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+ 小島剛(こじまたかし)

大阪在住の音楽家。主にmacintoshとプログラミングソフトmaxを使って即興音楽を中心に国内外で活動中。

+ 塙狼星(はなわろうせい)

1963年生まれ。人類学を専門とするアフリカニスト。中部アフリカの旧ザイール、コンゴ、カメルーンが主なフィールド。アフリカの踊りと音楽をこよなく愛する。

Feb 2004 10:04PM from 塙 狼星 Re:音の恐怖とその記憶

小島 さま

ご無沙汰です。個人的に年末から2月初旬まで仕事がたてこんでおり、お返事をする余裕がありませんでした。すみません。ピグミーの話から展開したコンピューター音楽に関する小島理論、それから、恐怖を表現する音楽の話。とても興味深かったです。

小島さんがおっしゃるように、音づくりをすることで自らの「記憶」にふれるというのは、極めて身体的な行為ですよね。森のアナロジーが、私にとってはわかりやすかったです。比喩ではなく実際の森に住んでいる狩猟採集民が、重層的な声、あるいは、音に満ちた空間に身をおくことで、自分たちの記憶や歴史につながっていくとするならば、小島さんがやられている音楽の実践は、最先端の機器を用いた、極めて原初的かつ人間的な行為かもしれませんね。こう考えると、ぼくと小島さんにも接点があるわけだ。

最近、みつけたアフリカ関連の本に面白いものがあります。音楽ではないのですが、少し関係ありそうなので紹介します。その名も、『女ひとり原始部落に入るーアフリカ・アメリカ体験記』(桂ユキ子、光文社、昭和37年)です。すごいタイトルですね。前半の内容は、パリに滞在していた自称「前衛芸術家」の女性が、縁あって、フランスからの独立直前の中央アフリカに行った時の紀行です。ぼくの調査地であるコンゴ共和国の北縁に隣接する地域です。桂さんは、現地の仏人医師のところで、出産、風土病、凶暴なカバ、原野での狩猟、女子割礼儀礼などの様子を、自筆の絵といっしょに生き生きと描いています。トーキング・ドラムが「もくぎょ」と呼んでいるのには、感心しました。

この本の中で、バンダ人が描く絵の話がでてきます。少し引用してみます。

「やっとのことで、たどりついた前と同じような部落の、同じような小屋の外壁に、私が見たものは、予感的中とでもいうのか、思い切りふしぎな魔物的な色と形を持った絵であった。ほとんどの小屋の絵が赤茶と黒の二色で描かれていたが、とてつもなく長い大蛇が、一匹だけはっている壁もあれば、蚤よりも小さい象の前に、人間らしい形の大きな物体が描かれているのもあり、カマキリのおばけのような絵もあった。その他の絵は、いったい何を描いてあるのか、さっぱり判断のつかないもので、壁いっぱいに、まるいような四角いような赤茶色のものが二つならんだのや、とがった乳房のようなものが、下からにょきにょきと生えているようなものもあった。また、何かの記号のようなものもあった。それらは、幼稚なあらっぽい手法で描かれていたが、直接私の皮膚にぐんとくる強烈なものがあった。
 おのおのがすばらしい前衛画である。いな、それらはとても普通の人間の持てないまったく異質の想像力を持つ者だけが描きうる絵である。今まであったなにものにも似ていない、一級品の新しい芸術を見るときに感じるような感動が、私の全身にあふれた。後日、私は他の部落でも多くの絵を見つけたが、みな、おもしろいものばかりだった。
(中略)
 私はこれらの絵をスライドにとって、後日、本職の画家たちに見せたが、パリでもニューヨークでも東京でも、それを見た画家は一人残らず感嘆した。」(pp.43-44)
 
いささか長かったですが、この文章からは、原初的とされるアフリカ絵画の意匠が、現代にも通じる生命力と芸術性をもっていることが、よく伝わります。近代の都市社会で「野生の思考」を保持しているのがアーティストと考えるならば、当然かもしれません。
 
恐怖を表現する音楽というテーマについては、実際にそれを聞いていないのでピントこないところもあるのですが、具体的にぼくがイメージするのは、ムソルグスキーの「禿げ山の一夜」です。唐突でしょうか。初めてこの曲を聴いたときには、リズム感、情緒性、心地よさといったものとは全く異質な、不安に似たものを感じたことを覚えています。恐怖とまではいきませんが。でも、中学生のぼくにとって、それは極めて魅力的な世界でした。そして、これが、ぼくにとって、クラッシックとのファースト・コンタクトでした。

ムソルグスキーはさておき、前回のお便りにあった、ピグミーが死への欲求をどのような回路で表現しているのか、という点について考えてみます。彼らが日常生活で死を希求しているとは感じられませんが、死を単に遠ざけるのではなく、死と独自の関わり方をしているようです。現代社会では、日常生活から死が隠蔽され(例えば孤独死)、死は想像の世界で羽を広げているようですが(例えばネット仲間との自殺)、ピグミーにとって、死は日常的でリアルなものです。有史以前、死を認識した人類は、死への恐怖を宗教的世界に昇華してきたのだと思いますが、ピグミーの場合、「精霊」がそれにあたります。死者が住む森から現れる多彩な精霊を迎える場は、死者との対話の場ともなっているのではないでしょうか。小さい頃、お盆の迎え火と送り火を祖母とたきながら、死者の霊を身近に感じた感覚に近いのかもしれない。この感覚は、恐怖ではないでしょうが、恐怖の根元にある死の感覚だと思います。そして、ピグミー(これはアフリカの他の民族にも通じますが)は、この感覚をとても大事にしています。我々にとって心地よく聞こえる彼らの歌声は、恐怖をも含んだ究極の歌声かもしれません。

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