今になって分かってきたフシがある。そういうことを時間の経過として実感するね。本を出してお金をもらって、職業的に成立しているくせに、途中でそう気付く。

柴崎:読む人はあれこれ読み取るだろうけど、書いてる時は、もうそういうふうにしか書き様がない、というか。書き終わってからとか、それに対して客観的になれるようになってから、ああ私ってそういうことを思ってたのかとか分かる時もあるし、人の書評を読んで、なるほどーとか、私ってそんなこと考えてたんやーと発見することもある。

長嶋:福永さんはデビュー間もない頃のインタビューでも、「なんで学校ばかりを舞台にするのか」という問いに「学校を舞台にするということに意識的」というような答えをしていて、だからはじめから方法論があったんじゃない?

福永:いやぁ、そんなことはなくて。僕の中では想定問答みたいなのを考えるんだよ、面接の事前準備みたいに。相手が何を聞いてくるか、想像できる範囲ってあるじゃない。こういう場もそうだけど、インタビューって形式ではかなり限定された話題しか出てこないし。そうしたらそういう場面を想像して、自分の書いたものに対しての質問だから「どうしてこんな書き割りのような小説なんですか?」とか「どうして固有名が省かれた一般名詞しかでてこない世界なんですか?」とか聞かれるだろうなと思うわけ。それで、「そういうのは自分の弱点でもあるのだけど、細かく書くのが面倒くさいと思う」とか「自分が読む側だったら邪魔臭いと思うから」とか身も蓋もない答えが浮かぶ。それじゃあんまりだと。で、一般名詞を使うとか学校が舞台っていうのは、「みんなの記憶の中に既に経験済みのことだから、その記憶を利用して書いている」って答える。自分で書いたものを振り返ってみても、その答えは嘘じゃない。あるいはそう考えて書いてたかもしれないとさえ、インタビューという形式に答える形で、あとから思えてくる。
長嶋:最初の、身も蓋もない答え方でもいいんじゃないのとも思うけどね。というのは、こないだ月刊カドカワのバックナンバーの大島弓子特集を読んでたら、全作品自作解説とかやっててね。名作「秋日子かく語りき」は、[題名をクラシックの曲名「ツァラトゥストラかく語りき」からとったから、じゃぁそれに呼応して作中に「美しき青きドナウ」を使うかということになり、ドナウ川を出したらそれなら日本の「方丈記」も出しとくか]というような解説でさ。こっちはものすごい感動して奥深い名作だと思ってるのにね。キメの場面で「美しき青きドナウ」が流れるようなところも、すごくぐっとくるんだけど、つくってる現場側は、“冷蔵庫にベーコン残ってたから一緒に入れるか”みたいな調子で。でもそれがすごく正しいと思ったし、驚いたんだよ。つまり、自分はすごく感動した作品なのに書いた側はなんか余ったものでざっざっと料理したようなね。あと悪ノリしてるような感じもする。今、料理で例えたけど食べた人は「おいしい」と感銘を受けてるんだけど、調理場の人は食べる人ほどには「奥深さを!」とかは思ってないよね。もっと具体的だし即物的。あんまり感動しながらは書いてないよね。

福永:そうじゃないとつくれないしね。

柴崎:つくってる方はね。でも自分がひとりの読者として読む時は人の作品に対してそう読むし。何でもそういうもので、読む側がいろいろ思う余地があるっていうのが作品の面白いところかな。

長嶋:さっき、身も蓋もない答え方でもいいんじゃないのって思ったのはそういうことで。だってそういうはずだから。

福永:深読みを作品が許すっていうのは面白いよね。

柴崎:こないだ、ある映画監督のお話を聞く機会があったんだけど、「批評というものは誤解で、作品をつくるということは誤解を許すことだ」とおっしゃってね、それに感動した。作品をつくるっていうことは何かを自分の中からこういうものですって形にして外に出すわけだから、それを見た人が何をどう思ってもいい、どういうふうに見てどういうふうに言ってもいい、っていう態度が作品をつくるっていうこと。誰がどう言っても広い意味で誤解なんだけど、それを許すことが作品をつくることだ、と。何か作品について聞かれたら、説明しなきゃならなくて、もちろん自分はそういうふうに考えてつくったわけではないものでも、聞かれたらやっぱりやりとりする義務があるとおっしゃってて。先生ありがとうございました、と(笑)。なるほどなーって。自分の中にある段階で最高の小説って思っているものでも、それを作品という形で自分の外に出さなければ、周りの人もなんだかんだと言えないわけで。自分が意識していることだけが作品ではないんだよね。外に出したんだから、人が深読みしたとしても、意識していないことも含めて出来上がった何かが作品だから、意識していたこと以上のことがそこにあったとしても、「それは私が考えたことじゃない」とは言えない。それは自分ではなくて作品なんだから。

福永:なんか深読みを拒むようなもの、例えば作者がこう言ったらこうなんだとか、作家が言ってることがダイレクトにそのまま読者にいってしまって、残ってしまうことってあるよね。私小説がそうかもしれないけど。

長嶋:最近さ、自分の小説を私小説的と思われることを否定しなくなったんだよ。

福永:朝日新聞の連載「ねたあとに」を見てると、戦略的にやってるもんね。

長嶋:多くの作家が私小説的ということを不機嫌になって否定するのは、「お前は何も創意工夫してないじゃん」と侮られていると感じるからなんだよ。「料理じゃなく、ただリンゴを出してきただけじゃないですか」ってね。でも最近は、そういう言葉をもう相手にしないことにしてる。だって、そもそも俺の心の中から生まれたリンゴでしょう。もっともふさわしい料理法で出すのが大事なんであって、ジャムの方がいいと思えばジャムにするし、そのまま出した方がいいものはそのまま出した方がいい。それを「料理してない!」って侮る見方に対しては不機嫌になる必要はないなと。気にしなくなった。新聞の連載がまさに「気にしない」の小説でね。それは僕の場合の方法で、全作家について言えるわけではないけど、とにかく今はふっきれたね。

福永:「あえて」という部分がごっそり抜けてしまわずに、考えた末にここにきてる、というのがもう少し読者に伝わるような文脈があってもいいかもしれない、と。

長嶋:んー、本を手に取ってもらう時に、デビュー作から順に読んでもらえるわけじゃないしなー。今はその時点のことだけを見られても、読者はちゃんと分かってくれるだろうという類推とか、誤解はいつか解けるだろうというつもりでいくしかないんじゃない。

福永:じゃあ、そのへんは自分では説明しない?

長嶋:説明をしすぎない方がいいなと、この3年で思うようになってきたものの、説明好きだからつい説明しちゃうんだけど(笑)、もっと世界を信頼した方がいいというか−−そう言うとかっこよすぎるけど−−思ったことも確かで。というのは、同人誌に参加してもらった法貴信也さんという人のことを僕がなぜ知り合えたかというとね、法貴さんが少部数で出した何のプロモーションもしない、声高に売り出しをしてない高い画集を、僕の本を装丁した名久井直子さんが自分の嗅覚で見つけてきていた。それで推薦してくれて僕は彼に出会った。ということはだよ、世界の他の誰かもそうして日々何かに気付いているわけで。くどくど説明を言わなくても、世界のどこかに名久井さんはいてさ、ちゃんと見てくれている、という世界への信頼を持ってもいいと思った。

柴崎:すごい天才ばかりではないから、自分だけが、世界の誰もが思いついていないことを気付いているということはなくて、自分が気付いてる時点で誰かも気付いてるんだって、こないだ人に聞いて、それはそうだなと思った。それに自分が死んだ後に残るのは本だけで、評論に対して何も言えないし。結局残るのは作品だけだから。

福永:言い切るね。

柴崎:うん、だって自分が読んでもそう思うし。作品だけあればよくて、それを人がどう読んでもいいな、と。

福永:僕は小説本体は残らないかもしれないと思うことが多くて。正確に言うと、小説というのは面白いなと自分の感情が動くのは、残らないかもしれないと思った時に、より動くんだよね。あるいは100年前の作家のものが今も残っているというけど、100年前にはもっとたくさん作家はいたわけで、その読んでない作家たちは何を書いてたのかと考える時に、小説の面白さとか可能性とかが感情の中にリアルに伝わってくる。

柴崎:残ると予想してるという問題じゃなくて、残るのはそれしかないから。極端に言えば、書いたものはもうどうなっても仕方ない、もう書いたし。今、読んでくれる人もいるし、それでいい。

福永:うん、そうだね。

長嶋:僕も3年前より強くそう思ってるところがあるね。
福永:連載小説っていう形で、ある種のドキュメント性みたいな、小説の本筋とは関係ない、あるいは単行本になったら忘れてもいいような情報でも、連載の中にこめられている感情っていうのはあるよね。

長嶋:うん、その媒体って大げさにいえば「舞台」だから、そこであることの意味は考える。月刊誌に連載する時に隣のページの作家名を自分の小説に登場させてみたりとか(笑)。そういうやり方だけじゃないと思うけどね。でも僕はその時のその場所っていうものを、実際の読者の多さとか編集者の思い入れとかとはまったく考えずにやったな。朝日新聞の連載も、横長の細い欄に掲載されているんだけど、ある時エビオスのことを書いたら数日後に連載小説の下の枠にエビオスの広告がでた。僕に感化されてるような常連の読者は「エビオスきましたね!」とか言ってくれてさ(笑)。その時その場所に載っていることのライブっていうか、単行本になったらそれはもう分からないことだけど、そういうライブ感というのは考えちゃう。

柴崎:私はふたりのようには形というか、小説の外のことはほとんど考えないからそういうの聞く度にへぇ〜って感じ。小説の中身のことしか考えなくて、装丁とかも編集者の人がこんな感じでって言ったら、はい、いいですねって。何か聞かれたら希望を言うけど、自分からこうしたいっていうのは全然ない。ある日出版社から家に箱が届いて、ああこういう装丁になったんだっていうことが私はけっこうある。それはどうでもいいわけじゃなくて、プロっていうか、やるべき人に任せるのがいちばんだと思ってるから。それで今までみんなすごくいい装丁にしてもらってるしね。最近は、もっと自分から関わった方がいいのかなとも思ってるけど。前に長嶋さんが「ウフ」は一文字目が大きいから、って言った時に、そんなこと私は全然考えたことなかったなーって感心した。

長嶋:「ウフ」っていうPR誌は1文字目が大きいんだけど、それが本当にかなり大きいっていうアレね。だから、一文字目のそれが面白く見える文字は何かなって考えてから書き始めて、ひらがなの「ぷ」から始めたんだけどさ。

柴崎:それを聞いてびっくりした。その観点が自分にはまったくない。

福永:僕はそここそをがんばってるかもなあ。1文字だけ大きいっておかしいもん。

柴崎:福永さんは現代美術的っていかインスタレーションのように小説をやってるけど、私は「その街の今は」は実際に書いた卒論の小説版と思ってて。学生の時に研究していた感じと小説を書くことは近いと思う。何か分かりそうなことがあって、それにどうやって辿りつくか。論文だと、事実を一段一段積み重ねて上っていかないといけないけど、小説はそこを飛び越えることができる。飛び越えて触れた替わりにすぐに落ちちゃうこともあるけど。そういうジャンプできるっていう手段が面白いなと思ってる。

長嶋:作者の性分の違いもあるよね。でも、文芸誌に載った小説が文字の大きさとか段組みとかが変わって、単行本とか文庫本とか復刻本とか、同じテキストだったものが大きくなったり足されたり引かれたり、形としても厚くなったり小さくなったりして違う形で手に取られて読まれていくっていうのは面白いよね。何種類かあるっていうね。

柴崎:私は形にはこだわってなくて、とにかく読む人が手に入れやすくするにはどうしたらいいかなって。たとえば、アメリカのペーパーバックみたいにぺらぺらの紙で安くすることで買ってくれる人が増えるならそれでもいいと思うし。実際はそんなに単純じゃないんだけどね。私にとっては小説は黒い文字がまっすぐ並んでるだけで、どんな形にもなるところがいいと思う。もちろん、本というものやデザインに対する愛着はあるけど。

長嶋:なるほどね。僕の場合は大事な本は単行本で買うから、自分のサイトでも単行本の紹介は大きい文字で、文庫本はロコツに小さい文字で紹介してるよ(笑)。単行本は文庫本の3倍の値段がするわけだし、文庫にはないオマケをつけたり、カバー裏に何か仕掛けをつくったりしてる。

福永:そういうのは3年前から変わってない(笑)。

2006年11月に「メルボルン1」、2007年12月に「イルクーツク2」を同人5人で発行されました。

柴崎:同人誌に小説を書くということは、最初の状態に戻った感じがあって、それが新鮮だった。デビュー前って誰がどんなふうに読むのかまったく分からない状態で書いてたけど、今は、どの出版社からの依頼で、あの編集者の人に見せるんだな、というのがある。

長嶋:うんうん、キャバクラ通いとかするような不まじめな主人公がでてくる話を書こうかなと思っていたところ、担当の編集者が手書きの真心のこもった手紙をくれるような人だったから、この話はあの編集者にはちょっと向かないかなと思ったりね。

柴崎:この人にはちょっと別の、違うものを出そうかなとかね。

福永:担当編集者によって変えちゃうんだ!?

柴崎:変えるんではなくて、自分の中でいくつか同時進行で考えているものの中からどれを出すかっていうか。その人と何を話して盛り上がったかとか、編集者が自分の作品のどこを面白いって言ってくれているのかとかは考える。

長嶋:入り口にいる編集者はたった1人で、その人が「こう書いたら?」、とか言うわけじゃないけど、何か作用を及ぼす気がする。

福永:なるほどねえ。

柴崎:そんなにきちっとしたものじゃなくて、もやっとしたものがいくつか自分の中にあって、この人にはこういうものを出したらこのあと形になっていくんじゃないかな、と。編集者って一番最初に読む人だし、ある程度、何て言うか、色気じゃないけど、やっぱり面白く思ってもらおうっていう気持ちはあると思う。

長嶋:あるある。

柴崎:今は、まず最初に依頼があったり枚数の指定があったりして書き始めるという流れに慣れているけど、同人誌っていうのは誰も読まないかもしれないという状況で何か書くということでね。やっぱり自分の好きに書いたらいいんだな、と思うことができて、同人誌の経験は大きかった。最初はそうやって、誰からも頼まれずに勝手に書いていたわけだから。

長嶋:そういえば、柴崎さんのそういう話は、同人誌の編集後も編集中も聞かなかったね。

福永:今の柴崎さんの話、とても面白いね。僕はそんなこと、まったく思いつかなかったから。

長嶋:じゃ何を思ったの?

福永:これまでは自分のつくった本を直接、本屋さんに持ち込むということはしなかったけど、同人誌は自分たちでつくった本だから自分たちで本屋さんに置いてもらえるようにしなきゃ、とか。

長嶋:それは外側の形式のことで、同人誌でも雑誌でも書くことの内容の面では何も違いがない、ということ?

福永:そうだね、ないね。よく思ったのは、自分たちでひとつのものをつくる共同製作ということは、小説を書く場合にはないことだから、自分が何を書いてもいいやと思ってて。雑誌、同人誌として読者に届けばいいや、と思ってた。全体としてのイメージを大事にした、ということだったなぁ。

長嶋:大きなくくりとして小説を書くということはみな同じだし、活字の連なりという形式も同じだけど、やっぱりそれぞれ違うからね。「イルクーツク2」に書いてくれたいしいしんじさんって、発表するペースとか文体も含めて、やっぱり違うな、旺盛な人だって思ったな。

福永:彼は、こちらから声をかけたんではなくて、嗅覚みたいなもので、書きたいと言ってきてくれたんだったよね。

柴崎:そう、名久井さんがとある席でたまたまいしいさんの隣に座ったら、突然、「何か書かせてください」って言ってきてくれて。

長嶋:それは声を大にして言いたいね。我々が拉致監禁して書かせたんじゃない、ということをね(笑)。多くの編集者がいしいさんの原稿を欲しがっているのに、あんなに長い、100枚という量をたったの1万円ぽっきりでやってくれて。原稿用紙1枚1万円じゃないですよ。それは「メルボルン1」の中原昌也さんが「僕でよければ何かやりますよ」って言ってくれたの同じでね。今度同人誌やるんですよ、と言っただけなのに。

柴崎:そうそう、じゃ、書きますよって。なおかつ、1号も2号もその2人のゲストが原稿がいちばんに出来て。

福永:だから、他の3人も早く書かなきゃ、ちゃんと出さなくちゃってなった。

長嶋:次の3号はそうじゃない進め方でやりたいね。ゲストはいてもいなくてもいいんだけどさ。〆切がなくても今は出す気はあるんだ。あ!でも宮崎誉子さんから既に原稿きてるんだ!宮崎さんの中では3号は既に出すことになってるんだよ。

福永:ゲスト主導なんだ(笑)。驚いた。聞いたことないよ、そんな出し方。でも面白いね。勝手に原稿が送られてきて同人誌を発行するというのは、いい始まり方だ。誌名がその都度変わるのも、毎回作者名が変わるのに近い、ありえない面白さがあると思うね。

柴崎さんの新刊「主題歌」には、かわいい女の子がたくさん登場します。

柴崎:かわいい女の子は好きなんだけど、視点はわりとフラットっていうか、自分では自分のことをあんまり女の子っぽくないと思ってて、根っからガーリーというのではなくて、別の生き物を観察してる感じなのかも。

長嶋:だって美少年も好きだよね。トークイベントに美青年が来たら、だまっちゃう。

柴崎:興味を持つのに、男か女かというところでラインはないなあ。

長嶋:でも「主題歌」の芥川賞の選考の場で村上龍さんが「これは男社会への諦観だ」ってすごく、過剰といっていい褒め方だった。村上さんって何でも社会と結びつけて考える人だから、ちょっと大げさになっちゃうのかもしれないんだけど、でも何か、「主題歌」っていうものが過激な表現だったんだろうなっていう気がするの。

柴崎:ああいうふうに女の子のおしゃべりだけで、「かわいい、かわいい」って言い合うことが楽しいって言い切るのが、新しい挑戦なのかもとは思う。

長嶋:なにげない日常を描く、っていう評を逸脱したものを書いたなって思う。それに女の子の方が美人とかかわいい子が好きってのは、そうだよなって僕もけっこう前から実感としては持っていて、ものすごく画期的なこと書いた小説とは思わなかったんだよね。でも、それを書ききった、てらいなく書いたっていうね。

柴崎:そのことに終始して、変に理屈をつけなかったのが良かったのかなって思う。

長嶋:そうするとさ、村上さんは重きに入って読んでも、的外れなようで半分、ちゃんと過激な部分を見たんだって言う気がする。

柴崎:近代日本文学っていうのは男性の価値観が主流できていて、ああいう、女たちがおしゃべりして仲良くなって楽しいからそれでいいっていうコミュニケーションの仕方は書かれてなかったんじゃないかって評してくれている人もいた。そういうチャレンジだと受け取ってもらえたのはすごくうれしい。

長嶋:あと、一貫して、登場人物は家でパーティとかやるじゃん。柴崎文学といえば家での飲み会(笑)。それは単に若い世代のムードを書いたっていうこと以上に、実際に柴崎さんがそういうのが好きっていうのもあるんだと思うんだけど・・・。

柴崎:そうそう、お金がかかることしない(笑)。私の小説に出てくる楽しみって全然お金がかかってなくて、昔の写真を集めるのも安いから買うので、プレミアみたいなのには目もくれないし(笑)、街で女の子見るのもタダだし、泊まるのも基本人の家。

福永:確かにそうだね。

柴崎:お金をかけずにいかに楽しめるか、どういうやり方があるかっていうのが、テーマの一つではある。

長嶋:それも、何気ない日常みたいな褒め言葉からは漏れる、実は過激なことを言ってるっていうことだね。しかも、やっていくうちにだんだん楽しくなってくるんじゃなくて、最初からこれは楽しい、って言い切ってやってるってことだよね。

柴崎:うん、お金がない中でも楽しく生きて行くってことをすごい考える。毎日生活するってこと自体でお金がかかるわけだしね。テレビ見てるとこれができたら何万円とか何千万円するからすごいみたいな、金額だけが基準になってる変な感じもあって。そもそも私がテレビ見過ぎだし、買い物も好きなんだけどね(笑)。東京に来てから新たに「近所で木を見る」っていう楽しみができた(笑)。東京の木はびっくりするくらい大きいから。

長嶋さんが第1回の受賞者となった大江健三郎賞の第2回の発表が先日ありました。

福永:前回の受賞者としてゲストで出たりしないの?

長嶋:対談を聞きにきてくれとは言われてる。

福永:サプライズで花束とかもって舞台にあがったらいいのに。フランス語とかで挨拶して。

長嶋:「コングラッチュレーション」じゃだめなんだ(笑)。大江さんは若い作家に聞きにきて欲しいと願ってるらしいよ。

受賞者はチェルフィッチュを主宰する岡田利規さんです。彼以外にもこのところ劇団本谷有希子の本谷有希子さんや五反田団の前田司郎さんなど、普段舞台の脚本を書いたり演出している方が文学賞の候補にあがっています。

長嶋:岡田さんの本を今読んでるけど、同じ世代だなって思う。あの小説がどう舞台になるんだろうってのは気になるね。でも自分が脚本を書こうとはまったく思わない。むしろ同人誌の活動で美術については少し素養のようなものができてきたけど、演劇もまだ自分とは無縁のところにあって、不勉強というか興味の中になかったんだけど、同じ世代とか若い世代の人たちがわぁっとめきめきと出てきてるよね。

福永:僕は逆に影響を受けたいとは思っててさ。劇作家や演出家が小説を書くなら、僕は台本みたいな小説を書こうと思って。つまり、今は小説の中に演劇的な状況とかが入りやすくなっているとも言えるよね。そんなら台本みたいな小説とか、演劇的な小説っていうのもいいんじゃないかなぁと思ってる。

長嶋:福永さんの本はそこに持って行きやすいかもしれないね。それこそ端役のようにA、B、C、Dって名前がついてるところとかさ。

福永:細かい作品の話になっちゃうけど、A、B、C、Dっていう4人のキャラクターの、小さい子供の話を書いてて、あれは自分でも小説の形をなしてないと思うんだよ(笑)。なかなか信じてもらえないわけだ、特殊な形式になってるから。でもやっぱり書きたいという思いがある。小説として特異だし、おかしいんだけど、それでもずうずうしく続けてれば、何となくそれっぽいかんじになるんじゃないかと思っててさ。どうしても「小説ってこういうもの」っていう思い込みがあるでしょ。こういう小説もあるっていうふうにそれと対抗する気はさらさらないんだけど、続けていくともしかしたら「小説ってこんなもの」っていう形をもっとゆたかなものにはぐくんでいけるんじゃないかなって。長くやっているうちに、そういう形で入っていければいいんじゃないかなぁって。小説を読む中で、やっぱりおかしいじゃない、カギカッコがあってそれに対する解説みたいな地の文がついてる状況って。日常生活ではないわけだしさ。

柴崎:まぁ、ないよね。

福永:逆に言えば、日常をよく描いているとかいう小説の評言も、やっぱりへんなんだよ。

長嶋:異様だよね。

福永:あるいは街を歩いていて小説で読んだ固有名詞とか場所に遭遇した時に、記憶の中に残ってる柴崎さんの小説の中の場所や会話がふと思い出された時に、初めて、その小説を読んだと言えるような感じになったりもするじゃない。小説っていうのは必ずしも本の中だけで成立しているもんじゃないな、と。一見狭いようで、けっこう、ふところは広いと。

柴崎:いろんなジャンルの人が小説を書けるということも、そういうことだよね、いろんなものを持ち込める形式だからだよね。

長嶋:柴崎さんは実際に学生の時に映画をつくったりしてたんだよね?

柴崎:うんまぁ、「映画を作りました」っていうほどのたいしたものじゃないけど。映画はすごく好きなんだけど小説を選んだのって、実は消去法的なところもあって。こないだ「映画をつくるっていうことはまず、友達に電話するっていうことだ」って聞いてすごく納得した。本当に映画ってそういうものだし、私は友達に電話するっていうことができないから。もちろん、言葉にまつわることをするのが好きで、自分にとって小説を書くことが一番面白かったっていうこともあるんだけど、できないことはやらない、って思ってる。小説は自分に残った唯一のことだから、小説の中ではチャレンジするけど。もうこれしかないな、って決めたしそれ以外のことに欲が無くなったから、映画は好きだけどもうつくらないかなと思う。一度、脚本のバイトをしたことがあるけど好きなようにつくれるものでもないし、設定とか時間とか指定された商品を盛り込まなくちゃならなかったり、女の子の恋愛話で、っていう条件があったりして大変だった。まず、考える順番が違うし、時間の縛りがすごいあって。小説は何枚という制約はあるけど。

福永:「何分で」はないよね、さすがに。

柴崎:これだけ書くと何分のシーンになるとか、10分の映画だけどCMが入ったら7分になるとか、人や場所やものはこれが使えてこれは使えないとか、そういうことを考えて書くっていうことは、つまり、つくる順番がまったく違うんだなと。それはそれで面白いところもあるけれど、そういう無理なところに私は手は出さないでおこうと思ったりして。その仕事は脚本というより構成作家だったから、一から自分の思い描いたものをつくるのはまた全然違うとは思うけど。

長嶋:僕はもう、脚本が小説と全然違うっていうのは、柴崎さんの話とは別のところで思い知ったことがあってね。「サイドカーに犬」の映画で、脚本に駄目出しをする時に、ここは駄目ってバツってするんだけど、じゃぁその代わりにどうするか、っていうともう代案が出せない。例えば、子供の歯がぐらぐらしてて抜けそうっていうのを、周囲の大人にどうしたのって聞かれる脚本があって、「歯が抜けそうなんだ」って子供が言ってんの。これを言わないってことが大事じゃん!って僕は思うんだ、歯が抜けそうで自分1人でそれを気にしてるっていうのが醍醐味なのに、脚本では簡単に大人に「歯が抜けそうなんだ」って言っちゃう。その原稿に大きくバツって書いて、じゃあどうやって大人に言わないで歯が抜けそうなことを観客に分からせるかっていうと、それは実に難しくて。

柴崎:それは難しいよね。鏡の前でわざとらしくぐらぐらしてる歯をいじるとか、そういう表現しかないかー。

長嶋:そうそう、僕が思いついたのはね、「口の中の歯のドアップ」。スクリーンの中で歯がグラッグラッグラッとしてるような(笑)。

柴崎:あ、それすごい斬新な映像だ。違う映画になっちゃうよ。

福永:シュワンクマイエルみたいな。

長嶋:でも僕がまじめに考えるとそれになっちゃう。その一点で僕は脚本は無理だ、と思った。

柴崎:あぁ、私は漫画もすごい好きだから、これは漫画だったらできるとかこれは映画だったら、小説だったらできるとか、逆にこれは映画ではできないとか漫画ではできないとか考えるんだけど、それぞれにあって、三者三様だね。

長嶋:でも、脚本にバツを入れるまで、その違いっていうものを実感してなかったな、僕は。

福永:確かに、脚本や短歌や詩から小説へというルートはあるけど、小説から演劇、短歌っていうのは、継続的にはあんまりないかもね。

柴崎:小説というのは、一番単純な、基本的な形式だから、一番、他の人もやりやすいっていうか、許容量の広いものだからね。基本中の基本の単純な形式で、ただ文字で書いてあればいいというものだから。金銭的にも、映画とか演劇には最初にある程度のお金もかかるけど、小説は初期投資ほぼゼロっていうのは大きな利点だと思う。

柴崎:前の対談でひんしゅくの話があったけど、大江賞事件がその後に起こったんだよね。

長嶋:うんうん(笑)。

柴崎:前に話した時は、単に今までにないことをやってひんしゅくを買うというようなことを思ってて、それってでももう上の世代の人がみんなやっちゃってるから、そんなことを言われても自分たちにはもう何にも残ってないし、残ってないところでやるにはどうしたらいいのかっていう、そういう気持ちがあったんだけど。

長嶋:そうだよね。

柴崎:買えって言われても買いようがないって気持ちが強かった。

長嶋:でも去年、大江健三郎賞の授賞式の対談中に聴衆のおじいさんが「くだらんっ!」って叫んで客席をたって帰っちゃって。図らずもひんしゅくを買ったんだよ。

福永:なかなか買えなかったひんしゅくをやっと買えたんだ(笑)。

柴崎:もう買えることなんてないって思ってたけど、結果的に買えたのを目の当たりにして、その時に思ったんだけど、ひんしゅくを買うって何かに反抗するということではなくて、アウェーでやるっていうことなのかな、と。

長嶋:そうだ。こっちはいつものようにしてただけなんだけど。びっくりしたね。大江さんに対して、もちろん尊敬の念はあるわけだけど、過剰に敬ってもしょうがないし、大江さんも「ざっくばらんに」っておっしゃるからね、いつものトークショーの感じでやってたんだよ(笑)。

福永:あんなに笑いの多い大江さんの対談って多分ないんじゃないかな。なかなかそういった場ってもうないもんね。

長嶋:そうなんだよ。そう考えると、ああいう、ながーいこと大江さんを熱烈に信奉している人たちだけが一斉に集うというような場所なんて、ない。希有な場所だった。もう今は世界全体がフラットになってるでしょう。

福永:なるほどね。

長嶋:大江さんがああいうことを試みてくれたからあの場ができたわけでもある。大江賞は「生きてるうちに自分の名前の賞をやるだなんて」みたいに、批判的な言及が実際にたくさんあるわけ。大江さんも賞をやることで、自らアウェーに行ってるってことだよね、多分。

柴崎:うん、そうだろうね。3年前に蒔いた種が、伸びて形が分かってきた感じ。

長嶋:大江さんのファンが会場の9割を占めてて。

柴崎:長嶋さんはそのことに気付いてなくて。

長嶋:そもそもの仕組みとして大江賞の公開対談の募集が、受賞者を発表する前、4月下旬の段階で募集してるから。つまり受賞者は誰であれ、という状況で大江さんのファンだけが応募してくる。大江家に嫁いだ嫁を品定めしにきた姑が数百名、みたいな状況だね(笑)。僕は終始いつものペースでどうも、みたいにリラックスしたままで、「くだらん」て声も壇上までは聞こえてなかったんだよ。あとで聞かされて(笑)。

柴崎:もしその場で聞こえてたらすごい萎縮したかもしれないね。

長嶋:第2回の授賞式はどうかな(笑)。岡田さんには今のことは言わないでいるんだけど。

福永:じゃ、今度は長嶋さんが「くだらん!」って言って席をたつ(笑)。でも岡田さんはわりと嫁姑にかわいがられそうだね。

長嶋:そうかも(笑)。

福永:いやあでも、あの対談は歴史に残るよ。

長嶋:姑たちはともかく(笑)、大江さんは僕の側のフィールドに来ようとしてくれてたね。『エロマンガ島の三人』にひっかけて下ネタもあって、終始くだけた感じでね。

柴崎:会場もすごく笑いが起きてたよね。そのお陰でアウェーに行けたっていうのはほんとに貴重な経験だったね。

長嶋:しかも第1回だし。よく無傷で帰ってこれたな、と(笑)。ああいうひんしゅくは率先して買いたいね。