雨森:高嶺さんの言う「解釈を拒む」ような作品のつくり方もあれば、メッセージが比較的はっきりしているもの、また作品の形態や素材なども様々で最終的に作品として出てくるものに幅が出てくる。その上、舞台や美術作品などジャンルも横断していて、一貫したテーマが見えにくいと感じる人もいるのではないかと思うのですが、私自身、その言語化し得ない次元を超えた世界に導いてくれる高嶺さんの作品を毎回楽しみ、翻弄されながら、根底に流れる哲学というか考え方が基本にあって、それがいろんなカタチで表現されているのだろうなあというように捉えています。
高嶺:すごいベーシックな、世界を見る時の目つきとか考え方というのは、あると思います。でもそれを具体的な作品にリフレクトしていく時に、自分の持っているベーシックな価値観とか思考に必ずしもフォーカスするわけではないんですよ。その間に劇場とか美術館という制度がはさまって、プリズムのようなことが起こるので、そこがまっすぐには結びついてない。
つまり、自分はこっちの方に好きな世界、こうなったらいいなと思う世界があると、その方向だけは知っていて、それを「伝えるための方法」は、その場その場で考えていく。そうやって考える中で、方向がまた明確になっていく、そういうことだと思います。
雨森:舞台のような共同作業の時は、最終的な作品イメージとか方向性が共有出来ないと難しそうですね。
高嶺:子供ができて、スーパーで買う食品とか、教育基本法の改正とか、将来に関わることが切実な問題になってきた。僕はもともと、芸術のための芸術を志向している人間ではないので、これらのことは直接に作品に反映してくるんです。だから、今スタンダードだと思っていることに疑問が出てきたら、それは変えるべき、何よりも大事なことになる。例えば、いつからこんなに簡単にモノを捨てるようになったんだろうって、僕の年代は、まだそんなにモノを捨てていなかった時代、あるいは大量に捨て始めた時代に幼少期を送った世代だから、その感覚があるはずなんです。学生とは20歳も歳が違うんだけど、「こんな世界に誰がした?」という話題をね、どうにか共有できないかなというのはあります。いまの日本の生活スタイルを続けたら、途端に世界は立ち行かなくなるって、それは本当にそうだからね。でも、実際、舞台をつくっていく時に、学生に直接そんなこと言ってたわけじゃなくて、やっぱりそれは言葉以上の方法で危機感を共有することができんかなと、腹の中では思ってたんですけど。
あと、「作品ができなくてもいい」みたいなことも授業で言ったりして、学生は混乱してたと思う。これは半ばカマかけで半ば本気なんだけど、例えば、「公演中には携帯の電源を切ってください」、というアナウンスがありますよね。学生はきっちりやるんですよ、びっくりするくらいに訓練されてる。でもあれが「マニュアル化」しちゃったらダメなんでね。携帯がじゃんじゃん鳴っても、子供が走り回っててもいい公演もあるはずだと、そこの想像力が絶たれてしまったら、次のステージがないんです。チラシの折込みのことも一緒です。惰性でやってるんだったら、すぐやめた方がいい。だから、いま、授業と称して過ごしている時間が、将来サバイバルするためにどう役立つのか、本当に必要なものはなにか、みたいな意味をこめて、「作品をつくることが目的ではない」という言い方をしたのだと思います。ちょっと社会が変わったらなんにもできなくなってしまうような勉強をしてても意味ないからね。僕はとりあえずいろんな国に行っていろんな思いをしてるから、前提がずいぶん下の方にあるんだと思う。
ただ、そんなことができたのは、ちゃんと他の授業で「舞台の常識」みたいなことはカバーされていると思ったから。現代の舞台の作法は、他の先生がちゃんと教えてくれてるから、僕は安心して、そのカウンターとしての存在意義を語れたんだと思う。そのバランスは、学生には刺激的だったと思いますよ。てんでバラバラの先生がいて、多文化がニョキニョキ共存してるような状態だから。自分の目で見て将来を選択できるというのは、なかなかないから。
自分を救ってきたのが芸術だという、その確信だけでここまで来てるんです。僕は。僕はそれで来た、それは悪いもんじゃなかったってね。たまたま美大に来た学生かもしれないけど、出会ったからには、よし、一緒に行こうと。そんな気持ちで始めました。二年間やったけど、学生のそれぞれが持っている潜在的な能力と僕のアンテナとが、どこかでたまたま触れあう、その瞬間を探すための作業を、ずっと続けていたんだと思う。
何も決めてない状態から始めるのは、とっても不安だし時間のかかる作業だけど、そこにはお互いの関係がモロに反映されるし、単に作品をつくったという以上のことが、あとに残る。
でももし、「感覚を共有する」なんてことができたら、それは革命だから、どの感覚であれ、それだけでもやりたい。どうやったらできるんやろか?
雨森:舞台をつくっていく過程で(もしかしたらはもっと年月が経った後にはっと気付くのかもしれないけど)、「感覚を共有出来た瞬間」はあったのではないでしょうか。「革命」というと、とても大きなことに聞こえてしまうけど、高嶺さんの言うような葉っぱがくるっとまわる瞬間のような、微細な変化。そういう小さな革命が連鎖しているというか、勃発しているというか、舞台ではそういう革命が端々に感じとれました。だから、私自身、『もっとダーウィン』を見た後「話を聞きたい!!/なにか記録に残さなければ!」という衝動に駆られたんです。
「革命」は、もっといろんなところでどんどん起こしたいですね。血を流さないタイプの。。。時間のかかることかもしれないけど、小さい革命で意識を変革するようなことが各地で無数に起こることで世の中を変えることが出来るのかも、と思います。
「どうやったら?」っていうのは、その時、その場の状況に変わってくるものだと思うので、その瞬間に即興で反応出来る「柔軟な創造力」をいかに持ち得るか、というようなことかなと。その創造力をいつも鍛えるために私にとって「芸術」が必要なのだと。
2回にわたってインタビューにお付き合いいただきありがとうございました。
2007年の公演も楽しみにしてます!
2007年2月 |