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+ 小島剛(こじまたかし)

大阪在住の音楽家。主にmacintoshとプログラミングソフトmaxを使って即興音楽を中心に国内外で活動中。

+ 塙狼星(はなわろうせい)

1963年生まれ。人類学を専門とするアフリカニスト。中部アフリカの旧ザイール、コンゴ、カメルーンが主なフィールド。アフリカの踊りと音楽をこよなく愛する。

Jan 2004 3:58PM from Takashi Kojima 音の恐怖とその記憶

塙さん。

小島です。
最近めっきり寒くなっておりますが、いかがお過ごしでしょうか?
僕は1月中旬に風邪をひいてしまい、しばらく寝込んでおりましたが、最近ようやく復帰しました。

とりあえず、新年のあいさつもしていないかと思いますので、
「あけましておめでとうございます。」

さて、前回記憶の再現性についての話をいろいろ伺いましたが、
今回はこちらからも質問してみたいと思います。

というのは、前のメールで僕があるミュージシャンとの会話で音を記憶する手段としての「恐怖」について少しお話したかと思います。その話をちょっとしてみたいと思います。

塙さんは音楽を聴いて「恐怖」を感じたことはありますか?

先日、友人と話していたことなのですが、今の音楽を聴いていて感じることは音を聴いて恐怖を感じることがないといわれ、なるほどそのような発想で音を聴くことは無かったかもと感心したわけです。
なるほど、最近は「癒し系」、「ゆるーい」、「なごむ」とか「気持ちいい」と言ったキーワードは良く聞かれ、ライブやCDを聞いてもそういう音楽がたくさんあり、さらに「なんだろう」「これって音楽か?」という表現方法までが音表現の対象とされているにもかかわらず、そこには「一体これを聴いたら自分達に身体的(もしくは)精神的影響をもたらすかも」といった恐怖体験という要素はなかなか現れてきていないんですよ。
表現手法が記憶装置に結びつくことを考えると、「恐ろしいモノを見てみたい」といった「ハレ」の状態もやはり、表現として(特に音楽的体験として)存在しているはずなのに、そういうことを目的とした音楽があってもおもしろいのに、と単純に考えてみたわけです。
(しかし、ごく少数ですが、そのようなアプローチで作品を作っている人もいます。彼らはそこに気がついてあえて狙ってそのような音楽を作っているとも、その友人は話していました。)

まあ、それは僕が前回話したような一種アトラクション的な立体的音像で表現出来る可能性はあるよな、とも考えてはいるんですが。まあ、今回は僕のミュージシャンとしての話はおいといて・・・。 

しかし、そこで塙さんにもう一つお聞きしたいのは、
おそらくそれって今僕らが資本主義社会の中で生まれたモノでなく(欲望充足社会では経済原則に伴って、激しく拡張されていることはあると思いますが)ある人間の生命体としての恐怖というキーワードを、より死に近づく体験をしたいという一つの欲求回路として持っているとするなら、ピグミーにとってのそのような体験とはどのような形で彼らに存在しているのでしょうか?また、それを具体的に記憶再生装置と結びつけるなんらかのシステム(儀式など)って、あるんでしょうか?

ぜひ、塙さんなりの感覚的(!)なお答えをお待ちしております。

kojima

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