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日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


30 DB issue+”R40”review+preview

   【review】  1人で立てるダンサーが一同に会する贅沢と困難  『R40』
   6月29日、30日@Art Theater dB


   出演者(敬称略)
   安川晶子 ヤザキタケシ(30日) 森裕子 黒子さなえ
   藤原理恵子 鎌田牧子(29日) 隅地茉歩 今貂子(29日)
   森美香代(30日) 竹ち代毬也 由良部正美(30日)
   花岡純代 サイトウマコト 片上守(29日) 吾妻琳


                                        写真:阿部綾子

 「ぷにゅぷにゅ」、「邪悪な感じでお願いします」、「ダンサー御歳100才」「ストレス」、「無」、「ナントカが、ナントカで、イナバウアー!!」etc…。

 こんな「お題」をダンサーが客席に分け入り回収した後、横一列に並んで読み上げダンスで表してゆく。観客の挑戦とそれを手にしたダンサーのキャラクターのギャップ、言葉とダンスの絶妙の組み合わせに、そこここでくすくす、ぎゃははと笑いが起こる。何せ、舞踏出身の今貂子が手にしてしまったのが「フォーサイス」で、中には時事ネタ(?)まで含まれていたのだから。この劇場の観客は無茶好きである。


 
 
 
 相撲の土俵入りを模した滑稽な登場から、奥の壁に描かれた阿弥陀くじを用いてのナンバリングを経てこのお題ダンスまで。こうして巧みに来場客と共犯関係を結んだ彼らは、次にそれをあっさり捨てて壁際に散らばった。それ以降は、偶然割りふられた番号と、時間、空間の配分やそれぞれの場面でやることに関する大まかなルールとを手がかりに、即興でダンスを紡ぎ出してゆく。ここからが、制限年齢40歳以上の本領発揮だ。
 
 ■ R40(40歳以上限定)であること

 本領と一口に言っても、それをどのように説明したらいいだろう。とにかく「この人たちってすごい」と思えたのは確かで、それはもちろん、現在フリーで踊るコンテンポラリーのダンサーの中では比較的経験豊かな部類に入る彼らの熟練のゆえなのかもしれない。とはいえ彼らも、年季を重んじる日本の伝統の中では、また、プロデューサーの大谷氏いわく、大野一雄さんなどから見ればまだまだ若手。この相対的な熟練度は、異なる道のりをたどって至った各々の現在にひとくくりの性格を与えるわけではない。にもかかわらず“R40”は、彼らが舞台に上がったときに醸し出す特殊な質感を際立たせる線引きでもあるように思われる。この世代(より上)のダンサーたちは、視線を集める経験を長年蓄積した身体が備える、ある種の抗いがたい力を備えているからだ。

 自分の身体に視線を集める経験なんて、そんなの舞台に立つ者ならいくらでもあるだろう。でもおそらく彼らのほとんどは、コンテンポラリー・ダンスの若手のダンサーが経験しえないようなやり方で舞台に存在するための技術を培って来た。舞踏やモダンやジャズなどアプローチは異なれど、結果として彼らが手にしたのは、大きな空間で身ひとつでソロを成立させたり、群の中でその場を支配したりする、つまり、あらゆる状況で視線を一身に引き受けてしまう身体だ。

 そんな、輝かしい身体をもつ者が15人、同じ空間に居合わせると何が起こるのか。見る者にとっては、贅沢かつ悩ましい状況がもたらされた。

 ■ R40がともに生み出せるもの 
 
 あみだくじの延長線で割られたような区画のどこかで、動きを編み出す者が入れ替わり立ち替わりする。そのうち2人が出会って短い時間をともにすることもある。その中で、これまで確立してきたスタイルの延長に新鮮なヴォキャブラリーを見せたダンサーもいたし、何度でもアンコールを投げたくなる至芸を見せた者もいる。だがR40が同時にこの空間に集った意味は、あくまでも、誰かと誰か、あるいは皆が、ともに動くことによって生み出された。


 
 
 
 例えば全員がすーっと空間に散らばり、同時に踊っているという状況が、作品中何回かあった。そんな時、見ている者の視線は空間をせわしなく走査scanし、どこで面白いことが起こっているかを選択しなければならない。ここもそこも面白いわけで、ともすると、どこを見たらよいのやら途方に暮れてしまうかもしれない。けれども、この困難にこそ、興味深い視覚へと見る者を引き込む可能性が潜んでいる。  

 おそらく拡散した興味深さのすべてを手放したくないがために、どれかひとつへのフォーカスを放棄すると、周辺視野がぐーっと広がり、遠近法的な秩序のなくなった空間が現れる。そして、至る所で展開する運動の中心に取り込まれたような感覚に襲われる。なんだか奇妙な視覚の操作による錯覚にすぎないと聞こえるかもしれない。けれどもそれは、同時多発するランダムな運動が引き金となって起こる受動的な体験だ。例えばサッカーやラグビーといったフィールドゲームでスタジアムが一体になる、あるいはビートやコードを共有しない音楽の即興セッションで聴衆がてんでばらばらなリズムで踊りだす。そんな瞬間にも似て、あらゆる人間が、統制のとれた動きではなく個別に全く違った動きをしながらつながっていると感じられるなんて、滅多に味わえない至福である。終演後、プロデューサーの大谷氏は作品に「世界の縮図を見た」と述べたけれど、こんなやり方で見る者が世界に巻き込まれる体験を与える可能性を持っている。それが『R40』の本領である。


 
 
 
 ここで、今述べたような体験が、R40のスタイルの違いや互いに認め合って生み出された力の均衡、さらにそれぞれの変化に対するオープンさを前提としていることは強調しておきたい。変化というのはダンサー同志が同じ空間で即興をする際に互いに被る影響のようなものだ。それは、近くにいる者の動きを真似たり展開したりといったかたちで把握できるものにとどまらない。そういった、それぞれの身体秩序の範囲内でこなせてしまう絡みではなく、動きの論理を生み出すおおもとの身体の成りたちレベルで、触れ合ったり、重なりあったり、反発しあったりする絶妙の瞬間に、コントロールを超えた何かが生み出される。それは、身体の隅々まで意識を行きわたらせて自己陶冶に励んできた踊り手にとっては、不如意な事態となるのかも知れない。けれども裏返せば、卓越しているからこそ「1人で立ってればいいじゃん」という印象さえ与えかねない身体が一同に会する意味のひとつは、「1人でも踊れる」身体が動き動かされるといった、能動性と受動性のはざまに生み出されたように思われる。
 

 

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