■信用を酌み交わす「手打ち酒」■
大坂商人は信用一番。口約束だけで取引が成立したが、契約書代わりに欠かせないのは「手打ち酒」だった。北新地などの花街に繰り出し、大坂締めで手を打つと、めでたく取引成立。半面、手打ち酒を酌み交わした後に契約不履行のトラブルを起こそうものなら、信用はもろくも失墜した。
■町ごと大坂流通卸センター■
天下の台所・大坂を象徴するのは膨大な問屋だった。正徳年間(十八世紀初期)、地方の物産品を扱う諸国問屋は肥前国問屋百二十一軒、阿波国問屋百軒など、四十五カ国・千七百五十一軒だった。菜種・薬種・お茶・炭・藍などを専門に扱う諸国専業問屋は四十四種で二千三百軒余りを数えた。モノが動けば人も金も情報も動く。販売代金を決済する手形が切られ両替商が活動し、大坂市中を人から人へ全国の最新情報が飛び交い、大坂から全国へ発信されていったことだろう。問屋が大坂経済のダイナミズムを支えていた。
■悪徳商法に走るべからず■
大坂商人の家訓には「正路に商内すべし」と訴えるものが少なくない。丁稚のころから商人道を教えこまれ、株仲間(同業組合)のルールを厳守することも求められた。そのため利己的で不正な商いをしたのはごく一部で、商人の多くは公明正大な商いを順守した。物語などに登場する悪徳商人のイメージは、多分に商人の経済力を嫉妬する武士や幕府の視点から流布された一面もある。
■始末してこそ繁栄あり■
大坂商人にとって始末とは始めと終わりでつじつまがあうこと。浪費を戒め、ものをしっかり使い切る合理的精神が培われた。両替商は質素な服装で懸命に働き、豪商の筆頭格・鴻池善右衞門ですら、移動時のお供は一人だけ。籠にも乗らず黙々と歩いて商談に出掛けたらしい。暖簾は破れた箇所を修理して使いつづけ、古いほど信用があるとされた一方、逆に表向き派手な振る舞いの目立つ商人は警戒され信用されにくかったという。
■不安をいやす信仰の世界■
予測不可能な天災による経営破綻などのリスクを背負いながら、激しい商戦を繰り広げた商人たち。激務に耐え不安をいやす心の拠り所は信仰だった。鴻池家は慶長十九年(一六一四)の家訓二十四カ条で「神仏の崇敬」「先祖恒例の仏事の励行」「伊丹の鴻池稲荷社は鴻池家の守護神であり、月参り参詣を励行せよ」などと、繰り返し信仰重視を強調している。浄土真宗の信仰篤い近江商人たちは近世から近代にかけて本町かいわいに進出してきたが、「(南北の)御堂さんの鐘の音が聞こえるところで商売したい」との思いからだという。商都・大坂は信仰の町でもあった。
■暗い店ほど福の神が宿る■
現在は明るい店ほど繁盛店のイメージがあるが、江戸時代の大坂ではむしろ店内を明るくすると福の神が外へ逃げてしまうと考えられていた。そのため、照度が不足しがちな家屋に長暖簾をかけてさらに外光をさえぎり、薄暗く保てるよう工夫された。外壁が渋い黒塗りで、店内もしっとり落ち着いた雰囲気の商家が大坂のメーンストリートを構成していた。 |