街は誰のためにあるのだろう?ベルリンと大阪が持つ相違点を検証したいと思います。 |
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+ 永原達哉
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プロローグで述べた通り、祖父の店で修行したこと。
ヨーロッパで得た経験は非常に大きな糧となっています。
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ベルリンと大阪というふたつの都市。飛行機に乗るだけでも十数時間掛かる程遠く離れたふたつの都市。大阪に生まれたのが偶然なのであれば、ベルリンと関係を持つ事がてきたのも偶然なのだろう。そしてこのようにベルリンと我が街大阪の話を書く機会を持てたのも果たして偶然なのだろうか・・・?
ヨーロッパで生活を送っていた若い頃、たくさんの出来事が私の周りで起こった。今思えば非常に無茶なことをやったものだ。私にとってはどれも大切な出来事であるが、中でも忘れられない、いや忘れることが出来ない事がある。それはあるイタリア人との出会いである。ナポリ出身のその女性は南イタリア人特有の明るさを持ちながら、とても思慮深かった。日本人である私にはなぜか違和感がなかった。その女性とはロンドンで出会った。同じ学校だったのである。学校にある図書館で知り合うというお決まりのパターンだったが、最初はどちらから近づくということもなくごく自然に距離が縮まった。
初めて訪れたナポリ。石畳の街中はまさしくローマ時代に逆戻りしたような雰囲気だった。そこを彼女の小さな黄色の車で走った。錆びて文字が殆ど読み取れない店を指して「あそこのピザが本当においしいの!」
小躍りしながら私を引っ張る彼女。そこのピザが実に美味しかったのである。彼女とはイタリアの色々な街へ行った。実は初めてドイツ国内に入ったのも彼女と二人だった。北イタリアへスキーをする為に行ったついでにドイツへ行った。名前を思い出せないほどの小さな村の小さな小さなペンションのような宿泊地を見つけて二人で泊めてもらった。そこで年老いた女主人が作った家庭料理の数々。とてもシンプルだったが、実に暖かくて、そして何よりも素材の味を活かした絶妙の味だったことを今でも覚えている。「イタリア・ワインにはかなわないけど・・・」と言いながら出してくれたドイツ・ワイン。確かに甘くて決して美味しいとはいえないものだったが、充分に楽しめた。
「ポンペイに行ったことなかったよね?」と唐突に聞かれて、“うん”というのが早いか彼女が“じゃ、行こ?”というのが早いか。すぐに行くことが決まった。火山の噴火で一瞬のうちに壊滅した古代都市ポンペイ。その生々しい人の形に息を飲み、古代の土木技術に関心したり、とあっという間に時間が経った。日が変わり、すぐ近くにある“青の洞窟”へ渡った。小さなボートで洞窟の中へ入るとそこはまさしく別世界だった。自然だけが成せる技だと感じた。小さな港の小さなベンチ。そこに二人で座って沈んでいく夕陽を眺めていると、「日本ってどんなところ?」って急に聞かれた。
「僕の住んでいるところは周りにたくさんお寺がある古い街だよ」と応えた。“行って見たい”という。“是非行こう”。ただ日本は二人にとって余りにも遠かった。結局彼女が日本に来ることはなかった・・・。
去年ベルリンへ行った時、アメリカからドイツに移住しているアーティストと出会った。彼女はもう15年もベルリンに住んでいた。だからドイツ語は完璧だった、いや完璧に聞こえた。「15年いてもドイツ人じゃないことはドイツ人にはすぐわかるわ」と笑っていた。「そうだね。99.99%まで完璧に近づいても残りの0.01%がどうしても克服できないんだよね」と私は彼女に言った。
最初は夜間の語学学校へ通ったという。そして段々わかるようになった。「今でもドイツ人の気質が分からない時があるの。でも分からなくて当然だと最近思えるようになった。だって私はアメリカ人だもの」といって大笑いしていた。
ナポリの小さな港の小さなベンチで彼女も言った。
「あなたは日本人。私はイタリア人。分からない部分があって当然よね?だって私は日本人じゃないから。でもこれで充分よね?」と。彼女は私を覗き込み優しく微笑んでくれた。そう本当に充分だった。
ベルリンで出会ったそのアーティストは、車中で生活をしていた。「最初はきちんと部屋を持っていたんだけど、アトリエがあるし、この車中の”部屋”は単にアトリエと分けたいだけなの。だから住所不定ではないのよ」
Kunstfabrikの中にある彼女のアトリエ。「これね、私がアトリエを作っている最中に出てきたものなの。恐らく第2次世界大戦ぐらいのものみたいね。プレゼントするわ」と渡されたものは古い古い、納品伝票と銅で出来た布に付ける番号札だった。私はそれを受け取るとカバンの中に入れようとした。すると彼女は私の右手に目をやって「細かいものが扱いづらいのね?」と言った。
「少し前に事故に遭って障害が残ったんだよ」というと、私の右手を取って
「痛いの?」と尋ねた。
「寝ている時以外はずっと痛むんだよ。一種の神経障害でね。事故当時や手術の夢を今でも良く見る」そういうと、彼女は目を覆った。
事故の事を思い出した。
何時間にも及んだ手術で見た夢。それはイタリア人の彼女の夢だった。
夕陽を一緒に見ている夢だった。
入院生活の中で、生きている実感をひしひしと感じた。
右手の痛みは結局消えることはなかったが、入院中に消えていく命を目の当たりにして、“これからどう生きよう?”と真剣に悩んだ。
私は、“この住んでいる街に戻ってこれた。”と退院した時に感じた。
エレベーターの前まで見送ってくれた看護婦さん。
「元気でね!」と手を振る同部屋の人達。そして礼をして扉が閉まる瞬間、“向こう側”にいる人達はまた元の生活へ目を向けていた。
私は病院から出ようとした時、知り合いの女の子が出迎えてくれていた。
そして小さな花束を私に渡してくれた。
「おじさん、退院おめでとう!」
その子は満面の笑みを浮かべてその花束を差し出した。そして、
「色々お話してくれてありがとう。」そして急に小さな声になって
「これはあの人に」と折り紙を私に渡した。そこには“カタカナ”で名前が書いてあった。
今、電気があり、水が飲めて、そして空腹になるとそれを満たすことが出来る、しかも酒まで呑める生活が送れることに本当に感謝している。
ただ、今の街は封建社会のそれと何ら変わらない部分が多く残っており、何も言わない人たちがひしめき合っている。“この街に戻って来れた”という気持ちを忘れたくない。そう思って今は日々生活をしている。
【終わり】
約1年の間お付き合い下さいましてありがとうございました。
>>永原達哉
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