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+ 山下里加

はじめに。
 生まれた時から私の周りは「先生」ばっかりだった。親が実際に学校の教師だったり、ピアノの先生だったこともあるが、末っ子の私にとって姉や兄も「人生の先生」だった。
教えてもらうことばかり。教えられることばかり。ぴよぴよと口をあけていれば、答えはすぐに食べさせてくれていた。
 成人してライター業になってからも、それは変わらなかったように思う。取材やインタビューを通して、私はたくさんのことを教えてもらった。本当にいい「先生」達に巡り会い、私自身はとても豊かな経験を得た。まるまると心(と身)は、太っていった。
 ところが、縁あって数年前から「教える」側にたつ機会が増えてきた。今年の4月からは、芸術系の2つの大学で、3つの授業を持つことになった。引き受けた時は、いつもの仕事の延長ぐらいの感覚。だけど、いざ始まってみれば、目の前にたくさんの、ぴよぴよと口をあけているヒヨコたち、昔の私がいる。何を食べさせたら、彼らはすくすくと育つのだろう。出来れば、美味しくて、楽しくて、健康にいいものを食べさせてあげたいけれど…。いやいや、人生の困難さも必要だし、ファーストフードの味だって知っておかないと。でも、こんなもんを食べさせたら、消化不良で下痢しちゃうんじゃないだろうか。ぐるぐるぐるぐる。りかまる先生は、ぐるぐる回るばかり。先生道は、迷い道かしらん。
 このコーナーは、そんな先生の迷い録です。

4月19日(月)芦屋市立美術博物館問題を考える。そっちの水は苦いか? こっちの水も苦いか?

 明日は、ASP学科「アートプロデュース論1」の2回目の授業である。で、私はこの授業を引き受けた時に、最も興味があったのが「展示」だった。だから、展示の技術について、クールに、職人技として、教える授業をしようと思っていたのだ。私に「展示」の技術があるわけではないので、いろいろな人に助けてもらおうとしていたのだ。

 ところが、いざ、授業の組み立てに入って、ハタ!と止まってしまった。「技術」は、何か実現したいものがあって初めて生きていくもの。その「何か」がないままに、あるいはパターン化された「美術展」らしきものを作るだけでは、何の意味もない。何を「展示」するのか、なんのために「展示」をするのか、そこを意識しておかないと長く美術、アートってものに関わっていけなくなる。

うーん、考え込む。迷ってしまう。

 結局、導入として「芦屋市立美術博物館の休館問題」を取り上げることにした。きっと、「展示」の技術を目指して来た人達はがっかりしただろうな。なんで、こんな難しそうなこと、やっかいそうなことを考えなくちゃいけないのかって。うん、でも、やるって決めたし、美術博物館にも連絡をとってワーキング会議の傍聴まで出来るようになったしな。。。とっつき悪い授業だよなぁ。だいたい税金を払ったことのない学生には実感がないだろうなあ。でも、いいかー。やろう。

 明日の授業でやるべきことは、何だろう。
 まずは、芦屋美術博物館が、なぜこういう事態に陥っているかをデータで分析していく。一番の原因は、財政問題である。いかに、芦屋がたいへんな状況になっているかを知る。美術館だけでなく、障害者、母子家庭への補助金が削られ、ゴミの収集回数が減る。そういった生活に密着した行政サービスが削られていく中で、「美術館」「博物館」は聖域ではいられない。

 でも、新聞や雑誌などの美術業界側からの論調は「美術館をつぶすなんて!」「世界的に有名な具体の拠点なのに!」「文化度が低い!」といったことばかり。美術館は在って当たり前。美術は大事にされて当たり前(実際に大事にされているか、どうかはともかく)の具合。それじゃ、行政は説得できない。『美術手帖』でこの問題を取材した時に、現状を説明するためにある美術家にこういった。
「行政から見たら美術館を守ろうというのは“抵抗勢力”なんですよ」。
 旧態依然の、利権にしがみつく“抵抗勢力”にしか見えない美術業界。新しい言葉、美術や美術館に関心のない人達、経済でだけ見る行政にも届く言葉をどう作っていくのか。。。。
 これが、この授業のポイント。と分かっているけど、伝えられるのかなぁ。

 ところで、最近の気になる言葉が「自己責任」だ。
 芦屋の場合も、日本全体でも、最近よく言われる。芦屋の事務事業評価システム試行報告書の前文にも、「平成12年4月には地方分権一括法が施行され、地方公共団体は『自己決定・自己責任』の原則のもとに行政運営を行っていくことが求められています」とある。
 そして「市が行う事務事業を妥当性、有効性、効率性の観点から評価点検し、事業内容の見直しを行う」と続く。

 行政が行う「自己責任」とは何か。
 お金の問題だけではない。文化、歴史をどう守るか。捨てるのか。そこにも「自己責任」があるはずなのに、経済ばかり、それも目先の収支だけが扱われる。
 国レベルで言えば、イラクの人質事件。チャーター機と健康診断の費用を被害者に負担させるだって! そんなバカらしい話が出るなんて、ほとほとこの国がいやになる。
 
 イラク人質事件=冬山登山、芦屋市立美術博物館=お父さんの給料が下がった家庭、といった分かりやすいたとえにだまされるな。国や行政という力を持ったシステムと、個人をまぜこぜにするな。
 あまりにもこんなに卑近なことでしか見えないこの現状は何だ? 本当のことを言えば、私自身は「歴史」なんて無意味だと思っている。だけど、この現状を思い知るにつれて、やはり「歴史」の役割をもう一度取り戻さなくてはいけないのかもしれない。

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