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石材は、大阪城の現存する石垣と同様、生駒・六甲・笠置など近郊のほか、小豆島・犬島など瀬戸内産の花崗岩。この堅牢な石垣が豪壮な大坂城を取り囲んでいた。
日本経済新聞社前の石垣
 ドーンセンターの北側にある日本経済新聞社に足を延ばす。ビルの前の植え込みに石垣の跡がのぞいている。こちらは徳川時代になってつくられた大坂城のもの。この頃には石垣づくりの技術が進んで、ていねいな切り石が用いられ、石と石のあわせ目がぴったりしていて隙間がない。

城北の惣構堀に見立てた旧大和川と淀川との合流点付近の、旧大和川護岸石垣の遺構。元和6年(1620)の大坂城再築の第1期工事と推定される。最上段の石には、矢穴の跡が見られる。
  当時の石工の技は、現代から見ても優れたものだった。石に矢穴と呼ばれる穴をあけ、そこからノミのような道具を入れて、石の目に沿って割っていく。一メートル角くらいの石なら、三十分ほどできれいに割れたと推測される。ここの石垣の石にも、矢穴の跡がくっきりと残っていて、穴の幅の広い方が切り石にされた年代は古いそうだ。

 徳川時代には、砕石した大名がそれぞれの家紋を石につけて所有権を示す「刻印」が行われた。現大阪城には刻印のある石が多数見つかっているが、このビルの石垣にも残っている。墨で印を付けた墨書石もあるが、植え込みで隠れてしまったり、見つけるのはなかなか難しいが、自分の目で発見できるかもしれないと思うと楽しみも増す。訪れる機会があれば、目を凝らして探してみよう。

豊臣時代三の丸石垣。花崗岩・安山岩からなる4〜5段の野面積みで、北に面して東西方向に延びている。上部は撤去されたらしく、高さ1.3〜1.5メートル。写真は地下ボイラー室内のもの。

追手門学院小学校の地下の石垣
 京橋口の歩道橋の上から大阪城天守閣を臨む。大川を背に、日本経済新聞社から京橋駅まで見渡す風景の中に、江戸時代の大坂城の石垣の跡が緑に覆われながらのぞいている。

  新聞社の裏側の石垣跡は見つけやすいので、その石積みからラインをまっすぐたどれば、他の石垣も発見できるかもしれない。見渡しているうちに、天守閣を中心に街の中に広がる往時の大坂城のスケールも少しずつ実感できてくる。

1984年時の発掘調査。このとき、地表下に埋もれた徳川初期の堀跡と松平忠明期の石垣遺構も発見されたが、さらにその下から豊臣時代三の丸石垣が現れた。(大阪市文化財協会提供)
追手門学院小学校の敷地の東端に復元された豊臣時代三の丸石垣。間近に大阪城を望むことができ、天守閣と外郭をなす三の丸の位置関係がよくわかる。
 歩道橋から追手門学院小学校はすぐ。この校内の校舎の地下に、発掘された秀吉時代の石垣の一部がそのままのかたちで保存されている。コンクリートで囲まれた薄暗い空間でライトに浮かびあがった石垣の姿は、たった今そこで発掘されたばかりのようになまなましい。

  小学校の駐車場にも、石垣の石が残されている。工事とともに発掘されても、さまざまな事情で消滅してしまうケースもある歴史の跡だが、子どもたちが日常の中でこんな生きた教材に触れられるのは素晴らしい。

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