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探るほどに面白い、知るほど謎が深まる“大阪”という都市を楽しむ。

vol.18 豪商(第2回)
(月刊「大阪人」2003年3月号より)

[大坂豪商街能噂]北浜・今橋獨案内

間口の広い店には、暖簾が旗のように連なる。
金貨を両替にいく商人が、
河内縞の木綿に小倉帯の番頭はんが、
月詣りに出かける御寮人さんが、
懐徳堂に足繁く通う旦那さんが行き交う。
商都・大坂の主役を演じた豪商たちの舞台、
北浜かいわいの絵解き案内。

北浜・今橋かいわいに存在した大商家の店・屋敷は1856年(安政3年)ごろのようす。
地図は『内務省大阪実測図 1888年(明治21年)』を使用。(図をクリックで拡大表示)

■北浜・今橋は金融センター■
有力両替商は大名貸しなどの融資も手掛け、藩財政に影響力を持つほどの存在に成長する。大坂北船場の北浜・今橋かいわいは両替商が集中する一大金融センターだった。全国最大手の鴻池一門が軒を並べ、天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛が面する通りは両者の名前を足して『十兵衛横丁』と呼ばれ、隣接する中之島の各藩蔵屋敷と活発に交流していた。

■国内なのに外貨を両替?■
 江戸時代の貨幣は金、銀、銭の三種類で、三貨と呼ばれた。上方は銀本位制、江戸は金本位制で、それぞれ主要通貨の異なる経済圏を形成していた。そのため現在の外国為替市場で外貨を交換・売買するように、金銀を時価レートで交換する両替商の役割が増大していった。

■暖簾の文句も東西で違い■
 江戸の暖簾には武蔵屋・常陸屋・上総屋といった国名を書いたようだが、大坂の暖簾には殿村・鴻池・和田などの姓を出し、木屋・炭屋・米屋と取扱商品の屋号だけを示したものが多かったようだ。

■長者になる秘薬■
 井原西鶴は『日本永代蔵』で金持ちになれる秘薬「長者丸」の処方箋を公開している(両は薬剤の単位)。朝起き五両、家職二十両、夜詰め(残業)八両、始末十両、達者(健康)七両。分量を間違えないでこの五種類を調合して朝夕服用すれば、必ず金持ちになるという。日々の商いに早出、夜勤、倹約に健康。西鶴は一攫千金を追うのではなく、地道に働くしかないと諭している。

安政年間(1854‐1860)大坂・船場の町並み復元模型(部分)(大阪歴史博物館蔵)

■信用を酌み交わす「手打ち酒」■
 大坂商人は信用一番。口約束だけで取引が成立したが、契約書代わりに欠かせないのは「手打ち酒」だった。北新地などの花街に繰り出し、大坂締めで手を打つと、めでたく取引成立。半面、手打ち酒を酌み交わした後に契約不履行のトラブルを起こそうものなら、信用はもろくも失墜した。

■町ごと大坂流通卸センター■
 天下の台所・大坂を象徴するのは膨大な問屋だった。正徳年間(十八世紀初期)、地方の物産品を扱う諸国問屋は肥前国問屋百二十一軒、阿波国問屋百軒など、四十五カ国・千七百五十一軒だった。菜種・薬種・お茶・炭・藍などを専門に扱う諸国専業問屋は四十四種で二千三百軒余りを数えた。モノが動けば人も金も情報も動く。販売代金を決済する手形が切られ両替商が活動し、大坂市中を人から人へ全国の最新情報が飛び交い、大坂から全国へ発信されていったことだろう。問屋が大坂経済のダイナミズムを支えていた。

■悪徳商法に走るべからず■
 大坂商人の家訓には「正路に商内すべし」と訴えるものが少なくない。丁稚のころから商人道を教えこまれ、株仲間(同業組合)のルールを厳守することも求められた。そのため利己的で不正な商いをしたのはごく一部で、商人の多くは公明正大な商いを順守した。物語などに登場する悪徳商人のイメージは、多分に商人の経済力を嫉妬する武士や幕府の視点から流布された一面もある。

■始末してこそ繁栄あり■
 大坂商人にとって始末とは始めと終わりでつじつまがあうこと。浪費を戒め、ものをしっかり使い切る合理的精神が培われた。両替商は質素な服装で懸命に働き、豪商の筆頭格・鴻池善右衞門ですら、移動時のお供は一人だけ。籠にも乗らず黙々と歩いて商談に出掛けたらしい。暖簾は破れた箇所を修理して使いつづけ、古いほど信用があるとされた一方、逆に表向き派手な振る舞いの目立つ商人は警戒され信用されにくかったという。

■不安をいやす信仰の世界■
 予測不可能な天災による経営破綻などのリスクを背負いながら、激しい商戦を繰り広げた商人たち。激務に耐え不安をいやす心の拠り所は信仰だった。鴻池家は慶長十九年(一六一四)の家訓二十四カ条で「神仏の崇敬」「先祖恒例の仏事の励行」「伊丹の鴻池稲荷社は鴻池家の守護神であり、月参り参詣を励行せよ」などと、繰り返し信仰重視を強調している。浄土真宗の信仰篤い近江商人たちは近世から近代にかけて本町かいわいに進出してきたが、「(南北の)御堂さんの鐘の音が聞こえるところで商売したい」との思いからだという。商都・大坂は信仰の町でもあった。

■暗い店ほど福の神が宿る■
 現在は明るい店ほど繁盛店のイメージがあるが、江戸時代の大坂ではむしろ店内を明るくすると福の神が外へ逃げてしまうと考えられていた。そのため、照度が不足しがちな家屋に長暖簾をかけてさらに外光をさえぎり、薄暗く保てるよう工夫された。外壁が渋い黒塗りで、店内もしっとり落ち着いた雰囲気の商家が大坂のメーンストリートを構成していた。

『浪花百景』三井呉服店(大阪歴史博物館蔵)
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