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+ 小島剛(こじまたかし)

大阪在住の音楽家。主にmacintoshとプログラミングソフトmaxを使って即興音楽を中心に国内外で活動中。

+ 塙狼星(はなわろうせい)

1963年生まれ。人類学を専門とするアフリカニスト。中部アフリカの旧ザイール、コンゴ、カメルーンが主なフィールド。アフリカの踊りと音楽をこよなく愛する。

Dec 2003 3:48AM from Takashi Kojima コンピュータ音楽の可能性について

非常に興味深いピグミーのお話ですね。
ラップトップミュージシャンとして、また自分の経験の中での考えを述べていきたいと思います。

僕は、とある学校で音楽を教えているのですが、そこで、僕はこのような音楽に出会うきっかけとなった経験を学生に語り、そこで聞いた理論と録音物を僕も学生達に聞かせるのですが、当然、僕と同じように学生は音楽に感動することはないようで、
「学生達がいったいどのような体験をすれば、その音を記憶に残すことができるのか?」
ということで、あるミュージシャンと話したことがあります。
そこで彼が言うには
「最も簡単にできることは何も持たずに1週間ぐらい山奥に行って、一人で過ごさせれば良い。」
ということでした。
雑踏のような木々と沈黙の中で過ごす一人だけの時間とは、現代においてはあまりに非日常であり、すべてが体験したことのない恐怖感に満ちあふれて、森のざわめきの音が強烈に個のイメージの中に残るであろうということでした。
確かに、このような体験は人間の最も根元的な(動物的な)感覚を呼び起こすことであり、そこにトラウマのように記憶させる音のイメージは非常に印象深いモノとなるでしょう。そして、私たちにとって原初的な感覚や身体性は表現する上でも感じる上でも非常に大切な感覚です。また、僕も社会活動や生活環境では得られない、そのような感覚を想起させる音楽や演奏を目の前にした時は言いようもない感動におそわれることもあります。

そもそも僕もラップトップでの音楽作りを始める前には長い間、ドラムを叩いていました。それを始めるきっかけもバンドで楽器を演奏することで、「他人とコミュニケーションを取りながら、自分でも何か思っていることを表現できる手段」ということを「女の子にもてたい」と思うのと同じぐらい思って始めたものです。
結局、そのような表現をよりうまく他人に伝えられるようにドラムを叩けるように努力してきたものです。そして偶然にもドラムという「リズムを生み出し」「感情の高ぶりを激しく表現できる」楽器に出会ったことは実は今の音楽をすることとも無関係ではありませんでした。リズム楽器(特にドラムが)それ単体では成立しにくく、メロディー楽器のバックエンドになりがちで(当時はそのように考えていました。)、どうしてもそれ単体での表現には限界があるという安易な思い込みから、どうしても音階のあるモノを使ってみたいと思い、他に楽器の弾けない僕が別の表現方法を模索し始めたことでいまのスタイルの始まりがありました。

さて、ここからが本題なのですが、
僕もラップトップを使った音楽やコンピュータミュージックを演奏することは現在では最も身体性とはかけ離れているものと考えられます。コンピュータに接続される生楽器もどきの楽器を開発したり、いろんなセンサーを体につけてブラックボックス化したようなものでは、所詮これまでの演奏という行為から何ら変わることが無くそこにはこれまでの楽器と人間の関係性に到底かなうわけはありません。むしろそういった形ではない、別の方法で身体性に近づける可能性はあると考えたいと思っています。

ではどのようにその可能性があるのかを2つの視点から考えてみたいと思います。

一つは音と空間の関係です。
僕は現在コンピュータを使っていますが、そもそもこのような音楽を演奏し始める原因としては、「サンプラー」という、録音したものを音階に割り当てて楽器として用いるツールを手に入れたことにさかのぼります。
それはすべての録音物が音声信号としてサンプラーに取り込まれ、その素材を使って演奏することによって自分が音楽を作り出す「楽器」なのですが、これを用いてまるで映画のように音楽を作ろうと考えたことがきっかけでした。
いろんな音楽や音や映画の音声シーンを組み合わせ、記憶の断片をつなぎ合わせることでイメージの展開を狙った音楽は、決して肉体から表現されるものではないですが、個々の記憶の中にある身体性を仮想的に作り出す記録物としての身体性を追求できるのではと考えています。また、最近ではコンピュータの高速化によって、立体的な音像を創り出すこともできるようになりました。家庭にも入りつつある5.1chシステムと言われているモノもその一種でしょう。空間を自由に操ることによって記憶の中にある身体性をより鮮明に呼び戻すことができるのではと考えます。生の音が持つ空間性をできるだけリアルに再現できるだけでなく、それを越えた表現を追求できることはおそらくこれまでほとんど未知の領域であったといえるでしょう。
これまで記録された音楽というのは2chのステレオ(右と左のスピーカから再生される)がすべてであるという間違った認識が、記録物すべてに応用されてしまった100年もの年月に続いた積年の不幸からようやく開放されようとしているわけです。

そして、もう一つはコンピュータと人間の関わり方の変化です。
今でもほとんどのラップトップミュージックは人間がコントロールするコンピュータ「不思議な、聞いたことのない現実では出すことの出来ないであろう音を作り出す機械を如何にコントロールできるか」というところに視点を置いています。人間の直感にできるだけ近づけるための操作性をソフトウェアの開発では追求し、その上で複雑なコントロールを人間が行い、まるで身体性を必要とする楽器を演奏するかのようにチマチマとコンピュータのキーを押すことで完全にコントロールした音を出すことになります。
しかし、もっとコンピュータと人間が対峙してもいいのではと僕は考えます。
様々な状況判断はまだ人間には追いついていません。しかし、特化した部分では我々が及ばないほどの記憶容量と処理能力を持つコンピュータに勝手に判断してもらい、それがうまく面白い音楽として成立できるように人間が戦うようにコントロールすることになっても面白いのではと思います。もちろんコンピュータ万能だとは言いませんし、コンピュータによる自動演奏を期待しているわけでもありません。
そこに人間が介在し、対等に立ち、それはまるで人間が制御できるわけもない森に佇む一人の人間のように、コンピュータと格闘するような音楽があってもいいのではないのかと考えてみるわけです。
 例えば、ピグミーの人が一人何となく歌い始めて、それがやがて大きな合奏になるのは、そこに個人的かつ環境として彼女たちを歌わせる何かがあると考えると、その人間の歌う行為のトリガーを引くのが、情報の森の中にあるネットワークやコンピュータです。今やコンピュータは自分のプログラミングした自分の支配下だけで動くモノではありません。ネットワークを通じて勝手に学習し、応用するような処理能力を持っています。そして木を切りすぎると洪水が起き生態系のバランスが崩れるように、そのコンピュータ知能を間違ってコントロールすると音楽が成立しなくなるような、そんな音楽を僕はラップトップミュージックに期待するわけです。
リアルな身体性ではないですが、微妙なバランスの上に成り立つ音楽をライブで聴くことは決して毎回同じ結果が繰り返されるわけではありません。前の演奏を学んで少しずつ面白いモノにしていくという、音の成長のようなものを自分の加齢と共にまたそんな音楽を好きな人たちと共に共有できればどうかなと思います。
もちろんそんな時代には演奏者と聴取者との垣根もすっかり無くなっているかもしれませんね。

とまあ、ずいぶんと塙さんの言う身体性とは離れてしまいとりとめのない持論を展開してしまいましたが、そういう可能性を持って僕はラップトップと音楽の突き合わせを考えています。
というわけで、また。

kojima

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