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+ 山下里加
7月21日(水)りかまる先生は、なぜ迷子になるのか。

 ようやく前期が終わった。ふー。りかまる先生は、あいかわらず迷子のままなんだけどね。だけどまあ、いくつかの授業を通して猫道先生がなぜ迷子になってしまうのか、だんだん分かってきた。
 簡単なことで、地図を持っていないのだ。もうちょっと正確に言うと、これまでの地図を疑い、新しい地図を作ろうと測量中なのだ……多分……迷子なので確信が持てないが。
 ちょっと授業内容をふり返りながら、そのことを考えてみたい。
 まずは、京都造形芸術大学情報デザイン科の「フィールドワーク」で、前期に行った展覧会をあげてみた。

『エットレソットサスの目がとらえたカルティエ宝飾展』(醍醐寺)
『マルモッタン美術館展』(京都市立美術館)
『CONNECT WITH '60s --京都・記憶の断片集--』(京都芸術センター)
『KYOTO ART MAP』(ギャラリー16→ギャラリーココ→アートスペース虹→ギャラリーすずき→ヴォイスギャラリー)
『COLORS 色彩とファッション』(京都国立近代美術館前)
『畠山直哉』(大阪成蹊大学芸術学部ギャラリーB)
『コピーの時代』(滋賀県立近代美術館)
『「アメリア・アレナス」特別集中講義』(京都造形芸術大学)
『私あるいは私』(ボーダレス・アートギャラリーNO-MA展
『昇天する家具 田名網敬一』(graf gm)→『田名網敬一×宇川直宏』(キリンプラザ大阪)→『フランク・ブラギガンドのアートワーク見学』(恵美須町駅)→新世界アーツパーク→『わたしたちの万博』展(ダーチャ)

 いやー、けっこう行ってますね。
 で、最も刺激的だったのが、京都国立近代美術館の『COLORS 色彩とファッション』。デザイナーのVIKTORS&ROLFによる展示自体も刺激的であったが、何より担当学芸員である河本信治さんのお話が大興奮ものであったのだ。
 河本さん自身は、いわゆる“お洋服大好き人間”ではない。もちろん、ファッションや色彩に対して豊かな知識を持っておられるが、それは「ファッション」というお題を与えられた結果として得たことにすぎない。私が感動したのは、河本さんの物事を理解していく時の思考の組み立て方、現象を把握していく態度だ。
 たとえば、“ファッションをメディアとして見る”ということ。フォルムや素材といったこれまでのファッション論に馴染まない自分を自覚し、自分に引きつけるための立ち位置を探し出す。そして、その位置から見ることを実践し、考えていく。そういう発想の組み立て方自体に非常に大きな刺激を受け、同時にとても勇気づけられたのだ。
 たぶん、河本さんが提示したのは、ファッションあるいは色彩に対する“新しい地図”なのだ。もっといえば、現代美術や現代社会に投げかける“新しい地図”なのかもしれない。

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 既成の地図になじめない自分を知ること。新しい地図を作ること、作ろうともがくこと。そんなことを、9年前にもやっていた。
 1995年に『震災と美術を巡る20の話』というインタビュー集を発行した。これは、阪神淡路大震災が起こった後、アーティストや学芸員、ギャラリストなど、美術に関わる人達が、「震災」という事件をどのように受けとめ、どのように行動したのか/行動しなかったのかを問いかけたインタビューだった。
 その当時、テレビや雑誌の報道は、震災の被害とボランティア的に活動する人たちばかりだった。その時の違和感は今も覚えている。
 「震災」は、倒壊した家や避難所にいる人たちだけに起こっているのではない。“何もしない”“チャリティを拒否する”という態度の中にも、震災は起こっている。そういう立ち位置を定めて、“新しい地図”を作りたかった。実際に20人にインタビューして、それらしきものは作れたのかもしれない。だけど、9年後の今にその地図はつながっているのだろうか…。

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 同じ京都造形芸術大学のASP(アートプロデュース)学科の授業をふりかえる。ここでは、美術運送専門の業者に講師に来ていただき、美術品の梱包や額のかけ方についてレクチャーと実践を行った。最後はギャラリーの展示現場を見学し、少々のお手伝いをした。
 面白かったのが、梱包の時間。学生が家から持ってきた物を包む実践をしたのだが、ある学生のグループは、塩化ビニール製のガメラを持ってきた。日頃は、テレビの上にポンと無造作に置かれているものらしい。
 これを両手で運び、観察してキズやひび割れの有無を確認する。そして、頭、手足、長い尾にクッションをつめながら包んでいく。最後に中性紙と綿のふとんにつつまれたガメラは、本体の3倍ほどの大きさになった。
 面白い現象が学生たちの中に起こった。ガメラのオモチャがどんどん変容していくのだ。“格が上がる”とでもいうのだろうか。なんだか、すごい美術品のように思えてくるのだ。
 物を観察する(美術館で作品として見るのではなく)、物を両手で大切に扱い、包んでいく。そういう“態度”の中で、“作品”は作られていくのではないか。
 もちろん、美術梱包という技術は、美術作品を扱うために発展してきた。が、計らずも授業の中で見えてきたことは、物の価値は人の態度によっていかようにも変容するという魔法のような現象だった。
 もちろん、この魔法はとても弱々しく、梱包から解かれたガメラは、今頃またテレビの上にポンと無造作に置かれているのだろう。また、魔法が強すぎても、“態度”はイヤミな権威主義にもなるだろうし。
 それでも人の態度と物の価値の関係は、面白い。
 たぶん、私は、「展覧会」を作品の質や作家の名前ではなく、美術史の流れの中でもなく、作家のコンセプトからも逃げ出して(逃げ切れるもんじゃないが)、企画者と鑑賞者の“態度”として読もうとしているんじゃないだろうか。
 あ〜あ、迷子になるはずだ。誰もやってないもんな、そんなこと。だいたい「美術」の中でそんなことが可能なのか? そのこと自体、「美術」に対面する態度じゃないもんなぁ。。困った。迷子だ。

 物の価値を人の態度で読んでいくこと。これは、私が絡め取られているアウトサイダー・アートに関わる問題だ。

 最後に、大阪成蹊大学芸術学部の学生たちによる“知的障害者施設すずかけ作業所プロジェクト”を報告してみよう。授業自体は前期で終わりなのだが、学生たちにとってはこれからが本番。9月にこれまで彼女たちが得てきた経験そのものを展覧会として友人や家族に見せようとしている。
 ここに至るまで、彼女たちはかなり悩んでいた。
「すずかけ作業所のメンバーたちは、『人に見せたい』から絵を描いているわけではない。なのに、私たちが一方的なお節介で展覧会をしていいのだろうか。私たちが感じている魅力は作品にあるのだろうか。彼ら自身にあるんじゃないだろうか…」
 そういうことを話し合っている様子は、とても初々しい。人に対するまっとうな“態度”だと思う。
 すずかけにMさんという男性がいる。彼が描くものは、たわいもない落書きのような図柄で、何を描いてもほぼ同じ。これが、学生たちに大人気なのだ。そして、うるさくて甘ったれで、どーしようもないMさん自身も大人気なのだ。Mさんも学生たちが大好きで、特にお気に入りの女学生が来ないと、ライオンのぬいぐるみを抱いて「今日は描かへん」とすねてしまう。そして、彼女がくると一変して、お馴染みの図柄を大量生産するのだ。
 おそらく、学生たちはMさんとの信頼関係を通して「展覧会を開く」ことの意味と意義と喜びを見いだしたのだ。それは、私が今まで見知ってきた「展覧会」とは、ずいぶん違うものだ。学生たちは意識していないだろうが、彼女たちが作ろうとしている呑気な、温泉のような「場」は、これまでの「展覧会」の土台をぐにゃぐにゃにしてしまう力を持っているかもしれない。

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 猫道先生は、あいかわらず迷子だ。せっかく先人たちが切り開いてくれた道を通らず、完成された地図を捨てて、ジャングルの奥へ奥へと自ら進んでいっている。どこに向かっているのか、何があるのかも分からない。そして「新しい地図」は作れるのだろうか。迷いはつきない。いつまでも。

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