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身体から最新のテクノロジーまで様々なメディアや素材を使って、美術や舞台などのジャンルを横断して表現活動に取り組む美術作家、高嶺格。'05年、'06年は京都造形芸術大学の授業の一環として初めて舞台演出に取り組み、学生と共に制作。その舞台制作を終えた高嶺氏にジャンルや既成の枠組みを超えた「革命的表現」の真髄に迫る!

interview:雨森信

*2006年に公演した2回目の舞台作品『女臭男臭アロマロアエロゲロエ』については、dance+でのインタビューをご覧ください。
*2005年『もっとダーウィン』についてのインタビューはPart1をご覧ください。


雨森:美術とか舞台とかジャンルを限定したり分けて考えることはそんな重要なことではないのですが、実際の作業として違うことも多いのではないかと。今回、舞台の演出に取り組んでみていかがでしたか?

高嶺:Part1でも話したけど、美術作品の場合は、ひとつのコンセプトに向かって作品を結実することが、舞台に比べてやりやすいということはあると思うんです。人の体、体の動きは最終的に人為的にコントロールできないものを含んでいるので、言葉としてのメッセージからはみ出る部分がどうしても出る。厳密には美術作品でも同じだけど、その「はみ出し」が、舞台の方が大きいという気がします。

でも、もっと現実的には、観客の心持ちが違う、ということでしょうね。美術館に入るときと劇場に入るときでは、状況も心境も違うから。舞台を見ているときって、やっぱり「集団」で見ていると思うんです。美術館だと、ひとりでふらっと入ってきた人に向かって「こんにちは」って語りかける感じだけど、舞台だと、集団に向かって「せーの」で始める感じ。だから、観客に対する語り口がおのずと変わってくる。

ただ、美術も舞台も「お客さんのコンディションを扱う作業」だということでは共通していると思うんです。それぞれのコンディションを持ったいろんなお客さんがいて、それを、作品がどうガイドし、どこに連れていくことができるか?という。この点では建築も音楽もコマーシャルも同じだと思うけど。映像とか舞台とかのいわゆる「時間芸術」の場合、この、時間をどう扱い制御していくか?ということがとても重要になるけど、基本的には、動かない絵画でも彫刻でも同じです。鑑賞するという時間が発生することには変わりないわけで、その間、視線と思考をどう導いていくか?を考えながらつくるんだと思う。その意味で、すべての表現は「時間をどうデザインするか?」ということに関わっていると思います。

僕の場合、舞台での経験と美術の経験が相互に影響していて、例えば、横浜トリエンナーレ('05)の『鹿児島エスペラント』というインスタレーションでは、積極的に観客の視線を誘導するということをやっています。わかりやすい起承転結があるわけではないけれども、拡散したり集結したり、言葉があったり水や土があったりする。それらを、光で制御しています。光と闇で見えるものを制御するというのは、ほとんど舞台の方法と言っていいと思います。つくり方にしても、その前にやった『もっとダーウィン』と似ていて、最初にコンセプトを立ててやっているわけじゃない。鹿児島弁とエスペラント語というキーワード、そのイメージがあっただけ。この二つの言語を使って、解釈を拒むようなことがやりたいと、それだけが最初にあった。あとは、そこにあった材料を使って、いろんな和音を重ねていくようなつくり方をしているわけです。最初にイメージがあるわけではないので、どんどん転がっていく。転がりながら周りにあるものを必死でつかんで、つなげるわけです。できたあとは、うわー、こんなんできたけどどうなんやろか?って、まるでお客さんみたいな目で見てる。お客さんの目になって、あ、ここ気持ち悪いから一秒詰めようかとか、一音足そうかとか、そういう調整を最後にやっています。だから、やっていくうちに、その作品の持っている意義だとか性格だとかが、途中で立ち現れてくるということがあるんですね。現在性というのかな、「いま、ここでつくっていることの意義」が、突然立ち上がってくることがある。それが見えたら、自分の身体感覚に照らしあわせて、あとはドーっと一気につくっていける。

雨森:『鹿児島エスペラント』の時も、『もっとダーウィン』でも、私のなかのなにか、価値観というか魂を揺さぶられるような体験で、心地良くもあり、でもそれは言語化不可能なので、その後もずっと頭に残っているという感じだったんですが、後から1回目の『海馬Q』(学校での公演)の時に配られていたパンフレット中で「自然を模す」っていうのを読んで、高嶺さんは、舞台でも美術でも、そして普段の生活における人との関係においても、自然の法則や動物の本能の中に潜んでいる人間のあるべき姿を探求しているのかなあと解釈してたんですけど。

高嶺:観念的な言い方しかできないんだけど、木が一本あって、葉っぱが揺れている。ザワザワっとね。その揺れてる葉っぱの、一枚一枚の価値が同じで、ヒエラルキーがないということ、でもそれは一本の幹につながっているから、同じ風でそれぞれが揺れているということ。そういうことかな。うわーバラバラやなーて、自然の持つ平等性にいつも感動するんですよ。時間も同じく、等価であってほしい。大事な時間と大事でない時間がある、それ自体がイヤなんです。時間に偏見を持ちたくない。
そんなことが根本にあるので、「この作品をひと言で表現したらなんですか?」とかいう人は、たまらなくイヤです。舞台作品をビデオで見て、見た気になってる人もきらい。僕もたまにビデオで見るけれども、その時間はきらい。体験の質・メディアの質を理解していない人、疑いなく全て言葉に置き換えできると信じている人、ヘッドラインに置き換えられた全ての事象などなどは、全部きらい。時間の短縮もまた政治だしね。

頭が、モノと一対一で対峙できるようなことをね、大人はできないでしょう?そんなことは許されないし。だからこそ、そんなことを、そんな回路を発見したいんだと思う。究極の等価性といったものをどうやって獲得できるのか?演劇の歴史って、政治のプロパガンダに用いられたりとかいうイメージが強いけれども、舞台って意外と、葉っぱの一枚をそのまま見るとか、そういうことに向いた表現だと思うんです。自然を模したい、というのはそういう意味です。

雨森:高嶺さんの言う「解釈を拒む」ような作品のつくり方もあれば、メッセージが比較的はっきりしているもの、また作品の形態や素材なども様々で最終的に作品として出てくるものに幅が出てくる。その上、舞台や美術作品などジャンルも横断していて、一貫したテーマが見えにくいと感じる人もいるのではないかと思うのですが、私自身、その言語化し得ない次元を超えた世界に導いてくれる高嶺さんの作品を毎回楽しみ、翻弄されながら、根底に流れる哲学というか考え方が基本にあって、それがいろんなカタチで表現されているのだろうなあというように捉えています。

高嶺:すごいベーシックな、世界を見る時の目つきとか考え方というのは、あると思います。でもそれを具体的な作品にリフレクトしていく時に、自分の持っているベーシックな価値観とか思考に必ずしもフォーカスするわけではないんですよ。その間に劇場とか美術館という制度がはさまって、プリズムのようなことが起こるので、そこがまっすぐには結びついてない。
つまり、自分はこっちの方に好きな世界、こうなったらいいなと思う世界があると、その方向だけは知っていて、それを「伝えるための方法」は、その場その場で考えていく。そうやって考える中で、方向がまた明確になっていく、そういうことだと思います。

雨森:舞台のような共同作業の時は、最終的な作品イメージとか方向性が共有出来ないと難しそうですね。

高嶺:子供ができて、スーパーで買う食品とか、教育基本法の改正とか、将来に関わることが切実な問題になってきた。僕はもともと、芸術のための芸術を志向している人間ではないので、これらのことは直接に作品に反映してくるんです。だから、今スタンダードだと思っていることに疑問が出てきたら、それは変えるべき、何よりも大事なことになる。例えば、いつからこんなに簡単にモノを捨てるようになったんだろうって、僕の年代は、まだそんなにモノを捨てていなかった時代、あるいは大量に捨て始めた時代に幼少期を送った世代だから、その感覚があるはずなんです。学生とは20歳も歳が違うんだけど、「こんな世界に誰がした?」という話題をね、どうにか共有できないかなというのはあります。いまの日本の生活スタイルを続けたら、途端に世界は立ち行かなくなるって、それは本当にそうだからね。でも、実際、舞台をつくっていく時に、学生に直接そんなこと言ってたわけじゃなくて、やっぱりそれは言葉以上の方法で危機感を共有することができんかなと、腹の中では思ってたんですけど。

あと、「作品ができなくてもいい」みたいなことも授業で言ったりして、学生は混乱してたと思う。これは半ばカマかけで半ば本気なんだけど、例えば、「公演中には携帯の電源を切ってください」、というアナウンスがありますよね。学生はきっちりやるんですよ、びっくりするくらいに訓練されてる。でもあれが「マニュアル化」しちゃったらダメなんでね。携帯がじゃんじゃん鳴っても、子供が走り回っててもいい公演もあるはずだと、そこの想像力が絶たれてしまったら、次のステージがないんです。チラシの折込みのことも一緒です。惰性でやってるんだったら、すぐやめた方がいい。だから、いま、授業と称して過ごしている時間が、将来サバイバルするためにどう役立つのか、本当に必要なものはなにか、みたいな意味をこめて、「作品をつくることが目的ではない」という言い方をしたのだと思います。ちょっと社会が変わったらなんにもできなくなってしまうような勉強をしてても意味ないからね。僕はとりあえずいろんな国に行っていろんな思いをしてるから、前提がずいぶん下の方にあるんだと思う。
ただ、そんなことができたのは、ちゃんと他の授業で「舞台の常識」みたいなことはカバーされていると思ったから。現代の舞台の作法は、他の先生がちゃんと教えてくれてるから、僕は安心して、そのカウンターとしての存在意義を語れたんだと思う。そのバランスは、学生には刺激的だったと思いますよ。てんでバラバラの先生がいて、多文化がニョキニョキ共存してるような状態だから。自分の目で見て将来を選択できるというのは、なかなかないから。

自分を救ってきたのが芸術だという、その確信だけでここまで来てるんです。僕は。僕はそれで来た、それは悪いもんじゃなかったってね。たまたま美大に来た学生かもしれないけど、出会ったからには、よし、一緒に行こうと。そんな気持ちで始めました。二年間やったけど、学生のそれぞれが持っている潜在的な能力と僕のアンテナとが、どこかでたまたま触れあう、その瞬間を探すための作業を、ずっと続けていたんだと思う。
何も決めてない状態から始めるのは、とっても不安だし時間のかかる作業だけど、そこにはお互いの関係がモロに反映されるし、単に作品をつくったという以上のことが、あとに残る。
でももし、「感覚を共有する」なんてことができたら、それは革命だから、どの感覚であれ、それだけでもやりたい。どうやったらできるんやろか?

雨森:舞台をつくっていく過程で(もしかしたらはもっと年月が経った後にはっと気付くのかもしれないけど)、「感覚を共有出来た瞬間」はあったのではないでしょうか。「革命」というと、とても大きなことに聞こえてしまうけど、高嶺さんの言うような葉っぱがくるっとまわる瞬間のような、微細な変化。そういう小さな革命が連鎖しているというか、勃発しているというか、舞台ではそういう革命が端々に感じとれました。だから、私自身、『もっとダーウィン』を見た後「話を聞きたい!!/なにか記録に残さなければ!」という衝動に駆られたんです。

「革命」は、もっといろんなところでどんどん起こしたいですね。血を流さないタイプの。。。時間のかかることかもしれないけど、小さい革命で意識を変革するようなことが各地で無数に起こることで世の中を変えることが出来るのかも、と思います。
「どうやったら?」っていうのは、その時、その場の状況に変わってくるものだと思うので、その瞬間に即興で反応出来る「柔軟な創造力」をいかに持ち得るか、というようなことかなと。その創造力をいつも鍛えるために私にとって「芸術」が必要なのだと。

2回にわたってインタビューにお付き合いいただきありがとうございました。
2007年の公演も楽しみにしてます!

2007年2月