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なぜ作品を作るのか?プロセスや裏話を根掘り葉掘りインタビュー。
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+ 雨森信

vol.2 藤浩志 Part 8

鹿児島でも展覧会に出品したりすることはあったんですか?
'94年は鹿児島市立美術館で作品を発表しましたね。鹿児島市の新人賞という賞をもらって、それになぜか展覧会をしなきゃいけないという条件が付いてきて。 ちょうど、石橋の取壊し反対活動をしていた時で、河川の拡幅改修工事をするのではなく、上流で貯水池を作って水を貯めることで治水事業をおこなうというイメージを作品化することにしました。

カエルが蓮の葉を持って水をためるイメージで、水をためる器をいっぱい作ろうと。 それでその器を制作するために陶芸教室に通いはじめたんです。 陶芸教室ってすごく便利なんですよ。 月謝3000円を払うだけで、そこで制作出来て、作ったものを全部乾かして、素焼きしてくれて、釉薬かけて置いて帰ると焼いてくれているんです。 場所代もいらないし、アシスタント代もいらなくて(笑)。 陶芸を習いにくる人に混じって、一人でがんがん作っていました。 それをナンバーリングしていって最終的に171コくらい作ったのかな。 いろんな大きさや形で、お茶碗として家で使えそうなものも作ってみたりね。

『死への流れ』1994
鹿児島市春の新人賞受賞/鹿児島市立美術館
美術館屋内、屋外全体を使ってインスタレーション
素材:トタン板の戦闘機の十字架、お米のカエル、陶器、造花、アンケート、紙ヤスリ、etc.
他2名の新人賞受賞作家、絵画の村上明と日本舞踊の花柳二千翔とのコラボレーション。日本舞踊の舞台をつくり、その舞台の映像を展示会場で流した。屋外ではかびが生え、虫がわいたお米のカエルを流れが合流し大きくなっていくイメージで行列させて並べた。

美術館の屋外で、上から流れてくる支流がだんだん集まって巨大な川となっていくという流れのイメージをお米のカエルを並べて作って、その廻りにポコポコ陶器の器を設置しました。
実はカビが生え、虫がわいていたお米のカエルを日干ししたかったというのもあってね(笑)。

そして、この展覧会の時に1日だけパフォーマンスをしたんです。 もう一人の受賞作家で絵画の作品を出品していた村上明さんの絵の一部を切り取らせてもらって、別のところに設置するパフォーマンス。 ちょうど鹿児島県が江戸時代の土木遺産として石橋を保存するという名目で、石橋を当時使用されていた河川から撤去、移設して、公園の中に再現しようとしていた頃だったんです。 表面的に石橋というモノだけ見ると同じじゃないかっていう意見もあったんですが、その周辺との関係や川底の基礎部分、石のそれぞれの組み合わせ方の技術も含めて現状で保存するのと、公園に表面だけ切り取って、見せ物としてつくるのでは価値が全然違うんじゃないかって考えて。 本当にそれで残すことになるの?という疑問を投げかけてみようと、このパフォーマンスをやってみたんですけど・・。

結局、何の影響力もなかったんだけどね。 誰も見ないし、誰も興味を持たない。 パフォーマンスやってる場合じゃないなーと。

美術表現というのはいかに力がないか。 美術表現として僕なりにメッセージを込めて作っているんだけど、システムに食い込まないと何も変えることは出来ないということを思い知らされました。

その頃はまだそういうことをすることで、何かを変えることが出来ると信じてやってたんだけどね。

『カエルのキャンペーン1993年8月鹿児島の出来事』1994
高松市美術館ミュージアムライブ
サイズ:1m1.8m1.8mの10台の屋台を美術館のエントランスホール全体にインスタレーション
素材:屋台/大島紬の織機、タキロン、ロープ、ビニール袋、Tシャツ・パンツ等のカエルグッズ;シルクスクリーンによるプリント
鹿児島在住の作家、川路益右、加治美智也と様々な音を使ってのサウンドコラージュパフォーマンスとカエルグッズに塗り絵をしてもらうワークショップを行う

カエルのキャラクターグッズを作って「カエルのキャンペーン」を何ケ所かの美術館でやりましたね。 各会場では、苦しい声と激しい音と悲しい映像で、バカな鹿児島を物語るといった内容のパフォーマンスです。 石橋の取壊しを本当にストップするためには、鹿児島の外からの声も必要なんじゃないかと考えたりして結構真剣にやっていました。
'95年に行われた第4回アジア美術展でも、ビニール袋に密閉されたカエルが吊るされている屋台を屋外(大濠公園からのアプローチ)に30台ほど並べて出品作品にしたりしました。

この頃ブラジルのサントスで再開発のプロジェクトに誘われていた関係で、ブラジル移住を計画していて、'93年にブラジルに1ヶ月程時間をかけて下見に行ったんです。 その時に一番興味をもったのが露店や屋台。 一番簡単なものは、シート一枚広げてその上に商品を並べているだけのもの(シートには紐がついていて警察が来たらひゅっと紐を惹いて中身をシートの中に一瞬でしまいこんで逃げられるようになっている)、店構えがあって、商品がいっぱいぶらさがっているタイプのもの、商品がきれいに積み重ねられているものなど大小様々な、ほんとにいろんなタイプの店があり興味を持ちました。 屋台というモチーフは使えるなーと思って表現したのがこのあたりの作品です。

 

この福岡での展覧会で始めてアジアの作家と出会うんですよ。 中国やタイ、マレーシア、インドネシアなどアジア出身の作家ばかり集めて5年に一度開催される展覧会です。(その後福岡市アジア美術館ができて現在は福岡トリエンナーレとなっている) その時に彼等(インドネシアのヘリ・ドノ、タイのナウィン・ラワンチャイクン、パキスタンのニロファール・アクムット、シンガポールのリー・ウェン、それに日本の中村政人など)と一緒に生活して深い話をしてかなり刺激的でした。 それまでアジア各国のことやそれぞれの国の作家について興味を持った事がなかったんです。 地域や年令も様々だったけど、考え方とかかなりシンクロしていて、実はかなり類似した経験をしていて感じている問題意識も共有できるのではないかと。 もともとそれぞれの地域に独自の文化、風習というものがあったところに欧米の価値観が急激に流入してきて、社会の価値観が大きく変化してゆくところで育ってきている。 彼等はその時代状況や社会変化に対して様々な違和感を持ちながら、表現活動を行っているんです。 政治や歴史、環境、風土をモチーフとして、地域のある種の権威と戦いながら、彼等にとってリアルな問題に対してストレートな表現をしている。 妙な話ですが、それまで日本の作家同士では持ちえなかった共通感覚を彼らに見出しました。 なんで僕は今までそれを知らなかったのかなあと。

美術表現とアクティビスト/活動家とどう違うのかという問題を孕んでますね。
僕自身は、美術表現という領域の中で何が出来るかということに疑問を持っている時期でした。 「石橋壊すな、橋を守れ!」と座り込みをするような直接的な反対行動ではなくて、かといって「面白いね、きれいだね」と評価されても何の意識改革も具体的な行動も発生しようがない美術表現ではなくて、表現によって社会の価値観が反転し、結果的に具体的に石橋がその場所に現状のまま保存されるような第3の方法を探したかったんだろうね。

鹿児島の橋の工事現場のフェンスに、蓮の葉に水をためるカエルのチラシを作って貼ったりもしたし、福岡では、鹿児島県知事がハンマーで石橋を壊そうとしているイラストを描いたピンクチラシもどきに鹿児島県庁の電話番号を載せて「CALL ME!」と入れて、町中の公衆便所や電話ボックスに貼ったり、ポスティングしたりね。 けっこうスレスレなこともやったんだけどね。 結局何も変えることができずに5つあった石橋がすべて撤去されてしまったからね。 かなり落ち込みました。 もっと社会システムに絡むまったく違うレベルの表現手法を目指さなきゃいけないと真剣に考えるようになりましたね。

その後、アジア美術展で知り合った作家との関係から、タイに興味を持つようになって、チェンマイの大学の先生になるという話もあったりして、次はチェンマイに移住しようかと計画を立てはじめました。 チェンマイで1ヶ月のアートプロジェクトに参加することになったので、その時は、チェンマイの町を知ろうと1ヶ月ずっと歩く表現を密かにやっていました。毎日1枚、歩いたところを地図に重ねたトレーシングペーパーにトレースしていって、市街地エリアの全部の路を歩いて、最後に全部重ねるとチェンマイの地図になるというような作品で。 展覧会では出品作家として藤浩志の名前があるわけだけど、観客にはどこかを歩いているってことしか分からなくてね。 1ヶ月後、展覧会終了後に作品が出来上がるというようなことをしました。かなり苦しい作品だよね。

 

『CROW BOY』
このころ気になっていた人で八島太郎という絵本作家がいてね。 その人は、鹿児島の高校のずいぶん先輩で、東京芸大に行った人なんだけど、戦前に日本で危険な思想家ではないかとマークされて牢獄に入れられたりして、自由を奪われて、その後逃げるようにアメリカに渡るんです。 そして、アメリカで絵本作家として鹿児島の田舎町の少年についての物語を英語でつくる。 それが『Crow boy/カラス太郎』という絵本です。 これは当時アメリカで評価されて賞をもらったぐらいの知る人ぞ知る絵本なんですが、'95年、京都の龍池小学校であった展覧会ではその絵本を英語と日本語で朗読するというパフォーマンスをやったりしていました。

この物語は、毎日遠い山の向こうから小学校に通ってきて、友達からいじめられ、ほとんど話をせず、遊ばない自閉的な男の子が、小学校卒業の最後の学芸会でカラスの鳴き声を真似るという話。 様々なナキゴエをまねしてその意味を説明し、最後にカラスが遠くに向かって叫ぶナキゴエというのをやるんです。 それを聞いた他の子どもや大人たちも、この男の子が毎日遠くから数時間かけて通ってきた道のりと、これまで彼に冷たく接していた自分たちのことを思い出して涙するという話でね。

これは八島太郎自身の話とも重なっていて、彼が日本で言いたいことを自由に表現出来ないという思いが、この絵本では重なっていたんだろうと。 僕も、伝えたいことが美術表現ではなかなか出来なくて、苦しんでいる頃だったんで、妙に共感していました。 鹿児島で、この八島太郎さんのことを知って、会いに行きたかったんだけど、ちょうどその頃亡くなってしまってね。 彼は戦争中アメリカで、アメリカ軍の情報局で、日本兵向けビラの漫画を描いていたとかで、アメリカ軍に加担したということで結局日本に帰れなかった人なんです。 かれは鹿児島の田舎に帰りたがっていたらしんですけどね。 僕もこのカラスのナキゴエに妙に共感して。ナキゴエを練習したりしていました。

このころから作品にカラスが登場するんですね。
そうそう、その頃カラスをいっぱい作ろうって思っていたのですが、間島領一という友人の作家が先にカラスをいっぱい作って発表しちゃって、それは当時諦めました。 でも後にビニプラのキャラクターには登場します。

そうそう、岡山の御野小学校で行われたアートイベント「アートワークみの」に参加した時、『25000羽のカラス』というタイトルで作品を作りました。 この時は、お好み焼き(パンケーキみたいなものに醤油を付けて真っ黒にして)でカラスのカタチを焼いて木にぶら下げました。 ぶら下がる十字架のイメージとも重ねています。

ちょっと辛い時期だったんですね。
そうですね。 結局、石橋は取壊しになることが決まって一つずつ壊されていって。 僕が住んでいたところがその取り壊される5つの石橋が架かる川の上流で、ずっと川沿いを通って最後に石橋を渡るんだけど、その工事中の橋の横にかけられた仮設の橋を渡るのが本当に辛くてね。 破壊されてゆく鹿児島を早く脱出したいと思うようになりました。 それで、石橋がすべて取り壊されたらE-spaceも閉めて、どこかへ移住することに決めたんです。 そんなこともあったから日本社会から離れてどこか違う国で暮らそうとしていたのかな。 ブラジルに行ってみたり、チェンマイに行ってみたり。 結果的には福岡の田舎に引っ越すんだけどね。

 

自分のイメージってどこから来るのか?
'94年には地味だけど忘れられないプロジェクトがありましたね。 「イズミワクプロジェクト」って言うんだけど、村上タカシ(村上隆ではなくカタカナのタカシの方)という作家がいて、当時杉並区和泉中学校の先生をしていた人で、学生に作品を直接見せたいという相談があったので、じゃあ、学校で美術展をしようということになってね。 学校の階段が、床から腰の高さのあたりまで、黒板と同じ緑色が塗られていて、そこを使おうということになって。 その時に先祖の数を計算してみたんです。 チョークで1階から4階までずっと手書きの筆算で計算していく表現です。 どういうふうに自分のイメージや記憶が作られるのか? 実はありとあらゆる無限大の遺伝子の記憶を自分の中に持っているというイメージって持ちにくいでしょ。

どういうことかというと、子どもには必ずお父さんとお母さんが一人ずついる。そのお父さんとお母さんにもお父さんとお母さんが一人ずついる。 一人の遺伝子は必ず2人の遺伝子から作られるという生物学上の事実ね。 だから祖父は2人いて祖母は2人いるよね。 そこまでは知っているけどその先をあまりみんな考えたことがない。
 実は祖々母、祖々父は4 人ずついて、祖々々父母は8人ずつ、祖々々々父母は16人ずつ過去に存在したっていう事実ね。 仮に33年1世代として、自分の祖先をずっと計算していくと、西暦1100年(日本で江戸時代にだいたい2500万人という数字が残っている)に自分の先祖の数と日本の人口がだいたい重なるのです。 ということは源頼朝が自分の先祖だったという可能性が限り無く近くなる(笑)。

ニューギニアでは鳥が先祖だという民族がいたんです。 ワニだったとかいうのもね。 その当時はちょっと距離を持って見ていたんだけど、この計算をすることによって、実はそれって嘘じゃないんだなあって。 遺伝子の中には地面を這っていた時期も、植物だった時期もあるし、微生物だった時期もある。 それをずうーっと引き継いでいるわけで、一つ、または一人でも切れると今の自分は存在していないというのも事実。 自分という存在から遡って自分が生まれてくるための時間の流れと関係項の膨大な数をイメージすると、自分がいかに貴重な存在かがイメージできてくる。

子孫の計算
逆に子孫の計算をしてゆくのも面白いんです。 仮にひと組の男女が二人ずつ子どもを産んでいったとしたら(ずっと途絶えずに)、1000年後の大統領なり世界を変えてしまうほどの発見をする偉大な科学者は自分の遺伝子を引き継ぐ子孫である可能性が100%に近くなる。 それだけ遺伝子っていうのは広がっていくということだよね。 計算してみればわかる。

生物学的遺伝子と社会的遺伝子
なぜ僕はタイやブラジルに惹かれるのか? なぜイタリアは関係ないって思うのか? 自分のイメージってどこから来るのか? みたいなことを探ろうとこの計算をやってみたわけだけど、こういう考え方をなぜみんなが共通認識として持ってないんだろうって疑問に思えてきて。 親も学校の先生も教えてくれなかったしね。 ひーじいさんとひーばあさんの旧姓合わせて8人分の名前を知ってる人すらほとんどいないもんね。 そうやって考えると国家とか民族とかの枠組みがいかに人為的に社会的な都合から作られてきた歴史の浅いものであり、人間が日常的に認識できるスケールなんてたかが3世代前ぐらいのもので、民族紛争とか国家間の戦争とかみていると、先祖の数を計算していない明かしなのかな、なんてね。
自分がここに存在するってことは、全てが繋がっているということを証明しているようなものなのかなと。 トータルとトータル、ある一人の遺伝子がどうなっていくかとか、自分のルーツはここなんじゃないかとかいうことを超えて、全てと全ての間に自分がいるという意識が大切なんじゃないかと。 社会的な枠組み、国家だとか宗教とか民族とかの問題をもっと違う観点で捉えることができるんじゃないかなあと真面目に考えていました。 先祖代々って言っても、人間が把握できることってせいぜい3世代前くらいまでなんですよ。

ところがここでもっと考えなきゃいけないことがある。 もともと生まれたときから潜在的に持っている生物的遺伝子と、生まれて以降、生きている間に接し経験する社会的遺伝子という二種類の遺伝子があるとしたら、後者の方がはるかに重要で、人間の意識とか記憶とか多くのイメージは社会的遺伝子によってつくられていくんだと思うんですね。 生きていく上で何を体験して何を見て、どういう意識を持つかということが次の進化を作っていく。次の世代の遺伝子をね。

つづく

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