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6月3日(木)彼らと出会うことで何が変わるのだろう?学生達へのメール手紙 |
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山下です。
先週はお休みしてすいません。
昨日、すずかけに別件の用事で行った時に、班長さんに「おや、先週はこなかったですね」と声をかけてもらいました。うれしいような、照れくさいような。
お休みの間に、うだうだと考えていたことがあります。
私は、この大阪成蹊大学芸術学部のプロジェクト演習だけでなく、他の場面でも何度かアウトサイダー・アート、つまり正式の美術教育を受けていない人達(知的・精神的に障害のある人をふくむ)の表現行為について話す機会があるのだけれど、何か、上手く伝わっていない感じがある。
どうしてだろう。
どこかに、なにか、ずれがある。
なんだろう……ちょっと鬱々と考えてみました。
ちょっと長いけれど、おつきあいください。
みんなが、すずかけやあとりえホッパーのメンバー達と出合って、何かよきものを受けとっている。それは、みんなの表情を見ていれば手に取るように分かる。みんな、生き生きして、いい笑顔になっている。びっくりするぐらいその表情は豊かで美しい。言葉にすると、けっこう気恥ずかしいけど、そう思う。
私にとっての、一番の、驚きと、収穫は、みんなのそういう変化。本当は、ここで終わるのが一番シンプルで、一番いいカタチなんだろう。
だけど、一応、“授業”という名目なので、何かをしなくちゃいけない……らしい。
そこで、何かがずれる感じがする。
「私が彼らにしてあげられることなんて、何もないのでは?」
そういう声が聞こえる。正直な声だと思う。当たり前だと思う。その言葉が出る背後には、
「彼らに何をしてあげなくては!」
という思いがあると思う。そこに、障害のある人と関わる理由、正当性(?)を見いだして安心できるのだと思う。私も同じ。
私も、今、「先生」とか呼ばれるようになってしまったけれど、いつも「私が学生にしてあげられることなんて、何もないのでは?」と思う。
そして、やっぱり「何もない」のだ。もう、高校も卒業した“いい大人”の他人にしてあげられることなんて何もない。かろうじて、私は他の仕事で得た経験と人脈を分けて「先生」業としている。あとはぼーっとみんなを見ているだけ。
すずかけのメンバーもまた、年齢を重ねた“いい大人”であって、若輩者の私たちが「してあげられること」は何もないよう。やっぱり。彼らが次々と絵を描き、作品を生みだしていく様を見ているしかない。
じゃあ、私たちは何のためにすずかけにいくのだろう。
答えは人それぞれ。自分で探してほしい。
ちなみに私は、自分のために行っている。自分が気持ちいいから。楽しいから。時々、お菓子もご相伴できるしね。
でも、その気持ちよさが、なんですずかけの外にもないのだろう、と思う。なんで、特別な“施設”の中でしか、私たちは体得できないんだろう。ちょっと腹が立つ。
その腹立たしさ、苛立ちを解消したくて、おそらく私は『図鑑天国』を企画したのだと思う。他にもいろいろ思惑はあるのだけれど、一番の動機はそこだと思う。
すずかけや沖縄で出合った障害のある人達の、何とも言えない“おかしみ”や“すごさ”や“気持ちよさ”を、他の場所でも経験したかったし、他の人にも感じてほしかったのだ。それが障害のある人達にとって「いいこと」だったのかどうか、分からない。おそらく、彼らに何ら影響を及ぼさなかったのではないだろうか。反省もこめてそう思う。
たとえば、指導方法で知的障害のある人の作品や生活がどう変わっていくかを研究する人もいる。有意義なことだと思う。でも、それだけでは足りなくなってきているように感じる。
見るべきことは、障害のある人と出会った「自分自身」や、周りの友人にあるんじゃないだろうか。知的障害のある人がいることで、彼らと出会うことで、健常者が「どう変わったか」。あるいは地域や社会がどう変わっていくのか。変わる可能性があるのか。それはどんな未来なのだろうか。
本当に見るべきものは、そこなんだと思う。
このプロジェクト演習がどんな着地点を持つのか分からないけれど、彼ら(すずかけやあとりえホッパーのメンバー達やその作品)にまだ出会っていない人達を視野に入れて、その人達を変えていくようなものであってほしいなと思う。
その方法は、商品開発であったり、展覧会であったり、コラボレーションによる制作であったり、ワークショップやトークショー………とにかくなんでもOKだと思う。
たったひとりでもいい。身近な友人や家族を変えていくような着地点を私たちが持てたら、すごくいいな、と思う。
いやはや、年寄りの長話になってしまった。なんだか、まあ、そういうことをうだうだと考えているわけです。お休みの間に。
じゃあ、また明日。すずかけで。
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