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は本文で紹介した大坂城の石垣
今年は大阪城天守閣復興七〇周年。天守閣博物館や天守閣前広場では、この秋さまざまなイベントが催されている。歴史の目を街の中にも向けてみよう。秀吉時代、徳川時代の大坂城の石垣から自分で何かを発見する。そんな時間旅行を楽しむために……。
石積み様式の変遷 『図説 再見大坂城』(渡辺武著)より。
 現在の大阪城は本丸と二の丸のある約一キロ四方のエリアに限られている。しかし、豊臣秀吉が築いた城部は三の丸とさらにその外側にあった惣構(そうがまえ)を含む広大なものだった。秀吉時代、大坂城の外郭を防御していた惣構の堀の範囲は、西は現在の中央区を南北に走る東横堀、南は中央区空堀通りから天王寺区空堀町にかけて上町台地を横切り、東は旧猫間川、北は大川に至るといわれ、東西約二・二キロ、南北約二キロに及んでいる。
野面積み(慶長以前) 打ち込みはぎ(慶長期) 切り込みはぎ(寛永以降)
「豊臣秀吉画像」草湖惟杏賛(大阪市立美術館蔵) 秀吉は9城を築城したが、大坂城は天下人の居城として最も丹念に築かれたもので、生涯にわたって居城とした。

 その内側にある三の丸の石垣の一部が、今も残っているのを知る人は意外と少ないかもしれない。市の中心部の新たな発掘調査は難しく、建築工事などの時でなければ、地下に眠っている遺構が発見される機会はなかなかない。それだけに幸運に恵まれて発掘された豊臣時代の石垣を訪ねる楽しみは大きい。石のかたちも積み方も、江戸時代とは異なる石垣の姿に、大阪城という歴史の遺産の原点が見えてくる。



ドーンセンター南側の石垣(大阪府立女性総合センター)
 京阪、地下鉄天満橋駅から東へ歩くと、まもなくドーンセンターの建物が見えてくる。その一角にごつごつと荒々しい石垣がある。現在の大阪城の石垣とは、あきらかに肌合いが違う。これが実は、秀吉時代の三の丸の石垣を移築したもの。四世紀にわたる歴史の証人は今、その姿をビルの足もとに違和感なく溶け込ませている。

石垣の上部は破壊されていて、現存の高さは最大で3.3メートル。前面に転がっていた石垣石を加えると、高さは5メートル以上と推定される。石の大きさは不揃い。1平方メートルあたりの個数は4〜6個。
 三の丸は豊臣秀吉の晩年にあたる慶長三年(一五九八)に大坂城の防御強化のために造られた。大坂夏の陣で城とともに焼失したが、一万七千もの民家を郊外に移転させて行われた大工事の名残は、平成元年〈一九八九〉のドーンセンターの建設に伴う発掘調査で、地下約二メートルの位置から東西約二十一メートルにわたって再び姿を現わした。

 秀吉時代には野ざらしのままの自然石を積み上げる野面積みが主流で、高さは約三メートルが限度。大きさも形も不揃いな石、その隙間に詰められた小石。移転後にもとの姿を再現するには細心の注意が必要だったという。寛永年間に築かれた現大阪城の石垣が、整形された切り石を用いて、高さと反りのある優美なラインを見せているのとは対照的に、秀吉の三の丸石垣は武骨でたくましい。

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